「会津若松旅行」随想録

 ただの「旅行記」でもよかったんですが、色々と旅行とは直接関係ないことも書いているので「随想録」にしました。

2/26の夕方、まずは大阪の天王寺までJRで。ここから近鉄の夜行バスで福島県の郡山まで向かう。夜行バスの名前は「ギャラクシー号」。この時点で松本零士作品ファンでもある私は思わずニヤリ。「銀河鉄道」は英語で「Galaxy Express」と呼ぶのである。

その夜行バスに無事乗り込み、出発は20:10。バスなのでなかなか寝つけず、・・・と思ったらいつの間にか寝ていたという感じで(結局AM1:00過ぎに寝たらしい)、気がついたら福島県入り済み。須賀川という場所が最初のバス停だった。

須賀川の次が郡山。7:15分頃「郡山駅前」で下車。駅の中の喫茶店で朝食を取る。メニューはチョコソースがけホットケーキとオレンジジュース。その後会津若松までの切符を取り、8:30頃快速で磐越西線を西へ、いよいよ会津若松に向かう。

その電車がまた良かったのだ。色は違うが、999の客車を思わせる「垂直不動かつ四人で向かい合う」背もたれ。このタイプ、「椅子の快適性重視」の九州や関西ではもうなかなかお目にかかれない。ともかくこの時点で私は内心\(^o^)/である。
電車の速度は「時速130kmですっ飛ばすJRの新快速」に乗っている関西の人間からすればかなり遅いが、その分外の景色がゆっくり見られて良かった。途中の停車駅である猪苗代の付近はまだ一面真っ白。雪がかなり残っていて、見ている分には綺麗だった。「雪だ雪だ!」と騒いでしまいそうになったのは、私が南国の人間だからだろう。

そんなこんなで9:45頃、会津若松駅到着。ターミナルビルがないことにちょっとびっくりするも、改札口を出てすぐのところにいる観光案内のおばさんに「如来堂」の場所について訊く。でもって彼女の言うとおりバスに乗って「黒川」で下車。

 下りたらバスの進む方向に少し歩いて、最初の曲がり角を左へ。あとはひたすら直進する。
 言っておくが、道路の両脇は七割方田んぼである。それが延々二十分は続く。なので「これでいいのかな」と思う人もいるかも知れないが、そこは某川平氏よろしく「いいんです」。近くになったら立て看板があるのでそれを参考に。そこまではひたすら真っ直ぐ行くこと。

 如来堂は周りから少し盛り上がった、小さな高台の上にある。ここを守っていた斎藤さん以下十数人の新撰組隊士が、維新政府軍に襲われて全員戦死──と思われていたが、斎藤さんだけは生き延びていたという場所である。「新撰組殉難の地」の石碑もあり、ファンなら行っておいて損はないだろう。

 現地を見た限りでは、はっきり言って「囲まれて白兵戦や銃撃戦をやられたら、いくら斎藤さんでも生きていないだろう」というのが実感である。百人ほどで取り囲める程度の高台、しかも「田んぼの中にぽつんとある」という感じの高台で、文字通り四方から取り囲めるため逃げ場はない。崖から落ちて死んだと思った、というほどの崖ももちろんない。では何故「死んだと噂されたのに生きていた」ということが起きたのか。以下私なりの仮説である。
 「如来堂の戦い」は、実は砲撃などが攻撃の中心で、銃撃戦はあっただろうが接近戦、つまり剣での戦いは殆どなかったのではないか。砲撃や銃撃であれば、一人程度なら物陰に隠れて生き延びることも可能だが、接近戦をやるということは敵に自分の姿を見せるということでもあり、一人と戦っている間に別人の銃でやられる、もしくは背中から斬られることもあり得るからだ。とどめを刺さなかったとかいう人為的なものならともかく「死んだと思ったのに生きていた」というのは起こりにくい。また維新政府側も、新撰組相手に敢えて接近戦をやろうとは思わなかったはずだ。新政府軍がその場にいた隊士たちに向けて一斉射撃をやり、斎藤さんは幸運にも致命傷を免れて生き延びた──というところが真相のように思う。

 次に、斎藤さんのお墓のある阿弥陀寺に向かう。如来堂に行く際に乗ったバスの帰りの便で「七日町駅前」で下車するとすぐだ。左側にある戊辰戦争で死んだ会津藩士のための慰霊碑の隣、ちょっと行ったところにある。間違っても奥の墓地を探さないように(^_^;。
 両方お参りして、斎藤さんのお墓の前ではこのサイトのことも報告&お詫びしました。弁解不能なほど史実と設定や解釈が違いすぎるので。でもってちょっと気になったのが斎藤さんの息子の妻である「藤田みどり」以降の墓誌がないこと。どこかに移られたんでしょうか?

 その後、「七日町通り」を歩いて色々見物。途中「じねん亭」で昼食。会津の料理として有名な輪箱飯(わっぱめし)を食べる。ご飯が黒米という古代からのお米を使っているので有名なところ。最後まで湯気が立っていて、温かくて美味しかった。お店の人に関西から来たと言ったら、向こうが「サービスです」と言ってようかんとイチゴをデザートにくれた(これは、私が「どう見ても小中学生にしか見えない体型と顔」だということも影響しているかも知れない(爆))。この場を借りてお礼を言いたい。ここを出たのは午後一時頃

休館だった「レオ氏郷南蛮館」は後日行くことにして、七日町通りから「野口英世青春通り」に抜ける。世界的に有名な医者の野口英世が、この通りにあった病院で手術を受け、書生として青春時代を過ごしたということから命名された。そこにある「野口英世青春館」も見学。ペルーのフジモリ元大統領が現役だった頃に来たらしく、その写真もあった。黄熱病の研究はまさに命がけだった模様で(彼は実際に死ぬのだけれども)、アメリカからアフリカに行くかどうか、奥さんにも反対されて悩んでいた頃に使っていた椅子も公開されていた。

 後は真っ直ぐ鶴ヶ城へ。距離はあるが、歩くのは結構楽しいし好きである。途中に「吉田松陰が二度も泊まり、土方歳三が負傷した足の治療をした」宿屋跡の看板があったのだが、これを読んだとき「松陰が生きていたら」と思ってしまった。会津藩の藩校は日本最大級で、優秀な学者も多く、ために松陰は二度も立ち寄ったのであり、彼が生きていれば弟子たちの行動も違っていたかも知れないからだ。
 鶴ヶ城到着後、冬のため、お堀を回って裏からお城の中へ。この鶴ヶ城は現在進行形で復元工事が進んでおり、去年復元された施設もある。城の中は博物館と展望台になっていてかなり時間がつぶせる。博物館の方には歴代藩主の紹介や戦国以前のことも展示され、意外と「幕末維新関係の展示」は少なかったように思う。それでも孝明天皇のご宸筆などが展示され、興味深かった。
 城の名前は、正式には大河ドラマ「伊達政宗」(ふ、古い(^_^;)で出てきた蒲生氏郷による命名で、実際に築城したのも彼で、「若松」という町の名前もつけている。キリシタン大名でもあり、上の方でちらっと出てきた「レオ氏郷」の「レオ」は洗礼名だそうだ。ついでに言うと氏郷は町の基本設計も決めており、要するに江戸の頃に保科正之が会津藩主になったときは、既に会津藩の基礎はかなり出来ていた状態だったらしい。とは言え幕末までその藩の勢力を維持できたのだから、歴代の藩主もそれなりに有能だったことは間違いない。

 お城の見学が終わったのはPM3:10頃で、その後麟閣という茶室に行く。もとは蒲生氏郷が茶の師だった千利休の子供である少庵をかくまった際に作られたもので、その後の藩主も保存していたようだ。平成二年に復元されたもの。その後櫓跡の上にのぼったりして遊び、敷地を出てバスに乗ったのはPM5:00頃だった。

泊まったのは会津若松駅前にある、駅前フジグランドホテル。夕食もそこの三階にある中華料理の「黄鶴楼」で食べた。中国人がシェフをやっていると取り上げられていたお店で、実際美味しかった。回鍋肉と麻婆豆腐とリンゴ酒、ご飯で消費税込み1600円余りだった。食べる料理やお酒にこだわらなければ1380円でセットがあり、決して高くはないと思う。

翌朝、九時半発のバスで会津武家屋敷まで行く。最初に家老屋敷を見て洋子の生活をあれこれ空想。後で案内資料を見たら千七百石という大身の家老の屋敷だった模様。会津歴史資料館や大がかりな精米所なども見学し、京都見廻組の佐々木只三郎のお墓参りもした。更に「暮らしの歴史館」を見学した後、お土産屋さんで720mlのお酒を二本購入して福岡まで送ってもらうことに。神戸に一週間ほどいた後、実家まで帰るので、その時親と一緒に飲む予定にしている。なのでまだ飲んでいない。

 武家屋敷を出た後、土方さんが建てたとされる「近藤勇の墓」に。結果としてこれが今回の旅行の中で一番きつかった。
 とにかくひたすら登る。「いにしえ夢街道」沿いにある300mという案内の立て看板に騙されてはいけない。それがずっと上り坂なのだ。しかも途中から雪の上を歩く羽目になり、こけなかったのが不思議なくらいである。着いた時には既に相当汗をかいていた。隣には土方さんの慰霊碑もあり、一緒に手を合わせた。

 その後坂を下って夢街道に戻り、「桐屋夢見亭」に入る。会津自体がかなりの蕎麦どころなのだが(斎藤さんのかけそば好きの一因はこれ?)、ここはその中でも全国区でかなり有名なそば屋さんだ。頼んだのは「そばもちセット」というメニューで、ざるそばに五種類くらいの餅から一種類を選んで頼む、というもの。あん餅にしたらこれが見事にヒット(^^)。
 餅の周りにこしあんがかかっている感じなのだが、私のような甘党の要求にも応えられるだけの甘さなのにしつこくないのだ。おそばももちろん美味しかったし、そば茶にそば湯も飲めた。今度行く人は「そばビール」を試して欲しい(爆)。でもってそこを出たのは一時半過ぎ。お店の人の話に従うと、飯盛山に着いたのは多分二時頃だろう。

 さて飯盛山。冬なのでスロープコンベアは使えない。ではどうするのかというと、白虎隊記念館からさざえ堂の方に抜けて、そこから行くのだ。多分夏は帰りのルートになるのだろうが、行ったことのある方はあれを逆に行くと思ってくれれば間違いない。さざえ堂で螺旋通路を体験した後、白虎隊士の墓にお参りする。周囲にはなんとローマ市から戦前に贈られた、イタリアのポンペイ遺跡から掘り出された石を使った石碑まであり、これが一番驚いた。そこから少し行くと「白虎隊士自刃の地」もあるが、曇っていて市街もよく見えず、彼らの精神状況を想像するのは難しかった。

 戻って「白虎隊記念館」「白虎隊伝承史学館」を見学。規模としては「記念館」の方が遙かに大きいが、斎藤さんの写真が拝めるのは「史学館」の方である。でもって斎藤さんの写真は、話に聞いていたのから変わっていた。明治期の、警視庁の制服を着た全身が写ってる写真で、研究者の赤間氏からの寄贈品だそうだ。ある意味でるろ剣の斎藤さんに一番近い写真でもある。

 その後、旧滝沢本陣へ。会津〜日光街道沿いにあるので、普段は藩主の参勤交代時に着替えるために使われていたようだが、会津戦争では文字通り「本陣」として使われた。弾痕や刀傷などが生々しく残り、砲弾の破片が埋まっている柱もある。

 それから泊まったのとは別のホテルの和食堂「三十三間堂」で、郷土料理の「鰊の山椒漬け」と「田楽」を食べ、地酒の「会州一」を飲む。「会州一」は多分万人向けのお酒でやや辛口。鰊の山椒漬けはお酒に合う。田楽はいわゆる「味噌田楽」なのだが、三串あって味噌がそれぞれ違っていて美味しかった。

 三日目は、前二日間で行き損ねた漆器店併設の「白木屋資料館」「レオ氏郷南蛮館」に。今まで漆器の産地と言えば輪島しか思い浮かばなかった私も何だが、会津塗というのはその道では結構有名らしく、高級品も多かった。資料館では漆器の作り方や作るための道具なども紹介されており、一見の価値はあるだろう。

 南蛮館は一階がお土産屋さんになっている。二階に上って見学。信長の安土城を思わせる部屋の作りになっており、西洋・アラブ系の人物が描かれた襖絵も展示されている。もう一方の部屋は壁に色々説明があった。氏郷はもともと近江(滋賀県)の小領主の息子で、人質として信長のところに行ったのだが、信長は一目で彼が非凡な人物であることを見抜いたのだろう、初対面の場で自分の娘を氏郷(当時は別の名前だったが)の嫁にやると発言し、数年後には実行。その間元服親にもなっている。後に氏郷は信長の武将として武勲を上げる。
 本能寺の変後、氏郷は明智光秀が攻めてくることを予期して自らの城に安土城から信長一族を避難させた。光秀を討ったのは言うまでもなく秀吉で、信長の後継者として頭角を現していくことになるのだが、この付近の事情から氏郷の死には暗殺説もあるほどだ。

 その付近の活躍ぶりについて書かれた本が一階にあり、予想以上に面白くて読みふける。気づけば12時過ぎ。おまけにその後氏郷の墓参りまでしてしまったので、PM1:31発の快速電車に食事して間に合うか微妙な状況に。仕方ないのでファーストフードで昼食。結果としてはどうにか間に合い、行きと同じ列車で郡山まで戻る。乗車中に「汽車は〜銀河を〜越え〜♪」と999の主題歌(しかも二番(爆))を鼻歌で歌っていたのはご愛敬ということで(^_^;。

 これ以降は新幹線乗り継ぎ。まずは東北新幹線に乗って東京まで戻るのだが、普通車の指定席にカタログ風の雑誌があるのにまずびっくり。東海道・山陽新幹線ではグリーン車にしか置いてないのに。山陽新幹線オンリーのひかりレールスターにだけでも置いてくれ、JR西日本。暇つぶしに見るから。
 東京駅到着後、東海道新幹線に乗り換えて新大阪に向かい、神戸の家に帰り着いたのは午後九時頃だった。

 実は神戸に帰ってこれを書くためにるるぶを見ていたら、また行ってみたくなってしょうがないのである(^^ゞ。今回、観光は市内の分にほぼ絞ったので、郊外にある会津藩校日新館も見ていないし、会津村も見ていない。のみならず市内にあるお酒関係の博物館・資料館も見ていなければ、温泉にも入っていないし、食べ損ねたものもかなりある。田楽専門店やラーメン屋にも行き損ねた。小説に決着が付いたら、報告も兼ねてまた行くと思う。

 

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