るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十三 洋子のいない日

 「──では」
初冬の早朝。門まで見送りに来た近藤に、お常が一礼する。洋子がその横で
「じゃ、行って来ます」
内心の喜びを隠しきれない様子で頭を下げた。今日は二人で一日外出だ。
「行ってらっしゃい」
沖田が応じ、二人は後ろを向いて歩き出した。
 今日はお常の親戚の七回忌だ。まだ近藤と結婚する前に死んだ親戚で、お常が良くして貰っていたらしい。言うなれば里帰りだが、日帰りという事になると試衛館に戻るのが夜になるので物騒になる。そこで洋子が護衛代わりを買って出たというわけである。
「しかしあの子、大丈夫かなあ」
「自分で希望して行ったんだ、死んでも自業自得だろう」
道場に戻りながら呟いた沖田に、どこから現れたか斎藤が応じる。
「ま、お常さんさえ無事なら、あいつが死のうが生きようが俺の知ったことじゃないさ。──久しぶりに一汗かくか、沖田君」
「そうですね、たまには」
頷いた。斎藤は洋子にほとんどつきっきりなので、こういう時でないと自分の稽古が出来ない。いや、洋子との稽古も最近は実戦形式の立ち合いが半分以上なので一応やってはいるのだが、やはり実力の差は歴然としていて『やってるうちに入らん』らしい。

 

 「やっぱり、洋子がいないと静かだよなあ」
と、原田左之助が誰にともなく言った。あと四半刻(三十分)ほどで正午、昼食という時間帯である。いつもなら最初の立ち合いが始まっている頃だ。
「言われてみればそうだな」
永倉新八が応じる。いれば、とっくに最初の一騒動が起きている。大体稽古を始める前にまず喧嘩する二人なのだ。この一年、ほとんど毎日そうである。
「──どうも妙だな、この静寂は」
と、別の場所で藤堂平助が呟いた。道場の縁側や庭から響く、いつもの騒音。それがないと不思議な感じがするのだ。斎藤は一見平気な顔で、他の門人たちに稽古をつけている。だが、洋子相手のように竹刀でぶっ叩いたりはしない。さっきまで沖田と汗だくになるまで稽古をしていたので、少し疲れているのかも知れないが。
「──よし、昼飯だ」
塾頭の土方が言った。確かお常が皆の昼食用におにぎりと吸い物を一人分ずつ作っているはずで、弁当を持ってきたり家に帰って食べたりしない者は、それを食べることになる。
「随分、態度が違いますねえ」
沖田はそう、小声で斎藤に言った。厨房まで行って自分の食事を運ぶ。
「何の態度が」
「嫌だな、言わなくても分かるでしょう。稽古をつける態度が、ですよ」
斎藤は苦笑した。沖田は続けて
「多分、洋子さんが見たら怒りますよ。何で私にだけって」
「怒る奴は怒らせておくさ。刃向かったら叩きのめす」
実際、ガキの稽古に付き合ってやってる分だけ感謝しろというのが斎藤の本音である。それも毎日、ほぼ一日中だ。剣の修行に関してはあいつは恵まれた環境にある、と彼は本気で思っている。ある意味でそれは事実なのだが、本人が納得するかどうかは別だ。
《少しは誉めてあげればいいのになあ》
喧嘩する二人を見ながら、常々沖田は思っている。斎藤がほぼつきっきりで教えているのも、実は洋子に剣術の才能があるからだ。端から見ればそれは明らかなのだが、やられっ放しの当の本人には自分に才能があるかどうかも分かっていない状態である。だから時折、剣術止めようかなどという相談を沖田に持ちかけたりするのだ。
「そんな風だから、毎日喧嘩が絶えないんですよ。もう慣れましたけど」
と、皮肉混じりに言ってみる。だが相手は平気な顔で
「慣れたんなら別にいいだろう。問題はないさ」
実は問題大ありなんだけどなあ、と沖田は思った。洋子の不満や悩みを聞いているのは専ら自分であり、斎藤は何もその付近には携わっていない。不満の中身はほぼ斎藤関係のことであり、沖田としては訴え仏の身にもなって欲しいのだ。それも不満だけならともかく、最近は時折自信を失いかけているような様子である。
「そりゃあ僕たちはいいかも知れませんけど、洋子さん本人にとっては問題あると思いますよ。毎日毎日叩きのめされて、あちこち傷だらけで」
「初めから俺の言う通りにやらないあいつが悪い」
斎藤はそう言いきった。出来る出来ないを口で言う前に、まずやってみろというのが基本的な彼の方針である。別に何時間かかろうが、真剣にやっていれば気にはしない。もともと最初から完璧にやれないのは分かっている。第一、普通の道場なら文句を言った時点で破門か一時追放かの処分が待っているのだ。
「別にそんなことじゃないですよ、僕が言ってるのは。午後の立ち合いの方です」
相手の台詞に、斎藤はそちらを横目で見た。

 「何もあんなに本気でやらなくても、あの子の場合上達するんじゃないですか。もともと才能はあるんだし」
「──あいつが何か言ったか」
沖田を見る視線が、険しさを帯びる。
「嫌だな、そんな目で見ないで下さいよ。ただ、最近洋子さんは何か口実を見つけては稽古を抜けようとしてますからね。それじゃあ本末転倒だろうと」
実際に抜けられるのは斎藤が新吉原や岡場所に行っていていないか、今日のように『教養があって、護衛もできる人物』が要るときに限られる。しかも前者の場合は神道無念流の練兵館に出かけているので剣の稽古そのものを怠けているわけではないのだが、彼を嫌っての行為であることは間違いない。
「それはあいつ自身の問題だろう。後で困るのは自分だ」
斎藤は、あくまでも突き放した考え方をしている。実際、なりたくて師匠になったわけでもないのだ。辞めたいなら辞めるがいい。
「その割に、連れ戻しには行くんですね」
洋子が練兵館に行っていると、昼食時に必ず斎藤も連れ戻しに行くのだ。それを指摘され、彼は珍しく言葉に詰まってしまった。自分でも当然のように連れ戻しに行くのだが、よく考えると言行不一致も極まりない。
 やや冷気を含んだ強い風が、二人の歩いている廊下を吹き抜けた。
「──そう…だな」
返事が出来ない理由が、この時自分でも分からない。沖田はクスッと笑った。
「だから、少しは態度を変えたらどうなんです? そしたら喧嘩も減るでしょうに」
その笑顔のまま提案した。斎藤は少し考えて
「態度を変える、か。今更それは無理だな。あいつが今以上につけ上がる」
「そうですかねえ」
自分に対しては素直な洋子を思い浮かべ、沖田は頭をひねった。
「そうさ。──それにだ」
と、斎藤は口調を改めた。
「大体、俺との勝敗を上達の基準にする方が間違ってる。まかりなりにも俺はあいつの師匠だ。師匠が弟子に負けてどうする」
「……聞いてました? ひょっとして」
いきなり核心を言われて虚をつかれた格好になり、沖田は訊いた。
「さてな。ただ、俺だって伊達に師匠はやってない。あいつが何を考えてるかくらい、お見通しってことだよ」
そこで食事室に着いた。居候・門人合わせて十数人が食事を取る部屋だ。さっさと中に入る斎藤を、一瞬遅れて沖田が追った。そして
「洋子さんが聞いたら、分かってるんなら対策取れって言う所でしょうね」
「言いたい奴は言えばいい。変える気はないが」
言い捨てていつもの場所に席を取る彼を沖田は見て、肩をすくめてしまった。