るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の八 出稽古

 洋子は独りでに目が覚めた。まだ外は薄暗い。
「今日斎藤さんいないんだよね。もう少しゆっくり寝とこう」
昨日の午後から、斎藤は出払っている。前にいた道場での剣客仲間の仕官先が決まった祝いとかで、新吉原か岡場所かに行っているらしい。相変わらず斎藤に叩き起こされるのだが、起こす人間がいないと気楽なものだ。
 そのまま目を閉じ、またうとうとし始めた。と、その時。
   ガッシャーン!!! 
台所の音で、一気に目が覚める。慌てて飛び起き、取りあえず簡単に着替えて洋子はそこに直行した。料理の下手なお常のこと、何か落としたに違いない。

 「あーあ、ゆっくり寝るはずだったのに」
食事の準備を手伝いながら、洋子は小声でぼやいた。
「しょうがないよ。あんな音したら、誰だって目が覚めるさ」
沖田が慰める。二人して食堂にお膳を運んでいるのだ。
「あれでお常さんが怪我してたら、朝御飯抜きだったんだから」
ご飯茶碗を一つ落としたのだが、不幸中の幸いで人的被害はなしである。少し遅れる程度なら何でもない。
「そうそう、今日永倉さんが神道無念流の斎藤弥九郎道場に出かけるんだって。洋子さんもついていったら? 斎藤さんには僕が話すから」
食堂の角を曲がる。近藤、土方はじめ数人が来ていた。永倉もいる。
「永倉さん、今日出かけるとき洋子さんも連れていってくれません?」
 洋子の承諾を得る前に、沖田は永倉に提案していた。
「斎藤さんには、僕が話しておきますから。他の道場の子と試合してみたいって、前からあの子が言ってたんですよ」
「ああ、それはかまわんが…」
そう言ってお膳を並べている洋子の方を見やる。振り返って軽く一礼した。
「そうだな、いい経験になるだろう」
実のところ彼女にしても、たまには斎藤の無茶苦茶な稽古から逃れてみたいという願望がある。並べ終えた頃に周斎が出てきて食事が始まったのだが、食べる速度はいつもよりずっと速かった。

 

 「じゃあ、行って来ます」
と、洋子は言った。沖田が見送りに出ている。
「斎藤さんには、ちゃんと言っておくから。心配しないで」
「はーい」
洋子は機嫌がいい。自分の荷物を竹刀で肩に掛け、永倉と出かけていった。それを見送った沖田は、道場に戻る途中で一人呟いた。
「大人しくしてるかなあ、あの子」

 

 洋子はくしゃみをするでもなく、無事に神道無念流の道場に着いた。格好からして出稽古ふうなので、誰も喧嘩を吹きかけない。
「おはようございます」
と言って、二人は中に入った。
「永倉先生!」
永倉新八は、神道無念流では免許皆伝である。従って待遇もそれなりに良く、ついてきた洋子ともども道場にすんなり入らせてもらえた。まずは奥まで行き、道場主の斎藤弥九郎に挨拶する。
「お久しぶりです、先生。お変わりなさそうですね」
「久しぶりだな、永倉君。──で、その子は」
弥九郎は洋子を鋭い目で見やって訊ねた。
「以前お話ししたことがあるかも知れませんが、私が今、世話になっている道場に住み込んでいる弟子です」
「天木洋子です。お世話になります」
頭を下げる彼女に、弥九郎は笑顔を見せた。
「お洋さん、でいいのかな。まあ今日は軽く手合わせして行きなさい」
「はい、そうします」
再び頭を下げて、洋子は道場の隅に腰を下ろした。物珍しさも手伝って、程なく数人が集まってくる。
「ねえ、お洋さん。年いくつ?」
「十一です。老けて見えるって言われますけど」
男たちは笑った。十一で老けるもくそもない。
「大人に見えるってことだよ、それは」
「そうですか? だったら嬉しいです」
洋子も笑う。中の一人が道場の中心を軽く指して
「じゃあ、僕らと手合わせしてみない?」
「あ、はい。よろしくお願いします」

 一応永倉から、こうした道場での作法は聞いている。通例三本勝負で、二本こちらが取ったら最後の一本は相手に譲るものらしい。胴丸を着て面をかぶり、籠手をはめて最初の一人と正対した。
「はじめ!」
洋子に気負いはない。何しろ普段斎藤にボコボコにされている身分である。強ければ勝つ、弱ければ負ける。後は礼儀を守ればいい、それだけのことだ。
 相手の竹刀が誘うように動く。敢えてそれに乗り、洋子は打ちかかった。見事に受け止められ、逆に押し返されるも洋子は落ち着いてそのままじっと待つ。相手が疲れて剣にかかる力が緩んだ瞬間、一気に押して相手をひかせ、怯んだ隙に籠手をビシッと打った。
「籠手!」
先輩らしい別の門下生が宣した。周りの十人ほどがおお、と声を上げる。
「あの子、結構やるなあ」
「なあに、次は与三郎だって負けないさ」
「──永倉君、あの子はどういう教えられ方をしている?」
弥九郎が、洋子を指してそう訊いた。
「斎藤一という男が、基本的に一対一で教えてます。──それが何か?」
「いや、あの年にしては強いと思ってな。しかし、個人教授とは……」
弥九郎の真剣な表情に、永倉は思わず軽く笑ってしまった。表情を引き締め
「申し訳ございません。──傍から見ていると、教えてるのか喧嘩してるのか分かりませんがね。とにかく騒がしいですよ」
「さもありなん、だな」
弥九郎の視線の先で、話題の種はすでに二本取ってしまったらしい。三本目、はじめ!の声がかかり、洋子が意図的に隙を作っているのが遠くからでも分かる。
「とにかく実戦重視ですからね、その男のやり方は。一日中打ち合って、一度も洋子が勝ったことがないという。おかげで毎日滅茶苦茶です」
道場傍の庭や縁側を稽古場に使っているのだが、何しろ竹刀が道場の中に飛んでくるわ洋子の怒鳴り声が聞こえるわ斎藤の一撃の音が響くわ、静かになったときは洋子が脳震盪を起こしてぶっ倒れた時くらいのものだ。一度など面まで飛んできた。
「それはそれは、行く末が楽しみなことだ」
弥九郎が笑って言った。かなりの跳ねっ返り娘らしい、あのお洋は。

 

 洋子の周りに人だかりが出来ている。思ったより腕が立つので、すっかり人気者になった。次の相手を誰がするか、で揉めているようだ。
「俺がやる!」
「ダメダメ。お前がやっても歯がたたねえよ」
「お前に言われたくないぜ、そんなこと」
などと言っているのを、洋子は笑って聞いていた。実を言うと、稽古相手など誰でもいいのだ。永倉がここである人物と待ち合わせをしているそうなので、その人物が来るのを待っている間に数人と手合わせできればいいのである。
「おいおい、何の騒ぎだ?」
奥から出てきた青年が、人だかりを見てそう訊いた。
「あ、桂先生!」
振り返った数人が、驚いた表情をする。かくかくじかじかと一人が事情を耳打ちすると、桂という名字のその青年は永倉の方をちらっと見た。見られた側は軽く頭を下げ、青年を苦笑させる。そのまま場の中心に進んだ。
「お初にお目にかかる、洋子殿。私は桂小五郎と申す者。ここの塾頭を務めさせていただいている」
「初めまして。天木洋子と申します」
口調に、微妙に訛りがある。どこの出身だろう、と洋子は思った。
「どうやら洋子殿と手合わせをしてみたいという人間が大勢いるようだが、誰と当たりたいというのはあるかな?」
いきなり屈んで問われ、洋子は少々面食らった。
「あ、いえ。そう言うのはないです。誰でもいいですよ」
「そうか。では、もし宜しければここにいる人間に一手ずつお教え願いたい。それが一番公平だろうし、審判は私が努めるゆえ」
「はい。皆さんがそれで良ければ」
こうして、洋子は異例の一本勝負五本ずつをやることになった。五本ごとに一回休憩が入る。子供と思って配慮してくれたのだ。
「では、最初の一本、開始!」
小五郎の一声で、手合わせが始まる。少し経った頃に
「ああ、永倉先生。いらしてたんですか。遅れてすみません」
と、ある剣客が姿を見せた。優しい顔の青年で、永倉よりまだ若い。
「神谷くんか。久しぶりだな」
そちらを見た小五郎がそう言った。永倉が立ち上がって迎えに行き、談笑する。と、洋子の方を見て間もなく近づいてきた。
「奥方は元気か?」
手合わせを中断して、小五郎は神谷という青年に声をかけた。
「ええ。ただ、最近悪阻がひどくて」
悪阻と聞いて小五郎は驚き、次いで相手の肩にぽんと手をおいた。
「めでたいな、それは。良かった良かった」
「そう言って頂けると光栄です。実はもう、名前も決めました」
まだ悪阻の段階で名前を決めることはないでしょう、と洋子は思ったが、小五郎は
「で、その名前は?」
「薫にしようかと。男でも女でも使えますし」
「神谷 薫か」
確かに男でも女でも通用する名前である。新婚そうそう子供が出来て、幸せの絶頂と言った感じの神谷という青年に、口を挟もうという輩はいなかった。
「で、この子が永倉さんが連れてきたお洋さんですか?」
「天木洋子です。よろしくお願いします」
そう言ってチラリと永倉の方を見た。弥九郎と話しているので、まだ大丈夫らしい。
「いい子だね。ちゃんと挨拶できる」
神谷は、前屈みになって彼女の頭をなでた。
「僕は神谷越路郎。よろしく」
にこっと微笑む。洋子も微笑み返し、そこで肝心なことを思い出した。
「そうだ、桂先生。続きやらないと」
この付近は普段の稽古での癖で、余り長話すると斎藤が問答無用で連れ戻しに来るので自然と挨拶だけで終わらせるようになってしまった。
「ああ、そうだな。神谷君も見ていかないか」
「はい、そうします」
この頃、神谷越路郎はまだ一流を立てる前だった。

 

 洋子は取りあえず一手ずつ終わり、休憩することにした。勿論全部に勝てるわけもないのだが、小五郎はごく公平に審判を努めてくれたので彼女としては不満もない。
「永倉さん、良いんですか?」
どうやら用事が済んだとなると、気になるのは帰りの時刻だ。
「大丈夫さ。夕方までいないと言ってある」
「あ、そうなんですか」
洋子の顔に喜色が浮かぶ。つまり夕方まで斎藤にしごかれずに済むと言うことで、嬉しいことなのだ。うまく行けば一日中稽古はないかも知れない。
「ちわーっす」
と、そこに子供の声がした。見ると、誰かが子供を連れてきている。
「どうも、斎藤先生に桂先生。うちの子がお世話になってます」
「ああ、石山さん。どうもお久しぶりです」
小五郎が頭を下げる。立派な服を着ているところを見ると、裕福な商人らしい。
「いかがです、お仕事の方は」
「はあ、ぼちぼちです」
と、その脇でいきなり大声が上がった。
「そこは俺の席だぞ!」
「やかましい、遅く来た人間が早く来た人間の席を取ろうってのが間違ってる。大体あんた、ここに入門してそんなに年月経ってないでしょ。そういう人間に席を指定する資格なんてないの。図々しい」
自分の息子が、見ず知らずの少女と喧嘩しているのに驚いて訊ねた。
「あのう、その…女の子は?」
「天木洋子と言います。永倉君の今いる道場に去年から住んでいて、今日たまたまこちらに来たんですが…」
と、小五郎が説明する。そして永倉の方を振り返り
「どうする? この喧嘩」
「放っておけ。審判は公平に頼むぞ」
やれやれ、と小五郎は肩をすくめた。と、竹刀のぶつかる音。
「こうなったら決着つけてやる!!」
斬りかかったのは石山家の方だった。洋子が真っ向から受け止める。
「こ、こら次郎。やめんか! 相手はお客だぞ!」
親が止めようとするが、次郎は聞かない。再度竹刀を叩きつけたが、相手は座ったまま受け止め、跳ね返した。そして立ち上がり、身構える。
「両名とも、中央へ出よ!!!」
小五郎が叫んだ。それで視線がこちらに集まり、事の真相が一度に分かってしまう。洋子は小五郎と永倉を同時に見た。どうやら本気を出していいらしい。
「三本勝負、石山次郎対天木洋子!」
並んで中央に出て面を被り、互いに相手を正視する。
「女だからって、容赦しねえぞ」
「へえ、上等じゃない」
洋子はそう呟いた。軽く笑う。
「一本目、はじめ!」

 洋子は中段に構えた。この際、三本みんな取るつもりである。相手の実力など、見ただけで見当がついていた。
「うおおおっ!!」
次郎が斬りかかってくる。三合ほどをかわした後、相手が間合いを取ろうとして一瞬ひくのを逆用し、完璧なまでの一撃を相手の脳天に叩きつけた。
「面! 一本!」
ものの見事に最初の一本を取り、洋子は面の中で笑みを浮かべた。油断さえしなければ、三本連取できるだろう。勿論、相手が二本でやめればそれでいいのだが。
「二本目、はじめ!」
次郎が再び身構えたのを見計らって、小五郎は宣言した。声が終わるか否かで相手が突進してくる。一本目とは比べものにならないほど斬り込みが激しい。
《かーっ、こりゃ怒らせたかなあ》
数撃を受け止めながら洋子は思った。とは言え付き合ってやる義理はないわけで、彼女はその場で数合を受け止めた。向こうの斬り込みが激しいだけに隙が多く、体勢を立て直すのに時間がかかるのでその間にこちらはどうにでも出来る。
 のみならず、早くも肩で息をし出した次郎に、洋子は妙な感覚を抱いていた。──どこかで見たことのある光景のような…。そう思っている間もなく、次郎の一撃が洋子を襲う。かろうじて受け止め、反動を利用して押し返す。そのまま逆に攻めに転じ、相手の防御の隙をついて袈裟斬りにした。小五郎が告げる。
「胴! 一本!」
《──この感触…》
彼女は自嘲気味の表情をした。何のことはない、立場が逆転しただけなのだ。
「それくらいで気が済んだだろう、次郎。御父君も心配なさっているようだし、今日はこの付近でやめにせぬか」
立ち上がった次郎に、弥九郎がそう言った。実際、今の二本で実質的に決着が付いているし、その結果は誰の目にも明らかだった。
「──私も、そうしてくれるとありがたいんだけどね。嫌いな奴と同じ立場にいるのも、あんまり気持ちのいいものじゃないし」
今の今まで戦っていた相手にまでそう言われては、少年としても止めるしかない。黙って頭を下げ、うつむいて隅の方の席に行った。洋子も自分の席に戻る。
「おい、次郎に洋子殿。まだこっちの用事は終わってないぞ」
と、小五郎は言った。

 「あちーっ!」
「あつつつつ……」
決着は決着、喧嘩は喧嘩ということらしい。「喧嘩両成敗」というわけで洋子と次郎はお灸を据えられてしまった。しかも隣同士で並んでだ。
「あーあ、喧嘩なんか買うんじゃなかった」
洋子が顔をしかめながら小声でぼやく。
「だったら、俺に席譲ってれば良かったんだ──いてて」
「それとこれとは話が別。大体…」
「あと一個据えてやろうか?」
と、永倉が意地悪く訊ねる。結構です、と短く洋子は答えた。
「とにかく、容赦するなんて言えるのはそれだけの実力差がある相手に対してだけだってこと。そうでなきゃ、負けた場合に自分が惨めになるだけよ」
斎藤はその容赦さえしてくれないけど、と洋子は内心恨み節のようなものを漏らした。

 

 やがて昼食の時間になる。洋子は朝食の残りで作ったおにぎりと漬け物を広げて食べ始めた。神谷が話しかけてくる。
「お洋さん、剣術習いはじめて何年目?」
「二年目になるかならないかです」
たくあんを飲み込んでから応じる。
「それであれだけか、凄いなあ」
「その代わり、毎日の稽古は無茶苦茶ですけど。でも上には上がいて、近藤さんとかは入門して一年もしないで免許皆伝してますから」
これは事実だ。だから近藤は周斎の家に養子に入れたのである。
「君が剣術始めるとき、周りは反対しなかった?」
反対するも何も、夜中に遊びのつもりで竹刀を振っていたら斎藤一に見つかって、それがきっかけで習う気もないのに稽古をさせられる羽目になったのである。そう説明すると、神谷越路郎は声を立てて笑った。
「じゃあ、周りは取りあえず賛成してくれたんだ」
「くれたなんてものじゃないです。周りが押しつけたんです、実際には」
「助けて貰った身の上で、よく言うな」
声と共に、竹刀が洋子の脳天を直撃した。脳震盪を起こして転倒する。
「失礼。午後の稽古がありますので」
そう言って、更に永倉に会釈し、気絶した彼女の身体を肩に担いで斎藤一は道場を出た。一瞬後、道場内が爆笑に包まれる。
《男の子にこだわる必要は、ないかも知れないな》
笑いながらも越路郎は、そう思っていた。