るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十八 虫騒ぎ

 秋の夕暮れ。洋子は道場の前の縁側で虫の鳴き声を聞いていた。
 今日は斎藤が日帰りながら出かけていて、稽古もそれほどきつくなかった。普段なら疲れ果てて部屋で伸びているところである。
「そう言えば、昔もこうして聞いてたっけ」
洋子はそう呟いた。昔と言っても二年前の話である。しかしその後の境遇の激変で、旗本時代のことはもう数十年も前の事件のようにひどく遠かった。
 あの頃も決して暇じゃなかったよね、と彼女は思い出していた。

 「静様、次は古典のお時間ですよ」
「はい、今参ります」
召使いが呼びに来る。応じておいて、畠山静は立ち上がった。
「片づけておいて下さいね、お琴」
その言葉で、周りの女たちがいそいそと琴を片づける。静はそれを横目でちらっと見て、急いで部屋を出た。渡り廊下を歩いて移動し、別の部屋で上座に腰を下ろす。教科書はすでに用意済みで、紙をめくるための女中が一人傍にいた。
「ご機嫌いかがですか、静様」
「はい、朝夕が涼しくなって、とても気持ちがいいです」
「そうですか。それは何よりでした」
目の前にいる初老の男性は、穏やかに笑って一礼した。彼以外に古典の教授は一人いて、確かそちらは漢文の指導だった。勅使接待役ともなれば朝廷との付き合いも深く、それ相応の教養が必須なのである。まして静は、婚約者と共に家を継ぐ身だ。
「では、早速ですが枕草子の購読の方に移らせていただきます。──その前に、作者清少納言について、この前お教えしたことを確認いたしましょう」
と言って、その男性は自分の側にある本を閉じた。それから色々と時代背景に関する質疑応答があり、そして本文の購読に入る。
「春は曙。やうやう白くなりゆく山ぎは…」
と、教師の男性の後について音読する。そして語句の説明やら全文の訳やらを教わり、更に何度も何度も、暗記するまで読まされて終わった。
 その後昼食を取る。ご飯に漬け物、汁物におかずが二つほどの食事だ。父の正室である義理の母親と一緒に食べるのだが、挨拶だけでお互いに一言も言葉を発しない。黙って食べ、食後も挨拶だけをして部屋を出るのだ。
「次は習字のお時間です」
部屋で休憩していると、今度はそう呼ばれた。習字が終わると歴史や作歌(和歌作り)、茶道に華道などが日替わりで入る。ここまでやってようやく解放されたときは、もう夕方だ。ここから夕食までは自由時間で、時々友人が来ている頃でもある。厨房付きの侍女をしている生みの母に会えるのはこの時だけで、暇なときは本を読んだり、庭で侍女を相手に遊んだりもしていた。
 一度などは庭で虫を見つけて静も侍女たちも逃げだし、大騒ぎになったことがある。何しろ昼間に家にいるのは女だけ、それも普段なら虫など見たこともないような階層の女たちばかりである。
「どういたしましょうか、これ」
「誰か捕まえて下さい」
静は一番遠くから怖々指示を出し、早くも逃げ腰である。
「キャア! 毛虫が動き出しました!」
周りの召使いたちが叫び声を上げ、更に後ずさりする。ゆっくりとその毛虫は動いていた。通った後の葉っぱに穴が開いているのを見た途端、失神する者まで出る始末だ。
「騒がしいですね。一体何事です?」
と、そこに比較的冷静な声がした。父の正室が庭に出てきている。静はやや青白い、引きつった顔で、ゆっくりと毛虫を指し示した。
「──あれですか……。一体──キャアアアアッ!!!!」
今までで最大の叫び声が聞こえ、倒れ込む音もする。義理の母が気を失ったのだ。

 騒ぎは一層拡大した。傍付きの者たちは正室を抱える一人を除いておろおろして走り回り、静は青く引きつった顔を更に青くして必死に揺さぶる。
「奥方様、お気を確かに!」
「義母上、しっかり!」
そこに年輩の女中が現れ、気付け薬を嗅がせる。それでようやく義母の方は息を吹き返したのだが、その女中が
「何があったのです、一体。奥方様をこのような状態にまで追いやるとは…」
詰問するような口調で言ったので、静をはじめ他の女性たちは庭の奥を指した。が、この女中は目が老化しかけており葉の上の毛虫がよく見えない。庭に下り、毛虫のいる低木の傍まで来て葉を観察していたところ
「ギャアアアアッ!!!!」
叫び声と共に、その年輩女中は飛ぶように逃げてきた。
 最終的には馬丁が呼ばれて捕まえたので騒ぎは収まったが、それからしばらくは誰も庭に降りようとしなかった。庭には花が咲いていて、下僕の男たちが時折葉っぱごと取ってくれるのだが、その年ばかりは静も当然逃げ回っている。
 自由時間後、帰宅した父親を迎えに出てから夕食だ。ここでも静は黙って食べ、父親から話しかけられない限り一言も口をきかない。そして風呂に入り、自室で侍女たちと雑談などをしたり物語を聞いたりしながら少々遅めの時間に眠る。朝は卯の刻から辰の刻にかけて起き、朝食を取る。その後は毎日の日課が待つ。こんな日々が売られるまで毎日続いていた。

 「あの頃は平和だったよね。怪我した記憶ないもの」
彼女が他人に、それも目上の人間に正面切って盾突くようになったのは試衛館に来てからである。それも正式にそこにいることが決まってからで、要するに斎藤の無茶苦茶な稽古と口の悪さが最大の原因なのだ。昔は素直で頭のいいお姫様だったのである。
「さてと、そろそろ夕食……キャア!」
立ち上がった途端、背中に何か入ったような感触がして、洋子は叫び声をあげた。入ったものが背筋を伝ってゴソゴソ動いている。
「────!!!!」
言葉にならない悲鳴が、屋敷中に響き渡った。余りの大音量にびっくりしたのか、そう遠くない場所で乱れた足音が聞こえる。
「どうしたの?」
そこに、沖田が音もなく姿を見せた。洋子の顔が引きつっている。
「む、む、虫が背中に入って」
「ああ、何だ。今原田さんが笑いを噛み殺してたのは…」
「原田さんが!!?」
引きつった表情が、一気に怒りへと変わる。物凄い勢いで歩き出した洋子に、沖田が
「まあまあ。それより背中に入った虫取る方が先だよ」
言われた瞬間に思い出したらしい。背筋の中央付近で、そいつは止まったままだ。
「───…!!」
   バゴッ!!!
「やかましい、騒ぐな阿呆」
いつの間にやら帰ってきた斎藤が、卒倒して取りあえず静かになった洋子を見下ろしてそう言った。そして沖田を見て
「で、この阿呆は何をギャアギャア絶叫してやがったんだ」
と、例の不機嫌面で訊いたのである。沖田は苦笑して説明を始めた。

 「──要するに、元は原田のせいか」
「だと思います。ぶっ叩いたのは洋子さんに気の毒ですよ」
この場合、彼女は被害者であって叩かれるような悪事を働いていたわけではない。斎藤は原田の自室の方角を見やって
「沖田君、こいつの世話を頼む。俺はちょっと行って来る」
「あ、はい。虫はちゃんと取っておきますから」
斎藤は苦笑して応じた。そのまま原田のいる部屋へと歩き出す。
「──ちょっと意外な反応だなあ。でもまあいいや」
それを見やって自分は洋子を背負い、沖田は呟いた。女が背中に虫を入れられて騒ぎ立てるのは当然という程度の常識は、さすがの斎藤にもあったらしい。
 取りあえず急いで騒ぎのもとを取って、後は見物だなと沖田は呟いた。

 斎藤には、弟子の復讐をしてやろうなどという気持ちはチリほどもない。が、原因が原田にあるのにこのままでは自分が恨まれる立場になるのが確実で、後でそれが騒ぎになるのは御免だった。自己防衛の一種に過ぎない。
「さて。この付近に確か蜂の巣があったような…」
原田の部屋の近くに木がある。その枝を探っていた斎藤は、すぐにそれを発見した。中の蜂を刺激しないようにそっと取り上げ、出ないように用心しながら運ぶ。そして音もなく目指す相手の部屋に接近し、襖を一瞬開けて蜂の巣を部屋に放り込むと素早く閉じた。
「ギャアアアアッ!!!!」
原田の叫び声が屋敷中に響き渡ったのは、その数秒後のことである。

 「因果応報ですよ、原田さん」
と、沖田がすまして言った。あちこちを刺されて横になっている原田は
「それはちょっと違うよなあ。大体誰かが押し込んだんだぜ」
「何が違うんですか、原田さん」
洋子がせいせいした表情で訊く。言葉に詰まってしまった。
「やっぱり原田さんだったんですね。私の背中にコオロギ入れたの」
そのコオロギは、沖田が取り出したのだ。いい声が聞けるので庭に放すことになったのだが、それとこれとは話が別だ。口にこそ出さないが、ざまを見ろという言葉が最もぴったり来る心理状態である。
「それにしても斎藤さん、どこに行ったんでしょうね。人の頭殴っておいて」
煩わしさを避けるため、自室で籠もっているらしいのだが。
 全てを知っている沖田が、笑って言った。
「まあいいじゃない。いない方がいい時もあるし」