るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十 旅立ちの章(3)

 旧暦の三月は、春たけなわだ。練兵館の剣術仲間たちは、気の合う者同士で花見に行っていた。洋子も哲治たちと一緒に隅田川の土手に行く。
「何回来てもいいですねえ、花見は」
春霞で遠くはよく見えないが、ちょうど満開の桜並木を歩いていると気持ちがいい。背伸びをして桜と同じ空気を吸い込むと、結構幸せな気分になれた。
「こら、はぐれるなよ。よその道場とぶつかると面倒になる」
「はーい」
年長の先輩たちが、後ろの方を見て注意する。二十人ほどの集団で、洋子の後ろには入門したての子供たちがついてきていた。
「──?」
ふと洋子は、殺気を感じた。周囲を見回すが、それらしい人影は見あたらない。
『──妙ね。私に向けられた殺気のような…』
或いは先輩方に向けられた殺気かも知れないが、彼らの様子に変化はない。程なく殺気そのものも消えてしまった。
「変なの」
小声で呟き、また桜に注意を向けた。


 それから数日後、洋子は日野にある佐藤彦五郎の屋敷を訪れていた。江戸からはかなり離れているが、歩いていく。以前土方が道場の常備薬である石田散薬を造りに行くときついて行ったことがあるので、道は大体分かった。
「こんにちは」
家の玄関前で声をかける。中から人が出てきて、顔を見るなり懐かしそうな表情をした。
「まあ、お洋ちゃん。お久しぶりねえ」
「ご無沙汰してます。今日はちょっと遊びに来ました」
「こんな所で立ち話も何だしさ、上がっておいで」
おのぶの声に笑顔で応じ、洋子は草履を脱いで部屋に上がった。
 おのぶは土方の実の姉で、佐藤彦五郎の妻だ。今年になって一度、土方の仲介で試衛館で会っている。洋子のことを頼むのに、本当は彼女たち自身がここに行くべき所を「そっちは出立前で忙しいだろうし、こっちは農閑期で暇だから」という理由でわざわざ夫婦揃って来てくれた。
「で、稽古の方は?」
「おかげさまで順調です。練兵館の皆さんもよくしてくれますし」
「そうかい。そりゃあ良かった」
お菓子とお茶が出る。礼をして貰った。
「そうそう、近藤さんから手紙が来ててね」
と、おのぶは切り出した。
「何でも浪士組の方が上手く行かなくて、大部分が江戸に帰るらしいのよ。でも近藤さんたちは残って、会津藩の御預になるんだって」
「会津藩って、京都守護職の?」
洋子はこの一月余り練兵館にいたおかげで、大分世間のことに通じるようになってきた。神道無念流の練兵館は江戸の道場の中では間違いなく五本の指に入る大道場で、北辰一刀流とは違い特定の思想の影響下にないので様々な思想に触れられる。
「そう。京の警護にあたるそうよ」
へえ、と洋子は思い、一瞬後不安になった。──てことは彼らは、いつ帰って来るんだ?
「まあ今日はのんびりして行きなよ」
頷きつつ、彼女は顔を曇らせた。

 苗代の準備で、彦五郎の方は忙しい。田に出ているというので挨拶しようと思って洋子は屋敷を出た。何やら容易ならぬ殺気を感じる。
「!!!」
身構えてどこからのものか探る。裏の木立から、と悟って刀の鯉口を緩め、駆け込んだ。明らかに農民とは異なる人影が見え、問答無用で斬りつける。
   カキーン!
甲高い金属音。相手が抜きかけた刀で洋子の斬撃を防いだのだ。押し切ろうと思って力を込める。その体勢のまま
「貴様、一体何者だ!? 答えねば斬る!」
鋭く訊く。相手の男は答えず、無言で刀を押し返そうとした。しばらくその状態が続く間に、彼女は相手の顔をじっと見る。三十代ほどの顔だ。この顔、どこかで……。
「英集会の者かっ!!?」
相手はしまったという表情で洋子の顔を凝視し、一瞬後刀を力任せに押し返した。半歩よろめき、再び身構えるが相手の姿は木立を抜けて反対側へ遠ざかっている。刀を納め
「あいつ…間違いなく…」
自分を実家から買い、薬屋に売り飛ばした英集会の奴だった。

 あいつがここに来たということは、英集会の連中がここを知ったということだ。このままではいつどんな災難が佐藤彦五郎やおのぶの身に降りかからぬとも限らない。
『──どうやって防ぐか。まあ佐藤さんは私より剣術できるから大丈夫だろうけど、問題はおのぶさんだ。あの程度の奴ならともかく、本物を雇えば危ない』
そして数日前の花見の席でのことを思い出す。
『あれも私が狙いだとすれば、面倒な事態になる。先輩方はともかく、哲治や次郎や子供たちが危ない。私もまだ、他人を護りつつ闘うほどの自信はない』
『──私がいなければ、襲うまい。それにいくら何でも、京都にまでは追ってこないだろう。……第一、あの人たちがいつ帰るのかも分からないし』
任務が将軍の警護なら、そう遠くないうちに帰るだろうと予測がつく。だが事がこうなってしまったからには、彼らの江戸帰りはいつになるか分からない。その間、完全に一人で身を守らねばならないのだ。更に言うと今度捕まって売られるとしたら、間違いなく新吉原か岡場所である。そうなれば末は遊女しかない。
「冗談じゃない。私が遊女なんて」
そうなるくらいなら地獄にでも行った方がましだ、と洋子は思った。
「よし、そうとなれば善は急げ」
今日中にこっちで話をつけ、明日弥九郎に話す。そして出来れば明後日にも出発だと腹を決め、彼女は彦五郎のいる方角に歩いていった。

 「別に、うちらは構わないんだよ。お金なら余裕があるし」
さすがに狙われる可能性があるからとは言えず、洋子が江戸を出たいという理由にしたのは近藤たちがいつ帰ってくるか分からなくなったことによる金銭的な負担だった。
 練兵館での授業料、下宿費、小遣いなど、洋子のこの一月ほどのお金は全部佐藤彦五郎から出ている。数ヶ月、せいぜい半年と思えばこそ好意に甘えることが出来たのだが、彼らがいつ帰るか不明になった今、そういつまでも甘えてはいられない。
「そうだよ。第一京都が今、どういう所か…」
「分かっています。人斬りが横行する戦場です。けど、私だって曲がりなりにも二年以上剣術を習ってますから、自分一人の身を守れないとは思いません。それに、夜に出歩かなければ少しは危険に遭遇しにくくなるはずです」
彦五郎は心配そうに応じた。土方にくれぐれもと頼まれている。
「そりゃあそうだけども、何もそんなに急ぐことはない。もう少し…」
「大丈夫です。それに後でと言っていたら、どんどん先送りになってしまいますから」
「お洋ちゃん、話があるからこっちにおいで」
おのぶが言った。二人きりで話がしたいらしい。

 「ごめんね、お洋ちゃん。私のために」
別室で、おのぶは洋子に頭を下げた。
「いえ、いいんです。迷惑かけるわけにも行きませんから」
「昼間の件、あれ洋子ちゃんを狙った奴だったんだね」
え、と驚いて相手の顔を見やる。どうやって分かったのかと訊くと
「だって、あれだけの音だよ。ちょっと注意してれば分かる」
刀同士の音が、聞こえていたらしい。
「弟から話は聞いてる。実家から売られて、意地の悪い薬屋で苦労してたのを沖田さんが拾ったって。もしかしたら仲介した奴が狙ってくるかも知れないんだろ? ──ったく、うちの弟どもは。さっさと江戸に帰ればいいんだ」
「ちょっとそれは酷ですよ。偉くなったんですから」
少なくとも、京都守護職と関係が持てるようになっただけでも随分な出世だ。この付近、洋子の方が事の意味をよく分かっている。
「まあねえ。うちの旦那も喜んで、近藤さんたちに金飛脚立てたりして。だからホントに、お金のことは気にしなくていいんだよ。要はその奴らがどうするかさ」
洋子は顔を曇らせた。こうまで言われるとかえって申し訳ない。
「私一人ならともかく、他人を護りきるまでの力はないです。練兵館の人たちも、あんまり当てにしたら悪いでしょうし。──すみません」
「いいんだよ。お洋ちゃんは何にも悪くないんだから」
そう言って、おのぶは少女の頭を撫でた。

 「で、京に行ったらすぐに弟の所へ?」
「分かりません。ただいずれは…」
洋子にも、京都の現実は予想しがたい面がある。危険地帯だと聞いてはいるが、ある意味でこの混乱は朝廷を巡る権力闘争という面があるため、一般市民にとってどれだけ危険かは未知数だ。ひょっとしたら合流しない方が安全かも知れない。
「一応、土方さんたちには秘密にしててください」
探されても困る、とこの時彼女は思っていた。おのぶは頷き
「旦那の説得は私に任せて、今日はお休み。弥九郎先生には、今日こっちに来てることは言ってあるんだろう?」
「ええ。よろしくお願いします」

 

 翌日、江戸に戻る途中の洋子は、自分に対する敵意を含んだ気配を感じた。数は複数。
「何者!?」
こういう場合、先手必勝である。気配のした林の中へ駆け込みながら刀を抜き、不意をつかれて呆然としている五人ほどの男の一人を一刀のもとに斬り捨てた。峰打ちにはしているが、数時間は動けまい。
「くっ…て、てめえ!」
「先に襲おうとしたのはそっちでしょう?」
油断なく身構え、大木を背にして洋子は言った。男どもは顔を歪ませている。
「やっちまえ!!」
一人が怒号し、十手を手にして一斉に襲いかかる。洋子は身を低くしてかわし、敵の間をすり抜けると同時に一人の胴を打った。更にそのまま背後から反対側の男に斬りつけ、二人をほぼ一瞬で始末する。
「どうします、親分? 他の奴も来ませんし」
どうにか無事な一人が、下知した男に脅えた目で問いかける。
「構わん、行け」
促され、ゴクリと唾を飲み込んだ。身構え直した洋子に
「やあああーっ!!!」
突進するのを難なくかわし、がら空きの背に一撃を叩き込む。と、その背後に
「貰った」
下知した男が刀を振り下ろす。薄笑いを浮かべる彼に、洋子は反射的に自分の刀を跳ね上げた。金属音とともに、振り下ろした刀と跳ね上げた刀が衝突する。
「はあっ!」
気合いを込め、彼女は刀を押し返した。相手の体勢が崩れた瞬間に身体を反転させ、再び大木を背にして正面から身構える。敵は誰かを捜すように周りを見回していた。
「援軍でも待ってるの? だったらさっさと決着つけないと」
「!!!」
洋子が一瞬で間合いを詰め、男に斬りかかった。敵も数合応戦するが、逆に攻めた後の僅かな隙をついて袈裟斬りに斬り捨てた。
「さてと。急がなきゃ」
刀を納めてそうそうに林を抜ける彼女。それを、木の上から見ている者がいた。
「蒼紫様、英集会の者たちを処分しました」
「そうか。ご苦労だった。帰って静姫の京都行きを報告せねばな」
小声での会話は、誰にも聞こえなかった。

 「では、行って来ます」
洋子は刀を差し、風呂敷包みを一つ持つ。見送りは練兵館の仲間たちだった。
「いってらっしゃい」
手を振る人々に、笑顔で応じる。
 彼女はこうして、江戸を出た。