るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十三 寺子屋騒動

 「何、寺子屋に行きたい?」
昼食後の休み時間。洋子が唐突に言いだしたことに、土方は驚いていた。
「ええ、裏の伝通院のお坊さんのところでも構いませんから」
当時、江戸にはあちこちに寺子屋があった。読み書きそろばんは町人にとって必須のものとなりつつあり、家がよほど貧しくない限り習うのは当然である。
「私も最近、どうも短気になってしまいまして。斎藤さんと喧嘩してばっかりだから、皆さんもうるさいでしょうし」
「喧嘩するのは一向に構わないんだが、寺子屋に行くのは…」
洋子が試衛館に居候するようになって、もうすぐ三ヶ月である。ようやく慣れてきて、言い合いの一つも出来るようになったかと安堵していた矢先にこれだ。
「お金が足りませんか?」
「いや、月謝くらいはどうにかなる。ただ…」
この洋子という少女、読み書きは大人の学者並みに出来るのだが、そろばんつまり算数はかけ算の九九でさえおぼつかないという水準である。そういう少女が寺子屋にいきなり入ることは、多少問題があるように土方には思えた。
 とは言え、洋子がそういうものに興味を持つのはある意味でやむを得ない。何しろ生まれが、普通の町人の娘ではない。朝廷との儀礼接待などを司る役目を代々受け持っている高家という、旗本の中でも特別な地位にある家の姫君なのだ。両親の死後、家督争いに巻き込まれて従兄弟に売られたのだが。
「お前の場合、別に読み書きは習わなくてもいいだろう。そろばん関係だけを習うというのが出来るかどうか、伝通院の坊主に訊いてみる」
土方はそう言って、取りあえず話を終わらせた。

 「おい、この阿呆」
その直後の午後の稽古。斎藤はそう言うなり、弟子の頭を竹刀で殴りつけた。
「痛いなあ、もう。何か用ですか」
「寺子屋に行く気らしいが、俺はやる気はないぞ」
どうやら、どこからか話が回っていたらしい。
「第一、俺にさえ散々盾突く人間が、他の奴の言うことをはいそうですかと素直に聞くとはとても思えん。無理だ無理、諦めろ」
「お坊さんたちは、斎藤さんみたいに無茶なことさせたりしませんって」
僅かに間を置いて、さっきより痛烈な一撃が飛んできた。
「いったあ……。そんなことするから、弟子に逃げられるんですよ」
三発目を喰らい、洋子は見事に卒倒した。

 数日後。斎藤の不満をよそに、彼女は裏の伝通院の寺子屋に通うことになった。
「まあしばらく様子を見て、ダメなようならやめさせるさ」
というのが、斎藤に対する土方の説明である。不満なのは百も承知だった。
「行ってみてダメなら諦めもつくだろ。行かないでぐちぐち言われるのも嫌だしな」
確かに、と斎藤は思い、ひとまず不満をおさめた。
「じゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
見送りに出た沖田と挨拶を交わす声が、道場まで聞こえてくる。

 

 洋子のことは、遠い親戚と言ってある。もともと天然理心流の近藤、土方、沖田、井上の四人は互いに何らかの形で縁戚関係にあり、誰の親戚とまで追及されることはまずなかった。実家で読み書きの方は一通り習ったとも言ってあり、それなりの勉強をするように寺子屋側も配慮してくれた。その付近の対応は意外と柔軟らしい。
「お洋ちゃん、帰ったら今日も稽古?」
通い始めて数日後。隣の席のおゆきにそう聞かれ、洋子は頷いた。
「うん。遅れたら斎藤さんがうるさくてね」
まず頭を殴られるし、四半刻(三十分)でも遅れようものなら素振りが一割増しになる。何しろ道場と寺子屋が塀一つを挟んだだけという距離なので、いつ終わったかはすぐに分かってしまうのだ。真っ直ぐ帰ったかどうか、一目瞭然なのである。
「その斎藤さんって、どんな人? 会ってみたいわあ」
「はあ!?」
思わず問い返した。おゆきはにこにこ笑いながら
「お洋ちゃんの剣術の師匠って言うんだから、きっと立派な人だろうと思って」
「──あんな奴のどこが立派な人なのよ。暴力教師のいい見本だわ」
頭痛を感じながら応じる。確かに腕は立つけれども。
「とにかく急ぐから、今日はこれで」
そう言って話を切り上げ、風呂敷包みを持って洋子は部屋を飛び出した。

 

 「おい洋子。お前今日、誰かと喧嘩しただろう」
道場に入るなり、斎藤の声がした。
「──軽く言い争っただけですよ。ここのことボロ道場なんて言うから」
恐らく騒ぎの声が届いていたのだろうと思い、敢えて隠すことはしない。
「その割に、物音が凄かったがな」
とは、土方の声である。道場の奥から出てきて言う。
「泣き声や襖が破れる音も聞こえたし、誰か怪我させたりしてないだろうな」
どうやら、音の面で完全に筒抜けだったらしい。洋子はため息をついた。
「──泣いたのと怪我したのとは、完全に別の子ですよ」
上級生の彼女と相手が喧嘩するのを見て、怖がった六歳の子が泣き出したのだ。年齢に関係なく一室で学ぶ寺子屋では、時たま見受けられる光景である。
「後始末は自分でつけろ。俺は知らんぞ」
「最初から期待してませんけどね、斎藤さんの援助なんて」
軽く応酬した後、稽古に戻った。

 さて、翌日。洋子はいつものように寺子屋に向かった。
「みんな、お早う……あれ、矢助は?」
昨日喧嘩した、一歳年上の男の子である。とっくみあいになり、少々相手の顔や手足に傷を付けた。勿論、その後は喧嘩両成敗で二人ともお灸をすえられたのだが、昨日は普通に歩いて帰ったし、来られないほどの傷ではないはずだ。
「まだ来てないみたいね。けど、あの子時々遅刻してくるから、多分今日もそれでしょ」
おゆきが、周りを軽く見て応じた。
「それならいいけども……」
洋子は何となく、嫌な予感がしてきた。何かあっても一人で決着をつけなければならないのだ。帰りに喧嘩を吹きかけられる程度ならいいか、と彼女は思っていた。
 その時。
   ズドオンッ!!!!
 雷が目の前に落ちたかと思えるほど、凄まじい音がした。
「な、何事!?」
洋子はもちろん、その場にいた寺子屋の子供たち十数人が一斉に声を上げた。外を覗いて、とんでもない光景に出くわす。
「……木砲、か。ヤバいわね、これは──」
彼女はそう呟いた。遠い昔、と言っても時間的には数年前だが、見た覚えがある。樫の木で砲身を作り、粘土玉を詰めて撃つのだが、耐久力がないだけで破壊力は本物の大砲とそう変わらない。
 寺子屋のある伝通院の塀に、巨大な穴が開いていた。

 それにしても、何であんなものがいきなり出てきたのか。矢助の親は普通の町人で、自力であんなものを調達するだけの力はないはずだ。
「──その筋の連中に頼んだわけね。子供の喧嘩だって言うのに」
子供の喧嘩に親が絡むのは、当時であっても基本的には良くないのだ。まして侠客たちの助力を頼むとは言語道断なのだが、矢助の親にはそれが分かっていないらしい。
「あなた方は、一体何をしているんですか!?」
坊主たちが出てきて言う。柄の悪い声が聞こえてきた。
「俺たちゃあ頼まれて来ただけでよお。梶田屋サンちの坊主に傷つけたじゃじゃ馬娘、ちょっと出てきやがれ!!」
「──行って来る」
奥の部屋で様子を見ていた洋子は、そう言って立ち上がった。
「え、で、でも──」
「大丈夫だって。頼まれただけってんなら、極端な無茶はしないはずよ」
明るく言ったが、内心では腕の二、三本は折られるだろうなと覚悟していた。でもまあ、あの無茶苦茶な稽古を休むいい理由にはなるか──。
 考えながら渡り廊下を歩いていると、背後から痛烈な一撃を食らった。
「──いったあ…。何する……さ、斎藤さん!!?」
何でここにこの人がいるんだ、と一瞬真面目に思ってしまった。

 「おいこら阿呆。だから言ったんだ」
「あ、いきなりその言い方はひどすぎますよ、斎藤さん」
いつにも増して不機嫌な斎藤を、沖田がなだめている。その奥には原田、土方、永倉、藤堂までついて来ていた。どうやらその日試衛館にいた道場主の近藤以外の連中が、全員裏の塀を越えてこっちに来たらしい。
「──あ、あの?」
「押し掛け援軍ってとこかな。向こうが木砲持ち出すんだから、こっちもそれなりに陣営を揃えないとね。失礼に当たる」
師弟の間に入って、沖田が言った。斎藤はあくまでも仏頂面だ。
「しかしまあ、いいのか? 後であいつら仏罰下るぜ」
「こっちの知ったことか。とにかく行くぜ」
その背後で、原田と藤堂が会話している。声には緊張感のかけらもない。
「で、その矢助とやらには勝てるのか」
土方が真面目な口調で訊いた。洋子は笑って
「尋常な勝負なら、楽勝ですよ。あんなモヤシ」
そこで角を曲がって、正門に着いた。

 洋子は敵を見回して、首を傾げた。傍の沖田が
「どうしたの?」
「矢助がいないんです。少なくとも見当たらない」
「──フン、なるほどな」
斎藤が鼻で笑った。そして集まっている二十人以上もの男たちに
「ガキの下らん喧嘩に、そうまでして首を突っ込みたいか。この阿呆どもが」
と、初っぱなから挑発したのである。いきり立つ下っ端を一睨みで威圧し
「ま、己の喧嘩の決着を他人任せにするガキもガキだし、ちょっと自分のガキが傷ついたからって貴様らに頼み込む親も親だがな。こっちの阿呆に出てきて欲しけりゃ、そっちの虎の威を借る狐の見当違い親子を連れてこい」
沖田がクスクス笑っている。『こっちの阿呆』は余計だ、と洋子は思った。
 門の外、場の中央にいる男の耳に、部下がひそひそと耳打ちする。
「──そうか、貴様らが例のボロ道場の……」
「ボロ道場かどうか、自分たちで試してみるんだな。この張り子の虎め」
今度は土方が言った。敵が怒号し、場が一気に緊張する。身構えた中で
「おい洋子。引き受けてやるから、事後責任は自分で取れ!」
「あの、ちょ、ちょっと!?」
既に廊下を降り始めている。洋子が止めるのを無視して斎藤が言ったのを皮切りに、敵味方入り乱れての乱闘が始まった。

 乱闘、と言ったが、実は試衛館の居候たちが一方的に敵をなぎ倒しているだけである。沖田は真っ先に突進して木砲まわりの数人を木刀で殴り倒し、その後真剣での一振りで木砲そのものを真っ二つにしてしまった。その両脇を土方と斎藤が固め、奪回しようと突進する敵を倒して木砲の破壊を手伝う。残る三人は攻撃専門に暴れまくり、原田は槍を振り回してその馬鹿力で近づく者を手当たり次第に薙ぎ払っていたし、藤堂と永倉はそれぞれ最前線で、逃げる敵を追って一刀の下に叩き伏せる。動作不能の人間二十数人が出来上がるまで、五十を数える間もなかった。
「ふわー……。やっちゃった」
奉行所が来たらどう説明するんだろう、と心配する洋子の影で、事の次第を見ていた他の子供たちは呆然としていた。取りあえず『お洋ちゃん』のいる道場の人達がどこからか来て、寺子屋を壊そうとしていた連中を全滅させてしまった。それは分かるのだが、余りの早業に声もない。目を瞬かせて情報を整理し、一瞬後
「すっげえ!!!」
「裏の道場、規模は小せえけど結構やるじゃん!!!」
と、びっくりするほどの大歓声が上がる。やっと出てきた伝通院の住職と土方が話し合っている間に、斎藤が洋子の傍にやってきた。
「おい、洋子。帰るぞ」
「え、でも、今日の分が──」
「阿呆。こんな騒ぎ引き起こしてて、そのままいられるか」
「だって、向こうが勝手に押しかけてきたんですよ。矢助がやめるんならともかく、何で私が──」
   バゴッ!!
 持っている木刀で、彼女の頭を殴りつける。力は押さえていたようで、気絶はしない。
「阿呆。事後責任は自分で取れと言っただろうが」
「だからって、何で帰らないといけないんです!? 壊れた壁の──」
  バキッ!!!
 もう一回殴りつけられ、洋子は完全に気を失ってしまった。

 

 「あーあ。真面目な者がバカを見るって、こういうのを言うんですねえ」
結局。騒ぎの責任を取らされる形で、洋子は寺子屋を辞めざるを得なかった。実は彼女の寺子屋通いを嫌っていた斎藤が、騒ぎをきっかけに辞めさせたに過ぎないのだが。
「ボロ道場なんて言われても、無視すれば良かったなあ」
「阿呆、それとこれとは話が別だ」
ため息混じりに呟く洋子に、辞めさせた本人が言った。竹刀を投げ渡して
「どうせ喧嘩するんなら、相手を徹底的に叩きのめしてから報復されろ。他のガキが泣き出したくらいで止めるな。物をいくつかぶっ壊すくらいの覚悟でやれ」
「──そしたら、報復の方が……」
「ついでに言うなら、他人に報復を頼むような腐った根性の輩と喧嘩するな。それ以前に付き合うな。こっちの精神まで腐り果てる」
どうも違うような気がすると言われた側は思ったが、何も言わなかった。