るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十四 嵐の夜に

 江戸ではその日は特に風が強く、空も午後から急に曇ってきた。
「今夜は間違いなく嵐だな、これは」
道場で補強板を張りつつ、土方が言った。
「そうですね。明日無事だといいんですが」
汗を拭い、沖田が空を見上げて応じる。夏の青空はどこへやら、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。そこに道場の奥から足音が聞こえる。
「沖田さん、取りあえずこっち終わりましたよ」
「お前は何もしてないがな」
洋子に続いて斎藤が言った。ムカッと来たらしく、反発して
「私が自分でやったのはがして、勝手にやり直したの斎藤さんでしょうが!」
「阿呆。あれはやったうちに入らん」
「板の打ち付けが下手なのは、初めてなんだからしょうがないでしょう。釘を打つの痛かったんですからね、とんかちが指に当たって! それを…」
「自業自得だ、それは。ったく阿呆が」
話を聞くだけで、沖田と土方にはその場の光景が想像出来た。そう言えばさっき洋子の部屋の方から、喧嘩の声が聞こえて来たような…。
「まあ、何はともあれ二人ともお疲れさま。洋子さん、喉乾いたでしょう」
水でも麦茶でも飲んで来たら、と沖田が割って入るように言った。頷いてそこを出る彼女の背を見やって、斎藤が
「ったく。感謝の言葉の一つも言えんのか、あいつは」
「斎藤さんがいきなり来て、ばりばりって剥がしたんでしょう。その時点で頭に血が上ってますって、あの子の場合」
沖田が苦笑混じりに応じる。むしろ自分が釘を打つのが下手だって認めてる分だけ、ましだと思うけどなあ。
「言われずとも百も承知だ。もう少し冷静になれと言ってるんだ、俺は」
そこに永倉たちが入って来て、話はそれで終わった。

 夕食後、いつものように部屋に引き下がった洋子は、布団を敷いて寝ようとした。
 今夜中に嵐は終わって、翌朝には快晴だというのが他の居候たちの予想であり、となると稽古も相変わらずのはずだ。疲れているのに起きている余裕はないはずだった。
 準備を全て終え、息をついて布団に横になる。それまでさほど気にも止めなかった雨風の音が、いきなり強く鼓膜を刺激した。何故か身震いがして、それからどうしようもなく気になり出す。
 雨が叩きつけるように降り、強風で外の木々が激しく揺れる音。何故今日に限ってこうも気になるのか、自分でもよく分からないままに時が過ぎていった。
「斎藤さん、さっき戸を変な風にいじったかなあ」
洋子はため息をついた。いつもなら百数えるうちに眠ってしまうのに、なかなか寝付けない。
   ピカッ!
『え…?』
その時、いきなり走った閃光に、洋子は驚いた。目を数度瞬かせると
   ゴロゴロゴロッ!!
「キャアッ!!」
反射的に、頭から肌がけを被る。しばらく息も潜めてぴくりとも動かず、耳の中で反響する音に耐えていた。雨風の音も相変わらずである。
 肌がけの中で、洋子はじっとりと汗をかいていた。普段は開けている部分も閉め切り、今日の部屋の中はひどく蒸し暑い。耐えかねて肌がけから顔を出し、息をついた瞬間
   ピカッ! ズドーン!!!
「キャアアアッ!!!」
文字通り絶叫し、またがばっと肌がけを被ってしまった。と、そこに
「何を絶叫してやがる、この阿呆」
聞き慣れた、だがこういう時には一番聞きたくない声が、部屋の外から聞こえた。

 「ったく、さっさと寝ろ」
「外がこういう状態で寝れますか」
むっとして、かなり強い口調で応じる。だが次の瞬間
   ゴロゴロゴロゴロッ!!!
「ヒエエエッ!!」
三度上げた絶叫に、斎藤が声を出して笑う。ややあって嘲笑めいた口調で
「阿呆。何を雷なんざ怖がってるんだ」
「そんなこと言ったって、当たったら死ぬんですからね!」
肌がけから顔を出して、抗議を込めて応じたのだが、相手は平然と
「当たると思うから当たるんだ。思わなかったら当たらん」
「そうは言いますけどね、天罰で雷が落ちるなんてよくある話なんです」
「ならば問うが、天罰を食らうほど悪いことを、お前はやってるのか?」
洋子は言葉に詰まった。斎藤は鼻で笑って
「ったく。やってないのに何が天罰だ。俺の方で殴りつけたいことなら幾らでもあるが、雷神の助けなどいらん」
「そんなこと、決めるのは神様の方でしょう。斎藤さんがいらんったって」
「阿呆。勝手に来たら俺が叩き出す」
余りにも無茶苦茶な台詞に、洋子は一瞬呆気に取られた。ややあって
「叩き出すって、相手は神様ですよ。そんな無茶な…ウワアアッ!!」
かつて聞いた木砲のような凄まじい雷鳴に、四度目の悲鳴が上がる。斎藤は今度は声を殺して笑っているようだった。そして
「俺がここで見張ってれば、雷神も来るまい。それが一番手っ取り早い」
「──げ」
思いっきり渋い声で、洋子は応じた。
「さっきからギャアギャア絶叫してる分際で、文句言うな阿呆。大体このままお前が寝れなかったら、明日の稽古に支障が出るだろうが」
「別にいいじゃないですか、斎藤さんは斎藤さんで勝手にやれば」
次の瞬間、脇差が鞘ごと飛んで来て洋子の後頭部を直撃した。更に
「ったく阿呆が。明日は絶対いつも通りに叩き起こす。覚悟しろ」
言った直後、その場に座り込むような音を洋子は聞いた。

 それから程もなく、洋子は欠伸をもらした。
「ふう。そろそろ寝よ…」
言いかけてビクッ! となる。ついさっきまで雷鳴が怖くて絶叫していた自分である。いやそれ以前に吹き付ける雨風の音で、寝るどころの状態ではなかったはずなのだ。何故いきなり眠くなるんだ、と咄嗟に思った。
『斎藤さんが来てからだよねえ』
そう言えば、あれから雷の音もしていない。まさかとは思うが、本当に彼が怖くて雷神の方が逃げ出したのだろうか。
「──まさか、ねえ」
洋子は自分の思いつきに苦笑した。いくら何でも、神様が人間を恐れるなどということはあり得ないはずだ。そりゃあ、斎藤さんの顔は怖いけど。
「こら阿呆。ぶつぶつ言ってないでさっさと寝ろ」
「はーい」
洋子はそう言って、目を閉じた。

 それから更に四半刻(三十分)ほど経った頃。
「斎藤さん、洋子さん──寝ました?」
「ああ」
角から囁き声で訊く沖田に、斎藤は短く頷いた。音を立てないように歩いて来て
「すみません、また面倒なこと頼んでしまって」
「いや、いいんだ。うるさいのは事実だったし」
もう一回すみませんと言っておいて、沖田は相手が座ったまま寄りかかっている、洋子の部屋の襖を見やった。外の雨風の音は、むしろ激しさを増している。
「やっぱり、独り寝が怖かったんでしょうね」
「だろうな」
斎藤は少しばかり苦笑していた。袖で汗を拭くと
「ま、薬屋では雑魚寝だったろうし、お屋敷ではちょっと呼べば侍女が添い寝してくれただろうからな。阿呆の絶叫が面白いから放っとくかと思ったんだが」
明日の稽古には換えられん、と呟くように続けた。沖田は微笑と苦笑が混ざったような表情で
「じゃあ、そろそろ僕は寝ますから。斎藤さんも──」
「いや、俺はここにいる。夜中にあいつが目を覚ますかも知れんからな」
その台詞に、目を瞬かせる。相手は壁の方を見ながら
「今は少し収まってるが、また嵐がひどくなる可能性もある。また起きられたら今度こそ眠れんだろう。俺がいる方がまだ落ち着く」
「だったら、僕が布団持って来て添い寝しますよ。明日の稽古のこともありますし」
「さっきも言ったが、それだといつまでたってもあいつに進歩がない」
突風の音に混じって、バキバキバキッ、と木の枝の折れるような音が聞こえた。
「進歩も何も、女の子が雷怖がるのってむしろ当たり前だと思いますけど」
斎藤は、返答に困った様子で沖田の方を見た。雨音が一瞬、滝のように激しくなる。
「女だろうと、関係ないと思うがな」
数秒後、再び壁の方を見やって応じる。沖田は笑って
「そりゃそうかも知れませんけど。──本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
頷いて、助けはいらないとでも言うように軽く手を振る。自室に戻る沖田を見やって
「大体、一日くらい寝不足でもあの阿呆には勝てる」
と斎藤は呟いた。