るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十四 池田屋事件(3)

 「──洋は?」
と、斎藤が庭で訊いた。出陣、と言っても数人ずつに別れて屯所を出、祇園町の会所に集合するだけだが、それを見送るべき彼女の姿がさっきから見当たらない。
「どうも拗ねてるみたいですよ。今回も留守番っていうので」
沖田はそう応じた。斎藤は数秒屯所の方を見やる。
「──あの阿呆が」
いつもの彼なら、そう呟いただけで放っておいただろう。だが今日は、何か心に引っかかった。同行できないことに散々不満を言いつつも、彼女は主な手入れの時は必ず見送りに出ている。部屋に籠もって拗ねるなど、初めてのことだ。
「忘れ物をした。ちょっと行って来る」
沖田は微笑んで頷いた。何のかんの言いつつ、結構心配しているのだ。

 「みんな緋村に殺されればいいんだ。龍槌閃で真っ二つにでもなればいい」
と、自室に籠もって洋子は激しい口調で言った。無論独り言だ。
「いっそのこと御庭番衆の予測が外れて、四国屋で会合やってればいい。そしたら沖田さん生きたまま斎藤さんだけ死んでくれるから。私だって戦えるんだから」
自慢ではないが、彼女の剣腕は幹部級以外の隊士をほとんど倒せるほどになっていた。戦えるのに沖田、斎藤、土方などがそうさせてくれないのだ。
「周平なんかより、私の方が遙かに強いわよ。あんな軟弱者より」
周平とは、近藤が養子に迎えた少年で、助勤谷三十郎の弟である。今回の斬り込みにも参加し、池田屋を攻撃することになっていた。手筋はどうにか人並み程度で、決して良いとは言えない。洋子は稽古中に何度も彼を倒している。
「大体向こうは人斬りを何人も抱えてるんだから、うちの一人が護衛にでも来てたらどうするのよ。特に抜刀斎とか言う奴…」
数ある人斬りの中でも、最も成功率が高いと言われる人斬りである。まだ現場を見たことはないのだが、その見事なまでの殺し方は隊内でも噂に上っていた。
「とにかく、人数は一人でも多い方がいいに決まってる」
そこで歩いてくる気配を感じ、口をつぐむ。一瞬後、襖ががらっと開いた。
「ったく、見送りにも来ないで何を言ってるんだ。この阿呆」
「別に用もないんだし、わざわざ出て行かなくてもいいでしょうが」
最初から、かなりきつい口調で言い合う。相手の敵意に満ちた表情を見た斎藤は、この際はっきり言っておく必要を感じた。

 「人斬り抜刀斎とやり合って、勝てる自信があるか?」
と、いきなり斎藤は訊いた。洋子は少し考えて
「──分かりません」
「だったら来るな。そういうことだ」
洋子は返事が出来ない。それに重ねて
「どんな状態でも、敵に勝てる自信のある奴だけが戦場に出られる。そうでなければ斬られるか、後で切腹かだ。まして今回の場合、敵も強者だ。間違いなく激戦になる。初陣でいきなり修羅場を見せられて、動揺されたら適わん」
「周平は大丈夫なんですか、その辺」
あの少年は、自分より遙かに実力が下だ。その彼が池田屋の手入れに参加するのに自分は出来ない、というのが拗ねの理由の一つになっていた。
「阿呆、あれはお飾りだ。近藤さん自身はどうだか知らんが、少なくとも沖田君や永倉君はそのつもりだ。お前はそういうものとして戦場に出たいのか?」
「──いいえ」
「だったら今回は諦めろ。いいな」
ふう、と洋子は一息ついた。板倉侯の御落胤という噂もある近藤周平に、彼女はライバル意識とでも言えるものを持っている。とにかく気に入らず、まだ見習いの立場で彼女の部下に当たることから虐めとまではいかずとも厳しい態度を取っていた。毎日稽古をつけ、徹底的に叩きのめすのが主な方法である。
 とにかく、お飾り発言で気分が少し晴れたのか、洋子はやや遅れて見送りに出てきた。

 「遅いぞ、会津の兵は」
と、近藤が呟いた。もう打ち合わせの刻五つをとっくに過ぎている。
 実を言うとこの頃、京都守護職の会津藩の方ではまだ兵を出すべきか悩んでいた。それも無理はなく、下手に兵を出して浪士たちを取り締まれば彼らの仲間が暴走しかねない恐れがあったからだ。かといって放ってもおけない。結局やむを得ないということになり、最終的に藩兵が動員されたのは打ち合わせから二時間以上経ったあとだった。
 「やむを得ぬ。このままでは大魚を失する」
打ち合わせから一刻後、近藤はそう言って立ち上がり、傍らの土方に
「歳、四国屋に行け」
と言った。頷きつつ
「武運を」
そう言って会所を飛び出し、土方は四国屋に向かう。近藤は池田屋に直進した。

 池田屋では、薬屋に変装した山崎がくぐり戸の鍵を開けてしまっている。おまけに二階でやっている浪士たちの宴会の場に入り、料理や酒を運ぶ女中たちが置いている刀で足を引っかけては大変という理由でどんどん刀を次の間に納めてしまった。とは言え室内で戦う分では脇差しの方が有利という説もあり、そう極端に不利とは言えない。
 近藤は土間に踏み込んだ。続くのは沖田、永倉、藤堂、そして周平。
「御用改めである。亭主はおるか」
と呼びかけると、店の主人が現れた。一見しただけで用件を悟ったらしく
「お二階の皆様方、お改めでございます!!」
「どけっ!!!」
近藤は主人を跳ねのけて、階段を駆け上がった。その物音に、土佐の北添佶摩が遅れてきた仲間の足音と思ったらしい。部屋を出て階下を見た途端、近藤と目があった。近藤は抜き打ちに斬って落とし、そのまま奥の間へ突き進んだ。
「あっ、し、新撰組!!!」
事を悟り、皆立ち上がる。近藤のあとに続くのは沖田、永倉の二人。藤堂平助と周平は階下で降りてくる敵を待ち伏せしていた。三人で三十名足らずを相手にしようというのだから、冷静になれば浪士たちとて勝てないはずはない。が、いきなりの襲撃に驚いたものか皆二階の手すりを使って中庭に降りようとする。数人を斬り捨てた後、沖田は
「二階は僕が引き受けます。近藤さんと永倉さんは一階を!」
「分かった!」
二人は頷いて階段を駆け下り、中庭から玄関、外へ出ようとする浪士たちと戦っている藤堂たちの救援に向かった。この時二階には三人。抜刀して身構えている。
「やああーっ!!」
必死で攻めてくるが、沖田は三人の太刀筋を完全に見切っていた。左右からの突撃をあっさりかわして、それぞれ一刀の下に斬り伏せる。直後に出来る隙を狙って、残る一人が鋭く斬りこんできた。沖田は辛うじて身をかわしたかに見えたが、かわすと同時にがら空きの胴に刺突を入れる。敵が倒れたときに軽く咳き込んだが、すぐに部屋を出た。
「藤堂さん!」
誰にやられたか、藤堂が頭を斬られて倒れている。と、そこに全身血だらけになりながら手槍を持って駆け戻ってきた男がいた。長州派志士、吉田稔麿である。
 吉田も沖田を見つけた。倒して、死のうとした。凄まじい形相で突きかかってくる相手に、さしもの沖田も手こずる。何度目かの突きをかわした時、胸から生暖かい妙なものが噴き上がってくるのを感じた。と同時に、今までしたこともないほど咳き込む。
「ゴホゴホッ!!」
咄嗟に口を覆った手が、赤い液体で濡れている。それが血だと認識する間もなく、吉田が急所を狙って突いてきた。気配を感じた沖田は反射的に刀を上へ跳ね上げ、相手を斬り倒した。そこに土方たち四国屋を襲った方が加わる。
「やはりここだったか。総司、近藤さんは?」
「敵が中庭から逃げようとしてるらしくて、多分そっちにいます」
「よし、分かった。お前はここで見張っててくれ」
沖田の顔が青ざめているのを見て取った土方は、見張りという名目で彼を前線からひかせた。更に遠くから会津藩兵らしい声を聞きつける。
「斎藤君、近藤さんの手助けを頼む。私は守護職の方々にご挨拶がある」
「分かりました」
一つ頷き、斎藤は奥へ駆け出した。大部分がそれに続く。
《──こいつは、怪我じゃねえな》
沖田の足下の血を見やって、土方はそう考えていた。

 程なく戦闘が終わる。浪士側の戦闘中の死者は七人だが、捕獲された者の多くは戦闘中の傷がもとで間もなく死亡した。
 新撰組の死者は都合三人。藤堂平助は結局重傷で済んだ。
 周りを取り囲み、脱出しようとした浪士たちを捕獲した会津、彦根、桑名などの兵たちの死者は十人余り。怪我人は五十人以上に達した。
 これ以後、新撰組の名は天下に知れ渡り、志士たちにとって恐怖の対象となる。またこの事件の直接の結果として禁門の変が起きるのだが、それはまた別の話である。

 さて、翌朝屯所に帰ってきた近藤、土方以下を迎えたのは立ちこめる酒の匂いである。
「お、早速宴会の準備か」
「違いますよ。石田散薬の準備です」
原田の台詞に横から口を挟んだのは洋子だった。
「今日は寅の一刻(午前四時)に起きて、朝っぱらから酒臭い中で皆さんの帰りを待ってたんですからね。少しは評価して下さいよ」
言うと同時にその場から離れる。一瞬後、刀が空を切っていた。
「そう何度も同じ手に引っかかるもんですか。伊達に何年も付き合ってませんよ」
「ほう、お前のような阿呆にも学習能力があったのか」
斎藤の台詞にむっとしたが、取りあえず無視して
「とにかく、人形みたいにぼけっとしてたわけじゃないですよ。誰かさんみたいに」
彼女の視線の先には、疲れ切った顔の周平がいた。