元治元年(1864年)初冬、洋子とお夢は屯所での暮らしを続けていた。
闇乃武の襲撃事件をきっかけにして、住んでいた長屋を出たのが数日前。長屋の屋根が未だに直っていないので帰れないばかりか、修理も未だに手つかずの状態である。長屋の大家が懇意にしていた大工と左官屋は、禁門の変で焼けた京都の家々を建て直すのに忙しく、なかなか屋根の修理にまで人手が回らないらしいのだ。
「困るなあ、早く直ってくれないと」
大家直々の説明を受けた洋子は、彼が帰った後でそう呟いた。
「まあ仕方ないんだけどね。いずれにしても…」
ふう。ため息が漏れる。一応伍長なので個室は持っており、最低限の自由は保証されているのだが、やはり生活上四六時中男ばかりというのは嫌なのだ。
「そう言えば、しばらく風呂にも入ってないなあ」
いつも自宅から銭湯に向かうので、屯所にはそれ用の備品が何もない。取りに帰るのも面倒なので今まで行かなかったのだが、やはり日数が重なるとそうも言っていられない。第一、稽古で汗はかなりかいているのだから、風呂に入らなければ汚いではないか。
「決めた。今日は銭湯に行こう」
ついでに家からものが盗まれてないか見てこよう、と洋子は決心した。
稽古の指導を少し早めに切り上げて夕食も済ませ、洋子とお夢は自宅の長屋に帰った。
屯所に来てからお増に聞いた話では、両隣の家に住んでいたのも闇乃武の一員だったらしく、洋子の秘密を会話などから探ろうとしていたらしい。従って今は壁が壊された後とは言え人は住んでおらず、大きな物を盗まれる心配はしなくていいとのことだった。
「屯所に長くいることになりそうだから、色々物を取ってこないとね」
帰り道、洋子はお夢にそう言った。衣服など、屯所に持ち込む物は色々ある。
「荷物取るだけなら帰りに寄ればいいけど、こんな格好で銭湯なんて行けないからね。男扱いされるわ、間違いなく」
男女別の銭湯では、羽織袴はやはり都合が悪い。
「やっぱり着替えるんですか、振り袖に」
「いつもそうしてるからね。今日も当然──っと」
自分の長屋への角を曲がりかけ、洋子は急に立ち止まった。急いでお夢を引き寄せて壁に隠れ、そっと曲がろうとした先を顔だけで覗く。
斎藤と沖田が、何故か長屋の自分の部屋の前にいた。
『何だってあの二人が、こんなところにいるんだろう』
声が大きくないので中身までは聞き取れないが、何やら話し合っているようだ。いなくなるまで待っていよう、と思って洋子はじっとしていた。数秒後
「おい阿呆。隠れてても分かるんだ、出てこい」
いきなり斎藤の声が聞こえた。ぎくっとした彼女がお夢の口を押さえて黙っていると
「殴られたいか、この阿呆。さっさと出てこい」
彼の場合、言ったら間違いなくやる。お夢と顔を見合わせて無言で了解を取り付け、洋子は一息ついて姿を見せた。
「──何やってるんですか、人の家で」
「別にね。ちょっと気になったもんだから」
沖田が応じる。そして逆に聞いてきた。
「洋子さんたちこそ、何でここに?」
「あ、いえ。ちょっと銭湯に行こうかと思いまして」
荷物をここに置いてるので、と説明する。沖田が頷いて
「あ、そうか。なら丁度いいや」
怪訝そうに目を瞬かせる洋子に、平然と
「僕らと一緒に来る? 荷物取っておいでよ、ここで待ってるから」
「──と言うか、女物に着替えるんですよ? 時間かかると思いますけど」
「大丈夫。心配しないで」
あっさり言い切られ、更に背中を押されて洋子は長屋に入った。お夢が軽く一礼して続く。斎藤が沖田に小声で話しかけた。
「別に行きたくない者を、無理に同行させなくてもいいと思うが」
「どうせ同じ銭湯に入りますからね。それに」
「あの阿呆は単に俺と行きたくないだけ、だろう?」
ご名答、とふざけた口調で沖田は応じ、くすっと笑った。そして
「それにしても、洋子さんの着物姿って楽しみですよ。屯所だとずっと羽織袴だから」
何年ぶりかなあと考えている沖田を横目に、斎藤はわざと声を大きくして
「ま、大道芸並のみものではあるがな」
「誰の何が大道芸ですか!」
当の本人が、早速突っかかってきた。この付近、ある意味電光石火である。
「阿呆。お前の着物姿以外に何がある」
「何でそれが大道芸になるんですか! 斎藤さんのせいですからね、こんなに…」
「阿呆。文句は出てきてから言え」
これで確実に待ち時間が縮まるな、と斎藤は思っていた。
こうして四人は、揃って銭湯に向かった。
『大道芸』発言については、喧嘩になる前に沖田が洋子の手を取ってかなり強引に歩き始めたので、取りあえずお預けになっている。
ちなみに振り袖と言っても生地は木綿のもので、それほど豪華ではない。友禅染でも買えたらいいんですがね、とは洋子自身の台詞だ。
無言で歩いているうちに、隊士御用達の銭湯に着いた。女湯と男湯に別れる前に斎藤が
「おい、洋子。決着は出てきた後だ」
「分かりました」
一見事務的な口調で、彼女は応じた。
洋子が女湯の風呂場に入ると、周りの女たちはいつもおっかなびっくりといった様子で遠巻きに見つめてくる。体は紛れもなく女、しかも顔を見るに十代半ばの少女でありながら、全身のあちこちに刀傷や痣ができ、内出血で変色している箇所も珍しくない。しかも一つの傷が治ったかと思えば別の傷が出来ており、刀傷に至っては治っても跡が残っているという体である。何がこの少女の身に起きているのか、見当もつかないのだ。
「さてと、早めに上がって決着つけようっと」
「まだ本気で決着つける気ですか、洋子さん」
その視線を無視して、洋子とお夢は体を軽く流すと湯船につかった。
「売られた喧嘩は買うのが士道ってもんよ、人の着物姿を大道芸呼ばわりして」
絶対ただじゃおかないんだから、と小声で続ける。両手で湯をすくって顔を洗うと
「けど、沖田さんに迷惑じゃないんですか?」
「大丈夫だって、あの人もう慣れてるから」
慣れてるって、とお夢は絶句した。そういう問題じゃないと思うんだけどなあ。
「それに、どうしてもやばかったらさっきみたいに介入してくるでしょ。お夢はそういうことは心配しなくていいの」
「じゃあ聞きますけど、斎藤さんとやり合って勝てる自信は?」
一瞬、今度は洋子が黙り込んだ。が、
「勝ち負けが問題じゃないの。とにかく不満があるならあるで行動で示さないと、今度は豚に真珠とか何とか言い出すに決まってるんだから」
「そういう人なんですか? それってかなりひどい…」
言いつつ水中で足をばたばたさせている洋子に対し、斎藤たちと出会って間もないお夢は、大人しく座って大真面目に聞いている。
「そう。だから決着つけないといけないの」
「頑張ってくださいね、応援しますから」
この会話を聞いていた周りの女たちは、密かに顔を見合わせていた。
その頃、男湯の方では、斎藤がくしゃみを連発していた。風呂だけに響く。
「大丈夫ですか、斎藤さん?」
師範殿が風邪引いたら大変だ、と隣で体を洗っている沖田が言うと
「いや、どうせ阿呆が妙なこと吹き込んでるんだろ」
見当がつく、といつもの不機嫌面で彼は呟いた。遠くにいる数人の平隊士がクスリと笑う。まさかその阿呆が女湯にいるとは思わないまでも、誰かは見当がつくらしい。
「それにしても、似合ってたと思うけどなあ、洋子さんのあの姿」
斎藤さんはどこが気に入らないんだか、と横目で相手を見る。
「似合っててもそれ自体が大道芸だ、俺にとっては」
頭から手桶の湯を被りながら、本人は応じた。
「大体、今までずっと俺の前では袴姿で通してきて、いきなり振り袖姿なぞ見せられたら違和感がありすぎる。実際別人かと思ったくらいだ」
「──だから『大道芸』ですか。もう少し言い方を工夫すればいいのに」
沖田は苦笑混じりに言って、体に湯をかけた。
「あいつがすぐにつけ上がる。それにあいにく、語彙が豊富じゃないんでな」
斎藤はまた、頭から湯を被っていた。
洋子とお夢が風呂から上がって建物の外に出た時、斎藤たちは既にそこで待っている状態だった。
「──どうも」
「遅いぞ、何やってた」
洋子は応答せず、数歩歩き出す。斎藤も数歩前に出た。向き合った瞬間
「こら、そこ! 何やってる!」
所司代の手下が、向こうの角からいきなり怒鳴りつけてきた。夜の見回りの一団らしく、十人ほどがいるのが離れていても分かる。まずい。
「──どうします、斎藤さん」
決着を完全に棚上げする形で、洋子は斎藤に訊いた。この状況で自分たち二人が所司代に捕まるなど、笑い話にもなりはしない。
「奴らが所司代でなかったら、待ち伏せて斬り捨てるんだが。──この場合、逃げても士道不覚悟にはならんだろ」
「分かりました。──沖田さん、お夢を頼みます!」
そう言って、洋子は駆けだした。ほぼ同時に、斎藤は別の方角へ消える。
「こ、こら待て!! 逃がすな!!!」
見ていた沖田たちを完全に無視して、その一団は通り過ぎていった。
「おい、阿呆」
バキッ!!
塀の影で所司代配下の武士たちをやり過ごしていた洋子に、脳天から刀が鞘ごと叩きつけられた。振り返った途端
「いきなり叩くことないでしょうが!」
バシッ!!
「阿呆、声がでかい」
苦みを帯びた声で、斎藤は言った。叩く音だって結構大きいと思うけど、と呟く洋子に
「それにしても、何だって所司代の奴らがいきなり来たんだ?」
「さあ。──やり合うとか何とか、風呂場でちょっと喋ったのは事実ですけど」
ガンッ!!!
「多分それが原因だ。ったく、この阿呆が」
叩かれた側は、数秒ほどうめいていた。やがて
「それにしても、折角化粧したのになあ」
星明かりと月明かりしかないので、顔はよく見えないのだが。
「貴様がそういうことするから、妙な事態になるんだ。大体、化粧なんざ大道芸人がするもんだろうが」
「違います! そんなこと言ってたら一生女の人近寄ってきませんよ!」
バゴッ!!!
「黙れ、大道芸の分際で」
「──だから、大道芸じゃないって言ってるでしょうが」
卒倒は免れたが、痛いので叫べない。斎藤は鼻で笑って
「大体、女が袴姿で銭湯に行ったらいかんという規則はないだろうが。何でいちいち着替えるんだ、面倒くさい」
「羽織袴だと、店員さんから変な目で見られるんです。男と思われたりして」
「阿呆。やましいことがないなら他人の視線は気にするな。堂々としてろ」
「──やましいことならありますよ、逆の意味で」
屯所では、女であることを隠している。そういう意味でやましいと彼女は言ったのだ。
「その割には、屯所で騒ぎすぎだがな」
「あれは斎藤さんが悪いんです! 何度も言いますけど、誰も…」
バキッ!!!
「いいから帰るぞ。取りあえずお前の家だ」
「……はーい」
洋子は渋々頷き、歩き始めた。
その頃残る二人は、銭湯の玄関にいた。騒ぎが収まるまで、暖かい建物の中にいることにしたのだ。湯冷めすると体に悪い。
「大丈夫ですかね、あのお二人」
心配そうな顔で、お夢が言った。
「ん? 大丈夫だよ。所司代の手下に捕まるほどバカじゃない」
「だって、喧嘩の最中じゃないですか。もしどっちかが──」
お夢の顔が真剣なのを見て、沖田は逆に吹き出した。そして
「あのねえ、お夢さん。あの二人の喧嘩って、三度の食事と同程度のもんなんだから」
「──そうなんですか?」
言われた側はきょとんとしている。彼は苦笑して
「そう。洋子さんが何言ったか知らないけどさ、とにかく所構わず周りの迷惑顧みず。それも毎日毎日似たようなことでさ。そのくせさっきみたいなことがあると、行動まるで一緒だし。あれなんか本当は『何でもない』で済むはずなんだからね、まだどっちも実力行使してなかったから。──ある意味いい二人組だよ、ホントに」
「本当に、そうなんですか?」
念を押す少女に、沖田はまた苦笑して
「そうなんだってば。あの二人の喧嘩に一番慣れてる僕が言うんだから、間違いない」
そう言えば洋子さんも同じこと言ってたっけ、とお夢は思い、やっと笑顔に戻った。
沖田とお夢が洋子の家に戻ってみると、何故か追われているはずの二人の方が先に着いていた。洋子はもう荷物を集めだしている。
「えーっと、あと香水、香水──と。あった!」
棚の中から小さな何かを取り出した途端、ガツンと一発食らった。
「阿呆。そんなもんいらんだろうが」
「要りますって! そういう風だから女の人に嫌われるんですよ、斎藤さんは!」
バキッ!!
「それとこれとは関係ない。お前が香水なんざ使うな」
「だって、屯所って無茶苦茶暑苦しいし汗くさいんですよ。こっちに臭いが移ったら嫌じゃないですか」
「阿呆。その程度慣れろ」
「慣れろって、だったら稽古手伝って下さいよ! 斎藤さんが稽古押しつけるせいで、余計臭いんですからね!」
バシッ!!!
玄関で呆れて見ていた沖田に、お夢がひそひそ声で話しかける。
「──ホントに所構わずですね、お二人の喧嘩って」
「でしょ? しかもこんな夜遅くに。近所迷惑もいいとこだよ」
バゴッ!!!
凄まじい音がしたので改めて見やると、洋子が倒れていた。