るろ剣インターネット版同人誌

番外編エッセイ「私にとっての新撰組」

 

 すぎむらよしえさまリクエスト「貴方にとって新撰組とは?」を改題して「私にとっての新撰組」にしました。次から本文です。

 もともと歴史が好きで、小学三年の時に日本史の学習漫画を買ってもらった私には、新撰組と言っても最初は歴史の中の一部に過ぎなかった。例えば女王卑弥呼や聖徳太子、はたまた源平合戦や戦国の武将たちのような。
 そのマンガ本の巻末の質問コーナーで、新撰組について解説してあるところももちろん読んだ。しかし当時はただそれだけで、新撰組に本格的にはまったのは実はるろ剣を読み始めて以降である。
 更に言うと、るろ剣を読み始めたのも、最初は「幕末・維新を扱ったマンガ」という理由だった。詳しくは共通トップにある「ご挨拶」を読んで欲しいが、とにかくそういう動機であり、たまたまるろ剣の作者が自分の好きな本として『燃えよ剣』や『新撰組血風録』を挙げていたからそれを買って読んだという風だ。他人に偉そうに語れるほどのファンではない。従って新撰組で誰が好きかと言われても、少々困る。

 新撰組そのものは、前後の状況から見て不可避の存在だったと思う。あの混沌とした幕末、しかも人斬りによるテロ──これは司馬遼太郎の言葉だが──が横行していた京都では、何らかの形で特殊な治安維持組織が必要であり、それを担ったのが新撰組という言い方が出来る。ここで惜しまれるのが見廻組がほとんどものの役に立たなかった事実で、坂本龍馬を殺したのが彼らではないかと言われる程度であり、彼らが活動していれば或いは新撰組や会津藩は憎まれることはなかったかも知れない。
 というのは、新撰組幹部や会津藩士の身分は尊王攘夷派とほとんど変わらない。言うなれば彼らも従来の権力中枢から見れば部外者であり、旗本中心の編成だった見廻組の方が遙かに権力中枢に近い。そして、人の心理として、仮に同じことをやっていたとしても権力中枢に近い方をより憎む、少なくとも好まないか裏を読みたがる傾向がある。つまり、見廻組が仮にもっと積極的に活動していれば、まず志士たちの憎しみは幕府中枢に近い彼らに向かい、新撰組はそれほど憎まれずに済んだと思えるのだ。

 近藤、土方の最期も、ある時代を終わらせるためには必要だったのだと思う。日本史でも鎌倉幕府崩壊の際には幕府に殉じて死んでいった武士たちが大勢いるし、関ヶ原や大坂夏の陣でも豊臣側についた武士の多くが処刑されたり切腹や戦死したりしている。更に世界史では、ある王朝が滅ぶときには本当に多くの貴族、更には王や皇帝までもが死んでいる。彼らがになった役割は、本当はより中枢の人間が担うべきだったと思うが。
 慶喜の、絶対恭順という政治判断の是非は置く。私は明治維新は西洋的な意味での革命とは思っていないし、英語でもそういう表記はされていない。何故なら西洋における革命の動機であった市民階級の政治参加は幕末期の問題ではなかったし、結果として起きた政権交代も幕府から朝廷・薩長という武士階級内、支配者階級内のものに留まってしまっている。これは明治維新が本質的に国の安全保障問題から始まっているため、軍事的により強い者が政権を握ることになったせいだろう。そして慶喜は、諸外国からの干渉をなくすために絶対恭順の姿勢を取ったのだろうが、少なくとも革命として成立し得るためには、旧体制の象徴としての慶喜の死が心証的に不可欠だと思う。

 実を言うと、私は斎藤ファンでありながら彼の唱える『悪・即・斬』が余り好きではない。冒頭に書いたように私はまず歴史が好きで、歴史上の善悪の価値判断は時代や社会体制、更には歴史書を書いている人間の価値観にかなり依存すると思っている。そういう目で行くと、果たして彼の言う悪が本当に普遍的な意味で悪なのか、彼の個人的感覚で善悪を決めてしまい、殺すまでもない人物を殺すことがないか。悪を『演じている』だけの人物を殺してしまう可能性はないのかと考えてしまう。そうした独裁者的危険性が、彼の正義には常につきまとっているのだ。だから彼の剣心に対する批判の目には「何もそこまで言わなくても」と思うことがたまにある。
 結局、私は斎藤の孤高性、あるいは美学が好きなのだ。「犬は餌で飼える。人は金で飼える。だが、壬生の狼を飼うことは何人にも出来ん」と言い切るほどの孤高性。或いはかの「無論 死ぬまで」や、最近の「人間ならば、知性で『引き際』というものを悟る。犬畜生でも本能で察する。だが、己の敗北を勝者のせいにして引き際を見失った奴などそれ以下、犬畜生にも劣る化け物同然」に現れる美学。
 己の信念を本当に貫くつもりなら、人は孤独を避けられない。また、貫くとなれば一生かけて貫くべきだし、結果としての己の敗北は己で責任を取る。それを覚悟しているからこそ、信念の中身は置いても斎藤が好きなのである。「そこまで覚悟してるんなら何も言うことはない、ついて行きます」という感じだ。
 要するに、信念の中身ではなく信念を貫く際の姿勢に惚れた、というべきだろう。それ以前に、好いた惚れたを理由づけするのも何だかなあ、と書いていて思ったりもしたが。

 私はもともとそういう孤高のキャラ、美学のあるキャラが好きなようだ。孤高のキャラには必ずと言っていいほど己の美学や信念があるが(更に言うと暗い過去を持っているキャラも多い)、美学や信念のあるキャラ全てが必ずしも孤高ではない。結局るろ剣における私の斎藤・蒼紫好きはこの付近が原因である。更に言うとこれは他の作品にも当てはまり、作品として面白くてもこれと言った好きなキャラのいないマンガ・小説は、私の場合かなり多い。
 この場合、信念の中身はさほど問題ではない。もちろんまともな方がいいに決まっているが、大体孤高のキャラは周りが受け入れてくれないから孤高なのであって、多少の危険性が伴うのはやむを得ない。要は独りでそれを貫く覚悟があるかどうかだ。それがあれば好きになるし、閥、特に上下関係を作るようなキャラは基本的に好きにはなれない。

 

 ・・・以上、ちょっと脱線箇所がありますが、見逃して下さい。

 

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