るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 石田散薬

 「もうすぐだ。大丈夫か、洋子」
「大丈夫です。何とか」
もう夕方。洋子は土方と二人で、あぜ道を歩いていた。
 と言っても、洋子の方は半分以上小走りである。土方の歩くのが速いので、ついていくのに必死なのだった。土方なりに配慮はしているらしく、もう朝から三度(うち一度は昼食)茶屋で休憩はしているのだが。
「お、歳じゃねえか。喜六さんが待ってたぜ」
村人の一人が、そう声をかけた。野良仕事の帰りらしい。
「俺も明日は行くから、今年もよろしく頼むぜ」
土方は黙って軽く頭を下げた。それを見ながら、洋子は軽く首を傾げる。
「明日は村中の人間を使ってやるからな。今頃は農作業がちょうどあく時期で、声をかければ百人近く集まる」
「百人、ですか」
当時、百人といえばかなりの大人数である。洋子は驚いていた。
「ああ。──と、あそこが俺の実家だ」
遠くにかなり大きな一軒家が見える。歩くので十分疲れていた彼女は、目的地が見えただけでほっと息をついた。

 「歳、来たか」
「佐藤さんじゃないですか。お久しぶりです」
扉をがらっと開けた途端、土方には聞き慣れた声が届いた。
「明日は土用の丑の日だから、薬作る日だと思ってね。暇そうな若い衆を二十人くらい連れてきた。これで十分足りるだろ」
奥から妙齢の女性の声が聞こえる。肝の据わった声だ。
「姉上も来てるんですか」
「ああ。──と、その子は?」
洋子を見て、佐藤と呼ばれた男は訊いた。
「うちの道場の弟子です。おぬいの古着を譲って貰ってる──」
「ああ、あの子か。話は聞いてる」
屈んで洋子の顔を覗き込む。慌てて自己紹介した。
「あ、天木洋子と言います。初めまして」
「お洋ちゃん、でいいのかな」
「はい。それはもうご自由に」
そこに、今さっきの女性の声が聞こえる。
「何を玄関で立ち話してるんだい、あんたたちは。こっち来て顔見せなよ」
「今行きますから、ちょっと待ってて下さい」
土方が応じる。洋子は彼の敬語がちょっと可笑しかった。クス、と笑ったところに
「おい、洋子」
びくっ! となったのは言うまでもない。
「妙な騒ぎは起こすなよ。いいな」
「分かってます」
少しうんざりしたような調子で応じる。今朝から何人に言われたことか。
「大丈夫だよ、歳。さっきもちゃんと挨拶できたし、うちの子よりよほどしっかりしてる。心配いらないと思うがね」
佐藤が助け船を出した。玄関を上がりながら土方は
「いや、斎藤君に言わせると、分かったと言った傍から忘れるらしいですから。くどくてもことあるごとに言っておかなくては」
「斎藤さんの言う事なんて、真に受けないで下さい。あの人の場合、自分で騒ぎの種を蒔いて水まで注いでるようなものなんですから」
唇を尖らせながら、洋子は応じた。

 食事の方は、どうにか無事に済んだ。隅で女ばかり四、五人固まっていたので、喧嘩を吹きかけられるようなこともなかったし、洋子は土方が横目で時折自分を見るので、そうそう妙なことをするわけにも行かなかったのである。
「お休み、お洋ちゃん」
「はい。お休みなさい、佐藤さんにおのぶさん」
挨拶してから、襖を閉じる。洋子と土方、そして佐藤彦五郎と妻のおのぶは、さっきまで宴会をやっていた続き間の和室を使って休むことにした。二人で六畳一部屋を使う。
「あー、疲れた」
叩かれない分稽古に比べれば遙かにましだが、試衛館からここまで土方の足に合わせて歩くのはかなりきつい。疲労の度合いはそう変わらなかった。
「明日は朝早いからさっさと寝て、疲れを取っておけ」
「はい。そうします」
蚊帳の中に入り、肌がけ布団をかぶって横になる。百数える間に洋子は眠りこけていた。こうまで寝付きがいいと、土方としては苦笑するしかない。
「相当きつかったらしいな。帰りはもっとゆっくりするか」

 「おい、洋子。起きろ」
翌朝、先に起きた土方は洋子を軽く揺すっていた。彼女は目も開けずに
「──んあ…おはようございます…。──やけに優しいですね、斎藤さん…。何かあったんですか…?」
「おいおい、俺は斎藤君じゃないぞ。土方だ」
「───へ?」
情けない声を出して、洋子は薄く目を開けた。そして次の瞬間、がばっと跳ね起きる。ものも言わずに物凄い勢いで布団を畳んでいる彼女に、土方は一瞬戸惑ったが、
「そう急がなくてもいいんだぞ。まだ夜が明けたばっかりだ」
「──」
洋子は布団をその場においたまま、その上からごろんと横になってしまった。
「──おいおい」
あまりの態度の激変に、土方は呆れて注意する気にもならない。これが斎藤なら、同じ倒れるにしても脳震盪で卒倒しているところだが。
「急がないでいいんなら、ぎりぎりまで寝せてて下さいよ…。どうせ今日もきついんでしょうから、後少し──」
「見学だけだから、そんなにきつくはならないはずだ。それに顔も洗わんといかん」
「そんなの、三十秒で出来ますよ…。昨日散々歩いたせいで、疲れてるんですから…」
声が寝ぼけている。やれやれ、と土方はため息をついた。
「勝手にしろ。食事の保証はないぞ」
数秒後、洋子はむっくりと起きて布団を運び始めた。

 「言っておくが、見てるだけでいいからな」
「はーい」
朝食後、土方は洋子にそう言った。部屋で道場着──これが彼女にとって一番動きやすいのだ──に着替えながら応じる。
「着替え終わったらすぐ行くぞ。みんな待ってる」
「あ、はい」
少し急いだ方がいいらしい。程なく着替え終わり、土方の後について歩いていく。広縁前で大勢の男たちが待っていた。
「これだけいれば大丈夫だな」
ざっと見ただけで百人。今日中に終わるには十分だ。
「じゃあ行くか。よろしく頼むぞ」
土方が一言言うだけで、そこにいる男たちは家を出て歩いていった。

 二人は、一行の最後尾を歩く。川に生えている草をみんなして取るのだ、とは昨日一通り聞いた工程の最初である。今日の土方は、さっきから何も言わない。黙って何か考えているような雰囲気だった。こういう時の彼は、何となく声をかけづらい。
「この付近だな」
数分歩いたところで、土方はそう呟いた。次に声をかけて男たちを止め、素早く割り当てを決める。実際に川に入って草を取る者、取った草を川岸で集める者、ある程度集まったところで土方家に持っていって庭で干す者。これらを幾つかの区域に分けてそれぞれに決めるのだ。実際に草を取るのは体力のありそうな若い者が多く、集めたり持っていったりは中年の男が中心である。そして土方は、自分で分けた区域を順番に見て回っては監督していた。洋子も当然ついていく。
「こら、そこ、喋るな。仕事せんか!」
川岸から鋭い声が飛ぶ。土方ではなく、集める担当の者が草を取っている若い衆を叱っているのである。彼自身は滅多に口を開かず、基本的にはただ黙って見て回っているだけだ。さすがに歩くのもさほど早くない。
「歳、これ運んでくる」
「ああ。向こうで干しててくれ」
集まった草がざる一杯にたまっている。それを持っていって干すのだ。
「源二の奴が持って行きやがった。おい、負けるな!」
「急げ!」
素朴な競争心をあおられるのか、俄然、他の区域もやる気になる。間もなく次々と草が運ばれだし、土方たちのいる土手の上は人がしょっちゅう行き来するようになった。
「この分なら、予定より早く終わりそうだな」
「そうですか? ああよかった」
その声に張りがないので見ると、洋子はしきりに汗を拭っている。
「水だ、飲め」
土方が腰につけていた瓢箪を渡すと、ものも言わずにごくごく飲む。かなり飲んだと思われる頃、ふうっと息をついて礼と共にそれを返した。
「大丈夫か? 何だったら家で休んでていいぞ」
「いえ、大丈夫です。いつもこんなもんじゃありませんから」
言われていつもの光景を思いだし、苦笑する。しかしいつもは、斎藤に気絶しているところに水をぶっかけられるか、水の入った桶に顔を突っ込まれるかで起こされるので、今の方が体に熱はたまっているかも知れない。そうでなくとも夏に入ってから、稽古の後には必ず頭から水をかぶっている洋子である。

 「おーい、歳。そっちは大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、兄上」
そこに兄の喜六がやって来て、訊いた。土方は答えはしたが、迷惑そうに聞こえる。
「ちょっと見てこようと思ってな。大丈夫ならいいが」
「心配ご無用です。兄上は草を干すのの監督をお願いします」
やや強い声で言い切った。洋子が見上げると、土方は自分の兄を軽く睨むように見ている。それに気圧されたのか
「あ…ああ、分かった」
と応じて、喜六は戻っていく。再び視線を川に戻した洋子は、小さく呟いた。
「──何も追い返さなくても──」
「仕事の速度が落ちるからな」
ぎょっとして土方を見上げる。その彼は川を見ながら
「俺以外に命令する人がいると、どうしてもそうなるんだ。と言って止めるわけにもいかんし、早々にお引き取り願うのが一番だ」
「───」
納得していない風の洋子を知ってか知らずか、土方は再び歩き始めた。後を追う洋子に
「下の人間から見れば、どっちに従うべきか分からない。結果、指揮系統が乱れて、仕事の速度が落ちる。やり方の違いもあるし、怠ける奴も出てくるだろう」
と、一瞥もせずに説明する。そういうもんなのかな、と首を傾げつつ半分は納得したような洋子に、土方は言った。
「だからお前の稽古は、斎藤君に一任してるんだ。色々不満もあるだろうが、我慢してくれ」
はっとなって見上げた視線が、見下ろす視線と交差した。
「──分かりました」
洋子はそう応じた。全てを納得したわけではないが、少なくとも土方の考え方は分かったような気がした。

 

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