るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 記憶(2)

 「天城君」
次の日、廊下を歩いていた洋子はそう呼ばれた。
「昨日の一件、考えてくれた?」
伊東だ。近付いてきた。洋子は苦笑を見せつつ
「やっぱり私には向いてないと思いますよ、ああいうことは」
「どうして?」
穏やかに聞いた。彼女はそのままの顔で
「何しろ普段が普段ですからね。いざとなったら相手が誰だろうと騒ぎを引き起こしかねません。そうなったら伊東先生にもご迷惑がかかるでしょう」
「大丈夫だよ、その付近は。君が怒るような失礼なことを言う方々じゃない」
「公卿の方々はそうでしょうが、その従者になると──」
はっきり言って、どこかのごろつきと大差ない。もともと公卿と言うのは貧しいもので、最近になって宮廷工作のための賄賂やらなんやらでやっと豊かになってきたのだ。おまけに世情の物騒さもあり、用心棒代わりに腕の立つ武士を雇うこともある。この場合は武士と言っても浪人侍のことで、教養も礼儀作法もあったものではなかった。彼女は昔、そうしたことが原因のゴタゴタに出くわしたことがある。
「仮に相手が、我々のことを悪く言ったとします。伊東先生のように弁が立てば言葉で切り返すことも出来るでしょうが、私だったら間違いなく決闘沙汰ですよ」
「じゃあ、会わないようにすればいい。私と同室で、後ろに控えててもらうようにすれば」
「こら、洋。何を立ち話してるんだ」
そこに道場傍の縁側から、そう斎藤の声がした。洋子はこれ幸いにと
「あ、はい。──また後で」
軽く一礼して、その場を離れた。

 「ったく、遅いぞ」
「仕方ないじゃないですか、伊東先生と話してたんですから」
「そんなもん、さっさと切り上げてこい。仕事が最優先だろうが」
「はーい」
これでも一応、斎藤なりに気は遣っているのだ。相手が伊東でなければ話し中だろうが何だろうが殴りつけて気絶させ、そのまま道場に連れ込んでいる。
 そもそも斎藤は、洋子が学問をすること自体を嫌っている。何故かは洋子にはさっぱり分からないが、とにかくそれでかつて寺子屋も辞めさせたし、現在の伊東との勉強会もきっかけさえあればやめさせたいらしい。だから彼女としては、口実を与えないためにも仕事最優先を原則にしているのだ。仕事が終われば個人の時間なのだから、隊規に反しなければ何をやろうと新撰組では文句は言われない。いちいち言っていたら、自分の命が明日とも知れない組織だけに不満が鬱積して、かえって統率上有害である。
 加えて斎藤は、もともと稽古後に洋子が何をやっていようが(自分への悪口を怒鳴り散らしていても)放っておく方針だったので、今更口を出すことも出来ないのだ。
「──で、何を喋っていた」
竹刀を取って庭に降りる途中の洋子に、斎藤はそう訊いた。
「別に、斎藤さんには関係ないことですよ」
面倒そうに答える。大体言うわけには行かない。
「阿呆。お前の行動で俺に関係ないことがあるか。どこに行くつもりだ?」
「知りませんよ。伊東先生に訊いてください──って」
しまった、と洋子は思った。伊東が行き先を知っていると告げたことは、つまり伊東とどこかに行くことを白状したに等しいのだ。
「──話を聞いてたなら聞いてたと、初めから言ってくださいよ」
「阿呆、気づかんお前が悪い」
返事代わりのため息をついて、洋子は庭に降りた。

 行きたくない、会いたくない。
 あんなところには戻りたくない。
 ──戻るくらいなら、死んだ方がまし。

 あの夜のことが、何度も頭をよぎった。
 あいつの顔も分からないまま。
 自分を売った、婚約者である従兄弟の顔。
 思い出すこと自体を、拒否しているかのように。

 区切りがついたところでいったん斎藤は道場を離れ、土方に報告した。
「──困ったもんだ、伊東さんにも」
他の隊士ならまだしも、寄りにもよって洋子である。土方は苦々しげに続けた。
「折角封じ込めていた記憶を、蘇らせやがって。──あの荒れようはそのせいだろ」
「そうですかね」
若い斎藤には、その付近のことはよく分からない。第一今の相手は組長級のはずだ。道場内でやるので、声が大きく聞こえるだけかも知れない。──とは言え…。
「大体、公卿の家に行ったところで戻るとは限らんのだが」
というかむしろ、可能性はかなり低い。第一『畠山静』は法的には死んだことになっており、従兄弟のいる畠山家としてもそれを押し通そうとするだろう。その壁を打ち破って断定するのは、かなり現実として難しい。
「──一つ言っておきますが」
ややあって、斎藤はそう口に出した。
「万一の場合でも、あいつはやりませんよ」
一瞬間をおいて、土方が応じる。
「ああ、それでいい」

 「おい、洋!」
   バキッ!!
「いっった──。何するんですか、斎藤さん」
「もう少し静かにしろ。副長と話があってるのに必要以上に怒鳴り散らすな。やかましい」
「──そんなに騒いでましたか?」
洋子はちょっと虚をつかれたような表情である。舌打ちして
「副長が荒れてると言ってた」
「──そうですか」
最後の洋子の声には、張りが明らかになかった。そのまま庭に向かって数歩降りようとした途端、竹刀を襟に突っ込まれて背中から引き戻される。
「うわ、何──」
「ったく、何が原因かは知らんがな」
──何だってこいつは、ばれることと戻ることを同義に解釈するんだ。
「いちいち動揺するな。荒れるな。荒れたところでお前がどうなるものでもない」
──俺たちの許可なしで、公卿どもが勝手にお前をどうこうできると思うか?
「要は、お前がどうしたいかだ。それを真剣に考えてたら、荒れる暇はない」
──だからお前は阿呆なんだよ。その程度もわからんで動揺するからだ。
「分かったか?」
「──分かりました」
頷いた。声が少し、いつもの調子に戻っている。
 その様子を、遠くから伊東甲子太郎は見ていた。

 『天城洋』のある面を、ある意味で最もよく分かっていたのはこの男だったろう。
 洋は古典の教養が驚くほど深く、教えている伊東自身が舌を巻くようなことさえあった。売られる前の実家で教えられていたのだろう、とは近藤の台詞だが、町の子どもにしては知りすぎている。その付近に疑念がないとは言えなかった。
 加えてもともとの頭もいいらしく、自分が言ったこともすぐに覚えてくる。おまけに師範代を勤めるほどの剣腕の持ち主であり、伊東の見るところ師範である斎藤とも実力差はほとんどない。出来れば欲しい人材だった。
 だが、何故拒む? 伊東にはそれが謎だった。単なる周囲への配慮だけで、ああも拒否し続けるだろうか? 遠慮しているにしても、こう何度も求めれば必ずいい返事があるはずなのだ。荒れているかどうかは分からないが、拒否自体が彼には妙だった。
「近藤先生」
土方とはお世辞にも仲のよくない彼としては、近藤が情報源である。
「明後日、ちょっと綾小路さまのところに行くんですが」
「おお、周旋活動ですな。ご苦労様です」
「それで、天城君を連れて行きたいのです」
「──伊東先生」
言葉を遮るように、背後から厳しい声がした。
「──土方先生ですか、これはこれは」
穏やかに聞こえる声の裏に、かなりの緊張感が漂っていた。

 「周旋活動は構いませんが、連れていく隊士は選んでくれませんかね」
土方としては、かなりえん曲に言った方だろう。伊東は笑みさえ浮かべて
「私としては十分、選んでいるつもりですが」
とぼけやがって、と土方は内心毒づいた。
「でははっきり言いますが、天城洋を連れて行くのはお止めいただきたい。本人は望んでもいないんです。それを局長に頼むとは」
「望んでいない、というより、遠慮していると言った方がいいと思いますが」
こいつは何も分かってない、と土方は確信した。
「いずれにしても隊務外のことである以上、本人の希望がない限り強制はしないでいただきたい。まして天城君は剣術師範代という重要な地位にいます。本業に差し障りあることはお控えになるのが参謀としての勤めでしょう」
「──おい、歳──」
近藤が間に入ろうとする。が、伊東の声が早かった。
「ほう、では周旋活動自体が隊務外のことと言われるわけですか、土方先生は」
怒鳴りこそしないが、その声は近藤の介入を封じ込めるほど厳しかった。
「組長級以下にとっては、です」
土方は動ぜずに言い返す。彼らには京都の治安を最前線で維持するという大事な役目がある。周旋活動などに気を回して、本業が疎かになっては困るのだと。
「難しい話は、我々がやればいいんです。組長以下にまで無理に持ち込む必要はない」
「──なるほど、分かりました」
伊東は、幾分穏やかな声でそう言った。そしてすっとその部屋を出る。

 「歳、何もああ言わなくてもいいんじゃないか?」
伊東の気配が遠ざかって息をついた土方に、近藤は訊いた。
「他の人間だったら、好きにさせてたさ。だが洋はダメだ」
万一のことがあった場合、新撰組はどうなるか。それを考えるのが、自分たち上層部の勤めである。所詮烏合の衆の浪士組など、いざとなれば切り捨てられるだろう。それほど大きな事態になる可能性を、洋子の存在は持っていた。
「いくら高家とは言え、所詮旗本だぞ? それほど騒ぎになるとは思えんが」
近藤は言った。旗本の次男や三男で構成された見廻組の無能さから見て、騒がれるほど大きな存在とは思えない。
「政治的な影響の話だよ。忠臣蔵の吉良の正室は、大名の上杉家からだったろうが。おまけに高家は公家とも繋がりがある。先の当主の娘だ、顔を知っている奴の一人や二人はいてもおかしくない」
確かにそこからはいろいろ問題があるんだが、と土方は言った。噂だけでも立とうものなら洋子は新撰組にいられなくなってしまう。新撰組に女がいて、しかもその女が師範代をやっているなど、世間的に見て不名誉以外の何者でもない。
「あり得ないだろうが、万が一にも会津中将さまや一橋卿に事の次第が漏れてみろ。大騒動になりかねん」
「───」
「災いの芽は、誰かが種を蒔くから出るんだ。蒔かないですむなら摘む必要もない」
「分かった。お前に任せる」
言った後、近藤は深くため息をついた。

 昼食後、午後の稽古に向かおうとした洋子に、伊東は声をかけた。
「例の一件、土方先生に止められたよ」
「は?」
洋子はきょとんとしている。それが伊東には少々意外だった。
『土方の独断専行か』
てっきり、洋が行きたくないと土方に言ったのかと思ったのだ。
「組長級以下の隊士を、周旋活動に連れ回すなって」
と、伊東は続けて言った。その声に、特に変わったところはない。
「そうですか」
反応も普通だった。どうやら本人は関知していないらしい。
「まあ君も確かに色々大変そうだから、今回は来なくていいよ」
「──どうも」
それだけ言って、洋子は以降の応答に詰まった。この場合、言いたいのは「ありがとう」でも「すみません」でもない。大きく息をついた。
「心配させたみたいだね」
「いえ、私の個人的な事情が原因ですから」
──そう、誰にも言えない。御庭番衆にも。言えば騒ぎになるかも知れないから。
「気にしなくていいよ。私一人でどうにか出来るから」
そう言って、伊東は歩いていこうとした。
「──あの、伊東先生」
名を呼んだ洋子は一瞬間をおいた後、言葉を継ぐ。
「公家連中を説いて回るのは、やめた方がいいと思いますよ」
「どうして?」
「彼らは余り頭が良くないって言いますし、それに」
これ以上言うべきかどうか、洋子は一瞬躊躇った。
「所詮、従姉妹を売り飛ばすような連中ですからね」

 二人が立っている縁側付近を、珍しく風が吹き抜けた。
 その中で、伊東は微笑してこう応じた。
「大丈夫、私は売られるような人間じゃないから」
そして、洋子が反応する前にすっと歩いていった。

 

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