「静さま、奥方様がお呼びです」
「分かりました。今参ります」
自室で本を読んでいた静は、廊下からの呼び声で立ち上がった。季節は春真っ盛りの弥生だが、庭の桜はかなり散ってしまっている。
畠山静は、この年数えで十歳。数年中には従兄と結婚して、父の死後には後を継ぐことになっていた。ただ、その前に大奥か京都の摂関家の屋敷かで行儀見習いをした方がいいという話もあり、その場合には一、二年ほど、結婚が遅れることもあり得た。だが、いずれにしてもすぐの話ではないため、静は家で琴や古典を習ったり、読書や客への挨拶などで日を過ごしていた。
「義母上、参りました」
「知らせがあります。中に入りなさい」
廊下を歩いてある部屋の前で呼びかけると、義母で父の正室でもある永子から返事があった。「はい」と言ってそっと障子を開け、中に入る。永子は京都の公家出身で、目の端に細かいしわがあり少々太っているが、若い頃は美人だったような面影があった。
その彼女が座れと手で合図したので、静は腰を下ろした。
「読書中に邪魔をするのは悪いと思いましたが、大事な用件ですので。──六角家の侍女で、当家にもよく来ていたおあん殿が、病で亡くなられたそうです」
「──それは、本当ですか?」
静は驚いていた。おあんとはほんの十日ほど前にここで会ったばかりで、実感がない。
「通夜は今夜で葬儀は明日だそうです。私たちの代わりにお銀に行ってもらうことにしましたから、伝言などがあれば伝えておくように」
お銀は中年の女中で、静の生まれる前からこの家で働いている。静の背後にいた彼女は、永子の視線を受けて一礼した。
この頃江戸では、病が流行っていた。死人も少なからず出ており、原因は異人を入れたからだと噂されていた。そして、仕事から帰ってきた静の父──畠山家の当主・片義が体調を崩したのも、おあんの葬儀の直後だった。
「え? 父上が?」
その話を傍付きのお菊から聞いた時、静はただの風邪だろうと思っていた。
「ただ今、医者の診察を受けておいでです。それでお許しが出ればお見舞いに行くことになりましょうから、予めご予定に入れておいて下さい」
「分かりました」
彼女は頷き、再び本を読み始めた。
静が呼ばれたのは、それから一刻半(三時間)ほど経った後だった。すぐに奥にある父の寝室に向かい、入る前に一言
「静です」
と廊下から声をかける。程なく障子が中の者によって開き、彼女は入室した。
父の片義は、この時四十前後だろうか。高家という名門の当主らしく鼻筋の通った、どちらかと言えば優しい顔立ちだ。静が入った時には布団の中で、濡れた布で頭を冷やしていたが、意識はあるようで目を開いて宙を見つめていた。
「父上、急なご病気とのことですが、大丈夫ですか?」
「静か。ああ、大丈夫だ」
片義は僅かに娘の方に顔を向けて、応じた。熱のためか顔が赤く、彼女が取った手もやや熱い。心配になった静に、父親は
「ちょっと無理をしただけだ。明日には治る」
と言って、微笑した。そして顔を戻し
「学問の方はどうだ、進んでいるか?」
「はい。今も本を読んでおりました」
「そうか。──京の治安がよくなれば、そなたを行儀見習いに行かせるのだが」
天井を見上げ、呟くように言う。──京都は人斬りが横行し、治安が悪化していた。そんな中に娘を出すのは危ないという話で、静もいつだったか少し前に聞いている。
「いずれはどこかに出さねばならんのだが──」
片義はそう言って、思案を続けていた。
考え事の邪魔になるだろうと思って程なく部屋を出た静は、近くにいた与兵衛という顔見知りの下男に、気になっていたことを訊いた。
「義母上はいずこに?」
「奥方様は一刻ほど前にこちらにお見舞いにいらした後、すぐにあちらの部屋で医者とお話し合いをなさっておいでです。まだ続いていらっしゃるようで」
彼は奥の方を指さし、小声で応じた。静はそちらを見て
「一刻も。随分と長いお話し合いですね」
「はい。──さあ、静様はお戻り下さい」
与兵衛はそう言って、少女を自室へと促した。
ところが片義は翌日になって高熱を出し、静たちは毎日、短い時間ながら見舞いをすることになった。他は代わらぬ生活を送っていた彼女が、実の母であるお芳の病気を知ったのは、それから数日後のことだった。
「何ですって!!? 母上が!!?」
「はい。実は五日ほど前から、ずっと──」
そう言えばこの五日ほど、自分は母に会えていない。会いに行っても厨房にいなかったので不審に思ってはいたのだが、まさか病気とは──
「何で今まで教えてくれなかったんです!?」
「それがその、お芳さまが静さまに心配をかけたくないとおっしゃって、口止めなさっていたのです。でもさすがに長引きすぎるので、こうして──」
「嘘つき!!」
静は立ち上がり、思わずそう叫んだ。母が私に、隠し事などするはずがない。
「嘘ではございません、本当に──キャア!」
抗弁しようとした、自分より数年年長のお菊の体を半ば突き飛ばして、静は部屋を出た。そのまま走ってお芳の部屋に向かう。
「母上、母上!」
大声で呼びながら、静が隅の方にある板張りの小さな部屋に入ると、お芳が薄い布団の上で横になっていた。熱のためか顔が赤く、もともと細い体がますます痩せて見える。苦しそうに肩で息をしていた。
「大丈夫ですか、母上!?」
静は枕元に駆け寄り、正座して顔を覗き込んだ。お芳はそちらを見て微笑むと、不意に
「ああ……片義さま……」
宙に手を伸ばした。それを握ろうとした静が目に入っていない様子で、目に見えない何かをつかもうとして手を彷徨わせる。動きが止まった瞬間、お芳は笑みを浮かべて
「ただ今、お側に参ります……」
何かを握りしめるような手の動き。それを見た静が手を伸ばした瞬間、お芳の腕は急に力を失って崩れ落ちた。
「母上……?」
急な変化に娘は目を瞬かせ、母の顔を見た。横を向いて目を閉じ、応答がない。
「母上!?」
異変に気づいて体を揺するも、ピクリとも動かない。
「母上ーーーーー!!!」
静は叫び、動かない母の体の上で泣き出した。
その日のうちに通夜の段取りが決まり、通例通り翌日の夕方に葬儀となる。静はその間、ずっとお芳の棺の傍から離れようとしなかった。この時代、本来ならば忌みに当たる近親者は葬式には参列しないので、永子がやって来て離そうとするが、少女が言うことを聞かないのだ。
「今日は静が来てないな。どうした?」
「それが──」
葬儀の終わった夜、眠りから目覚めたばかりの片義の問いに永子は口ごもり、他の侍女たちの顔を見た。だが、皆困惑して返事をしない。
お芳は死に際に、まだ生きている片義の名を呼んでいた。しかもその片義と呼んだ相手に、導かれるように死んでいった。これは彼の死を否応なく予感させ、単なる幻としても非常に不吉なため、お芳の病気と死は片義にはずっと隠されていた。
「──何かあったのか?」
片義は何かに気づいたらしく、訊いてきた。永子は一瞬黙った後
「いえ、何も──」
と頭を振る。そして布団をかけ直すと
「あなた様は、早くご病気をお治しになって下さい。──静を呼んで参ります」
「ああ、頼む」
その言葉に頷いて立ち上がった永子は、部屋を出て縁側に立つと密かにため息をついた。
「静、静!」
葬儀に来ていた客もいなくなり、ほぼ一人になってもお芳の棺の前でずっと手を合わせていた静は、自分を呼ぶ義理の母の声に振り返った。永子は廊下にいたお菊の案内で、棺のある部屋の中に入ると
「まだ、ここにいたのですか。そろそろ遺体を荼毘に付すために運び出す時ですよ。あなたがそこにいては、迷惑でしょうに」
「私も荼毘に付すところまでついて行きたいんですが、ダメですか?」
「何度も言いますが、ダメです!」
宥めるようだった永子の口調が、一瞬にして険しくなる。それに静は反発して
「何でですか!!? 母上を荼毘に付すのに、何で娘が──」
「葬儀はそういうものです。しきたりですから、諦めなさい」
「嫌です!! 私はここを動きませんから!!」
そう応じて、静は棺の上に覆い被さった。その様子に困ったものだという顔をしていた永子だが、ややあって息をつくと
「父上がお呼びですよ」
と告げる。数秒後、静はおもむろに顔を上げて永子を見上げた後
「分かりました」
応じて立ち上がり、うつむいて部屋を出る。それを見送った永子は
「今のうちに、棺を運んでおきなさい。──早く!」
苛立った声で、傍付きの者に命じた。
静は片義の寝室の前に着くと、いつものように一声かけて中に入った。そして片義の枕元に座ると
「ご病気の方はいかがですか、父上」
と、幾分枯れたような声で訊く。目が赤くもなっており、いつもと違うことに気づいた片義は
「どうした、静。元気がないな」
「──母上が亡くなりましたから」
彼は目を瞬かせ、たっぷり一呼吸後、驚いた様子で訊いた。
「それは……本当か?」
その瞬間、周りの者がしまったという顔になるのに、静は全く気づかずに
「父上は──ご存知なかったんですか?」
驚いていた。母の葬儀に代理すら寄越さなかった父に、彼女はかなり不信感を持っていたのだが、知らなかったなら話は別だ。
「ああ。今、そなたの口から初めて聞いた。──それで、葬儀は?」
「義母上がもう済ませました。私は荼毘に付すところまで」
静の言葉が途切れたのは、片義が急に立ち上がったからだ。周りの者は動揺して
「片義様、危ないです!」
「どうか、どうかこちらでお休みになっていて下さい!」
と口々に止め、中には「失礼!」と言って体を押さえる者までいた。それで動けなくなった片義は、大声で
「ならば永子を呼べ! 静の母が死んだというのに、私に一言もないとは何事か!!」
と叫んだ。慌てて侍女が呼びに行くのを見やって、彼は大きく息をつき、不意に足元をふらつかせて倒れ込んだ。
「と、殿!」
「片義様!!」
「父上!」
周りにいた者たちが、悲鳴に近い声を上げて片義の体を支える。体温が異常なほど熱く、再び寝かせた時には完全に意識がなかった。
「父上、父上!!!」
枕元で叫ぶ静の背後で、医者を呼ばせる大声が聞こえた。永子が駆け込んでくる。
医者が来た後、別室で事情を訊いた永子は片義のいる部屋に戻ってくると、静を睨みつけて言った。
「静、あなたは何ということを…!!」
その険悪な気配に、危険を感じた周りが止めに入ったほどだ。
「どうか静様をお責めにならないで下さい! お止めしなかった我々も悪いのです! 申し訳ございません!!」
「母上のことを父上がご存知ないなんて、思いませんでしたから! 義母上もおっしゃってくれれば良かったのに!」
侍女の言葉に続いての静の叫びに、永子は言葉を詰まらせた。考えてみればずっとお芳の棺と共にいた静は、その間の片義のことに関して何も知らないはずである。永子は唇を噛んだ。あの時自分が一言、言っていれば良かったのだ。
だが、時は既に遅かった。片義はそのまま目覚めず、二日後に息を引き取った。
片義の通夜は、亡くなった翌日の夕方からだった。数十人しか参列者が来ずにひっそりとしたお芳の通夜や葬儀とは違い、こちらは通夜だけで数百人が来る。それも大名や旗本にその家臣といった身分のある武士が多く、幕府の役人も顔を出していた。
このため永子と静は、悲しみに沈む間もなく彼らの接待に追われた。程なく従兄で静の婚約者である広助も到着し、彼は彼で接待に当たることとなった。
畠山広助は、この時十八歳。片義の弟の子供である。実を言うと、静は彼のことが余り好きではなかった。顔立ちは平均より下で雰囲気が暗く、瞳はやや濁っていて何を考えているのかよく分からないし、時折永子と同じような、見下したような目で静を見ることがあったからだ。第一彼は、お芳の葬儀には一切参加していないし線香も上げていない。
そして夜、この当時目付だった小栗上野介が訪れた。床の間のある客室に彼を通し、三人で応対する。
「片義殿との生前の約束通り、そちらの広助殿に畠山家を継がせる。ただし、静殿との結婚が条件にはなるが」
「はい、承知しております」
広助はそう応じ、頭を下げた。小栗は永子を挟んで反対側にいる静に視線を向け
「静殿も数日前に母君が亡くなられ、今また父君を失ってさぞかし心細いことであろう。
これからはお二人の言うことをよく聞いて、しっかり勤めなされよ」
「はい、わかりました」
静は一礼して応じた。小栗は頷いて、改めて仏壇の前に行き手を合わせると部屋を出る。
葬儀はその翌日の夕方から、間仕切りを取り払った部屋を使い、僧侶を招いて行われた。葬儀には忌みに当たる血縁者は参列しないので、静は永子と一緒に別室で読経の声を聞きながら過ごしている。お香の臭いがしてきた。
仏壇に手を合わせている永子は、何か言いたげに斜め後ろにいる静の方をちら、ちらと見ていたが、当の静は全く気づいていない。──私にはもう、親はいない。その思いだけで、少女は胸がいっぱいだった。
「奥方様、静様、簡単なお食事をお持ちしました」
侍女が入ってきて一礼し、そう告げた。次いで二人分のお膳に野菜の煮物と豆腐と小さいご飯、更に汁物のお椀を入れて運んでくる。本来今は葬儀だが、今日の静と永子は接待で忙しくて食事もろくに食べておらず、さすがにお腹が空いていた。だが永子は、甥の分がないことに気づくと、箸を取る前に
「広助殿の分は?」
「私もそう存じましたが、広助様はどこに行かれたのやら、こちらにはいらっしゃらぬようですし。温かいお吸い物もご用意いたしましたので、冷めては悪いと」
「そうですか。確かにさっきからここにはいませんでしたが」
どこに行ったのだろうと、永子は首を傾げた。彼も養子である以上は忌みの対象者であり、葬儀に出ることは出来ないはずだ。
彼の来ないまま、二人して食事を半分以上食べ終わったところで、与兵衛が走って部屋の前まで来た。障子を挟んで告げる。
「片義様の棺が出ます!」
静と永子は一瞬、互いの顔をちらっと見てからほぼ同時に箸とお椀を置いて立ち上がり、縁側まで出て葬列を見送った。
「お二人とも、こちらでしたか」
普段の行列より立派な葬列を最後まで見送り、中に戻ったところに広助が現れた。
「広助殿、今までどこに?」
「これからのことについて、少し打ち合わせなどをしておりました」
横目で静をちらっと見ながら、広助は応じた。少女はその視線にどこか不快なものを感じながら、永子との会話を黙って聞く。
「これからのこと?」
「はい。差し当たって明日のことですね」
そこでまた、彼は静に視線を向ける。見下したような視線にむっとしていると、永子が小さなあくびを漏らした。それに気づいた広助が
「これはこれは。奥方様も、お疲れなのでしょう。今日はもうお休みになって下さい」
「──ええ、そうですね。そうしましょう」
明日には、火葬に付したところに遺骨を取りに行くことになる。朝も早いため、前夜ほとんど徹夜だった永子は疲れが貯まっているはずだった。
「静も、今日は早めに寝ることだ。明日のこともある」
「そうします」
頷いた静に、広助は内心ニヤリと笑った。
こうして、静も早めに眠ることにした。亥の一刻には自室に戻り、着替えている間に布団を引いてもらう。そしてその中に入ると
「では、お休みなさいませ、静様」
「お休み、お菊」
お菊が布団をそっと掛ける。それからゆっくりと閉じられる襖の方を静が見ていると、お菊の背後の夜空を横切って流れ星が見えた。
「あ、流れ星」
静は思わずそう言った。お菊が背後を振り返って、夜空を見上げ
「今宵は星が綺麗でございますね。満天の星空で」
「月はもう見えませんか?」
「はい。西の部屋ならご覧になれるかも知れませんが」
そう、と応じた静は、大きな欠伸を漏らした。
それから数刻後の未明、眠っている静の部屋の前に、複数の人影があった。
中の気配を探り、互いに頷き合うと音を立てないように注意しながら襖を開く。そして忍び足でその中に入り、しゃがんで静の顔を覗き込んだ。
「ん…」
さすがに人の気配を感じたのか、静は薄く目を開いた。見たこともない男がいる。
「!」
それが誰と認識する前に、口を塞がれた。咄嗟に暴れる彼女に、
「いい加減にしろ。殺すぞ」
低い声。恐怖に硬直した少女の体を肩に担いだ男は、誰かに視線を送る。
「連れて行け」
それを受けて発したらしい声を、静は確かに覚えていた。忘れようもない、自分の婚約者の声。
驚いてその方角を見ると、広助の後ろ姿があった。互いに遠ざかっていくのが、自分にはどうしようもない。
私は捨てられたのだ──。静はそう、悟らざるを得なかった。