江戸の夏。試衛館では蝉が鳴いていた。
さて、と歩きながら洋子は思った。うるさい人もいなくなったことだし、ちょっとのんびりしようかな。
昼食後、自室に入って一つ息をつく。座ろうとした途端、痛みが走った。──だからって、あんなに無茶苦茶稽古しなくてもいいのに。斎藤さんは。
またため息をつく。横になろうとした瞬間、玄関から沖田の声が聞こえた。どうやら帰ってきたらしい。出迎えのため、洋子は部屋を出た。
「おう、帰ったか総司」
行ってみると、土方が迎えに出ていた。沖田は手に漆器の重箱を抱えている。何だろうと思って更に近づいて来たとき
ニャーオ
という、猫の鳴き声が沖田の足下から聞こえた。土方も洋子も驚いた様子でその方向を見ると──白毛に薄茶色の斑のある猫の尻尾らしいものが、服の端から覗いている。
「ああ、この猫ですか? 角の大村さんに、ちょっと旅行に行くから預かっててくれって言われまして。──その代わりにこれ。ぬか漬けも貰ってきました」
重箱の蓋を開けると、確かにぬか漬けだった。キュウリにナスに──
「あ、いいですねそれ。ぬか漬け好きなんですよ」
洋子が横から顔を出して言った。
「でしょ? お常さんはしょっちゅうぬか床をダメにするからねえ」
「──ま、それはともかく」
と、土方は背を向けた。道場に戻りつつ
「取りあえずお常さんにそれ渡して、それから稽古だ」
「はーい」
沖田は笑って応じた。それから廊下に上がって、厨房に向かう。
洋子は部屋に戻ってきた。襖を開けようとした途端、足下の気配に気づく。
「あー。猫さん、こっちに来ちゃったんだ」
沖田さんのところに戻さないと、と思いつつ、しゃがみ込んで抱き上げようとした。ところがその猫は彼女の腕をするりと抜け出し、廊下をとことこ歩いていく。
「そっち行っちゃダメだってば、猫さーん! 沖田さんのところに戻らないと」
声をかけつつ後を追う。前に回り込んで抱き上げようとしたところ、その猫は縁側も兼ねている廊下から地面に下りてしまった。
困ったな、と一瞬洋子は思ったが、すぐに自分も裸足になって地面に下りる。そして今度は後ろから捕まえようと気配を殺しつつ接近した。抱きかかえようとした瞬間
ピョン
と猫が飛び上がった。庭の隅にある岩に飛び移ったのだ。更に洋子が捕まえようとしたのより一瞬早く、今度はそこから木の幹に飛び移る。そして悠々と木の上の方に上っていき、洋子の背では決して届かない高さの枝のところで丸くなった。
「あーもう、猫さーん! 下りてきてよー!」
洋子はその猫を見上げて手を伸ばすも、猫は見向きもしない。ピクリとも動かずに丸くなっていた。どうしよう、と彼女は深刻に困っていた。
一番手っ取り早いのは沖田を呼ぶことなのだが、自分でこの事態を引き起こしただけに他人には頼みづらい。第一、夜に帰って来る斎藤に漏れたらどうなることか。となると自分で木を登って捕まえるしかないのだが、洋子は無論今まで木登りなど一度もしたことがなく、不安なことこの上なかった。
一息ついて、目の前の木の幹を見やる。踏み場に使えそうな切り枝の痕があった。
「──えーい、登っちゃえ!」
洋子はそう呟くと、猫が最初に飛び移った岩に自分も乗った。一瞬足下がぐらついたが、片手で枝の根元をつかんで姿勢を整え、今さっき見つけた切り枝の痕に片足を乗せる。
「よいしょ…っと」
同じくらいの高さでもう一方の足を置く場所を探すが、見つからない。少し上の方に幹のふくらみがあったのでそこに足を乗せ、もう一方の手で別の枝の根元付近をつかんだ。
「──ふう。さて、と…」
木の上を見上げ、猫が動いていないのを確認する。それから最初につかんだ方の枝から手を離し、それに切り枝の痕に乗っている片足を乗せようとした瞬間
「うわわわっ!!!」
足が滑り、体勢を崩す。残る片方の腕が枝をつかんでいたので、その場で地面に落ちるのはどうにか避けられたが、その腕で木にぶら下がっている状態になる。足を動かして幹に引っかかろうとするも上手く行かず、そのうち腕が痛くなってきた。まずいなこれは、と思うのとほぼ同時に
バキバキバキッ!!!
「キャアアアッ!!!」
つかんでいる枝が、根元から一気に折れてしまったのである。
「ダメだよ、洋子さんは。一人で勝手に木に登ったりしたら」
「──はーい」
沖田の言葉に、横になっている洋子は大人しく頷いた。
「まったく、人騒がせな奴だな」
その背後から、土方が苦笑混じりに言う。まあ軽い傷で済んで御の字だ。
折れた枝ごと地面に叩きつけられた洋子だったが、叫び声を聞いて飛んできた沖田に脳震盪を起こして倒れ込んでいるところを発見され、早速治療を受けることになった。それはいいのだが、彼女は気がついた途端に説教されているのである。
「おーい、沖田君。猫捕まえてきたぜ」
そこに永倉が、騒ぎの発端になった猫を肩に乗せて現れた。
「ああ、どうも。──ホントにもう、洋子さんは。こういう時は無理しないで、僕か誰かにちゃんと頼むこと。頼めばやってあげるから。打ち所が悪かったら命に関わるんだからね。分かった?」
「──すみません」
「謝るんじゃなくて。人が分かったかどうか訊いてるんだから、それに対して答えるの。いい? 分かってる?」
「──分かりました」
渋々、といった声音が、その応答のどこかに混じっていたらしい。
「洋子、沖田君が心配してくれてるの分かってるか?」
反対側から永倉が言った。黙って自分の方を見た洋子に
「稽古で出来る痣なんかとは次元が違うんだ。だからこうまで心配して…」
ニャーオ
と、例の猫が鳴いた。洋子の傍まで歩いてきて、頭の側に横になる。彼女が手を伸ばしても動かない。喉をかいてやると、気持ちよさそうにしていた。
「さて、俺たちは稽古に戻るとするか」
「沖田君は?」
「この子についてます」
応じて微笑む。土方と永倉の二人は、それぞれその場から立ち去った。
「──いいんですか、稽古の方は」
足音がしなくなった後、洋子は沖田にそう訊いた。
「大丈夫だよ。一日くらい稽古しなくても、何てことない」
安心させるように笑って見せ、それから一息ついて
「ホントにもう、君は。さっき言ったこと、ホントに分かってる?」
「分かってます」
頷いて、彼女も一息つく。
「まあ、この猫さんが君の所に行ったのに気づかなかった僕も悪いけどさ。多分今日が初めてだろ? 木に登ったの」
「──ええ」
「ダメだよ、無理したら。君に何かあったら困るんだから」
「──はーい」
頷いた次の瞬間、欠伸が出る。沖田は苦笑して
「少ししつこかったかな。今日は斎藤さんもいないし、お昼寝する?」
「はい」
洋子はそう言って、目を閉じた。
「洋子さん──」
声をかけられた側は、ピクリとも動かない。寝ちゃったかな、と沖田は少女の顔を覗いた。猫が立ち上がって頭と尻尾の位置を入れ替え、再び横になる。
「──君はお姫様なんだから、木に登ったりしたらダメだって」
その寝顔は、幼い中にもどこか気品があった。ふう、と沖田は息をつき、自分も横になる。そして枕代わりに腕を添えてやり
「ホントに君は無茶するんだから。何かあったらどうするの」
と、眠っている洋子に言い、ややあって自分も欠伸をした。そしてそのまま目を閉じる。
夕刻、二人(と一匹)が仲良く眠っているところに、誰かがやってきた。
「ん……」
沖田はその気配には感づいたが、目を開けると誰もいない。通り過ぎただけだったのかな、と思いつつ、再びうとうとし始める。それから間もなく
がたっ
何かを置く音が近くで聞こえたと思いきや、腕が急に軽くなった。次の瞬間
バッシャーン!!!
何かが水の中に突っ込んだ音と共に、飛沫が勢いよく飛び散った。
「──斎藤さん──。どうしてここに?」
洋子の頭を水の入った桶の中に突っ込ませた人間を見上げて、沖田は訊いた。
「ちょっとあってな。──で」
水に突っ込んだまま、状況が飲み込めていないらしい彼女を見やる。しかし程なく
「ぶはっ!!」
「ったく。何寝てやがるんだ、この阿呆」
顔を上げた途端、聞き慣れた声が降ってきた。
「──人が折角気持ちよく寝てたってのに、いきなり水に顔を突っ込ませることはないでしょうが」
自分の袖で水を拭きながら、洋子は恨めしそうに言った。
「阿呆。自業自得だ」
「自業自得って、斎藤さんでなかったら誰もこんなことしませんって」
バキッ!!
沖田が間に入ろうとしたのを、片手で制して殴りつける。更に続けて
「少しは反省という言葉を知れ。暇になったんで帰ってきたらこのざまだ」
洋子は一瞬後、「あ」という表情になった。
「そもそも何で、斎藤さんが今ここにいるんです!? 夜まで帰ってこないはずじゃなかったんですか、斎藤さんは!」
言った途端、また殴られた。顔をしかめる彼女に背を向けて
「そんなことはどうでもいい。──それはそうと行くぞ。ぐうたら昼寝されて夜遅くまで起きて、それで明日の稽古に支障が出たらかなわん」
大体午後の稽古すっぽかして寝てる方が悪い、と付け加えられ、洋子は言葉に詰まった。斎藤はそのまま部屋を出る。ややあって彼女が立ち上がった時、
「大丈夫? 洋子さん。さっきあんなことがあったばっかりなのに。僕が──」
沖田の声がかかった。
「──ま、多分大丈夫でしょう。慣れてますから」
応じておいて、洋子は部屋を出た。