るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 お香

 西本願寺での朝。いつものように早めに家から出て来て平隊士に稽古をつけていた洋子は、自分の上司兼師匠が現れたのに気づいた。
「あ、斎藤さん、おはようございま…」
挨拶の言葉が、最後で微妙に途切れた。
 脇を通り過ぎた斎藤から、微かにお香の匂いがしたからである。

 「沖田さん。昨日の斎藤さん、どこかに遊びに行く話とかしてました?」
昼前にかわやへ行った帰り、洋子は道場の隅で手が空いていた彼にそう訊いた。
「──いや、してなかったと思うけど……。何かあったの?」
話題の人物をちらっと見て、小声で応じる。少女もやや声を落として
「今朝、斎藤さんからお香の匂いがしたんですよ。だから島原の遊郭かどこかに行ったのかなと思ったんですけど、私もそんな話聞いてませんし。沖田さんなら知ってるかなと思いまして」
「少なくとも僕は知らないなあ。本人に直接訊いてみたら?」
次の瞬間、洋子の顔と声が一気に変わった。
「冗談じゃないですよ。『お前には関係ない』とか何とか言いながら、絶対一発ぶっ叩くに決まってるんですから。こんなことでぶっ叩かれたくないですからね」
その必死な様子に、沖田は思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃないんです! ホントにもう、沖田さんは何でもそうやって」
「こら、二人とも。いい加減にしろ」
近くにいた土方が割って入った。そして、稽古をつけながらこちらに視線だけは向けている斎藤の方を見やって
「特に天城君は、そろそろ平隊士の指導に戻った方がいい。でないとまた騒ぎになる」
「はい、分かりました」
洋子はすぐにその場を離れ、庭に下りた。それを見送った沖田がふと気づくと
「──で」
土方が、自分を鋭い視線で見下ろしていた。

 それからほぼ四半刻(三十分)後、昼食の時間になった。いつもなら洋子は斎藤と食べるので今日もそうだろうと思っていたら、本人が近づいてきて
「今日は副長と食べるから、お前は勝手に食ってろ」
「あ、はい。そうします」
打ち合わせでもあるんだろうと思って、彼女は頷いた。そしてやや遅れて道場から出て来た、同じ三番隊の伍長に声をかける。
「前野君、お昼一緒に食べようか」
普段は余り顔を合わせないが、洋子にとっては第一の同僚だ。他の隊の人間である沖田などより誘いやすい。
「そうですね。今日は部下との約束もないし、行きましょう」
彼も応諾し、二人はそのまま出かけていた。

 近所の食事処で、洋子は焼き魚定食を頼む。前野は煮魚定食を頼んでいた。値段はほぼ同じだが、斎藤と食べる時に比べれば若干安い。注文を取った二十歳前の娘がいなくなった後、洋子は話を切り出した。
「前野君は昨日、どこかに遊びに行った?」
「いえ、別に。それが何か?」
「じゃあ、斎藤さんが昨日、どこかに遊びに行ったとかいう話は聞いてない?」
前野は湯飲み茶碗に伸ばした手を止めて数秒考え、低い声で
「何でそんなことを訊くんです?」
と問い返す。洋子は囁くような声で、事情を説明した。前野の顔が微妙に変わる。
「お香、ですか」
「そう。さっき沖田さんにも訊いたんだけど、知らないって言われて。普通に考えたらどこかで遊んできたはずなんだけど、斎藤さん普段はそんなに遊ぶ人じゃないし、誰かと一緒に遊んできたんじゃないかと」
「しかし天城先生、そんなこと調べてどうするんです?」
苦笑混じりに言われ、彼女は言葉に詰まった。前野はそのままの顔で
「別に斎藤先生が一人で遊んでもいいじゃないですか。天城先生の目にどう見えてるか知りませんが、斎藤先生も男ですから。多分島原かどこかに行ったんじゃないですか?」
「──まあ、島原か祇園の女なら別にいいんだけどね。相手がどこかの間者だったりしたら困るし」
相手の言葉を糸口にして、洋子は応じた。内心苦し紛れの台詞だったのだが、前野ははっとした様子で沈黙し
「分かりました。少し注意してみます」
「頼むね。私はもう少し他を当たってみる」
そこで食事が運ばれてきて、二人はそれぞれ食べ始めた。

 その日の宿直は、藤堂と原田だった。伊東の講読が終わった洋子が藤堂の部屋の前を通りかかると、永倉が来て世間話をしているようだ。
 彼女が本を自室に置いて藤堂の部屋の前に戻ると、中にはまだ永倉がいた。少し躊躇って立っていると、不意に襖が開き
「──洋か。何か用か?」
少々意外そうな表情で、永倉が現れた。洋子は一瞬迷ったが
「斎藤さんのことで、相談というか質問があるんですけど」
彼は藤堂の方を振り返って、視線で問うた。藤堂が軽く頷いたので洋子に向き直り
「俺たちは別に構わんが、お前の方のお夢は大丈夫なのか?」
「そっちは大丈夫です。前野君に行ってもらってますから」
遅くなっても構わないということだ。洋子は廊下に人がいないか見た後で中に入った。

 ひょっとしたら沖田さん辺りから聞いてるかも知れませんが、と前置きして、彼女は斎藤のことを話した。
「島原で遊んでたんなら別にいいんですけど、私も前野君も沖田さんもそんなこと聞いてないですし。もし相手が間者だったら困りますから」
永倉や藤堂にも、斎藤は言っていなかったらしい。洋子の言葉に、
「──確かに、斎藤君もちょっと陰気くさいな。島原に行くなら行くで、一言言えばいいものを」
と呟いた藤堂の傍で、永倉は洋子を見つめて
「それ以前にお前、斎藤君に女の気配がある程度で気にしすぎだぞ。仮に間者が接近してきたにしても、斎藤君の性格からしてたかが一晩でどうなるものでもないだろう?」
少女は困った様子で、自分の不安を説明した。
「でも、その、あの──。斎藤さんからお香の匂いがするってことは、やっぱりそれなりのことを──。それでもし万一、その、子供でも出来たら」
永倉は苦笑して、洋子の頭を手で軽く叩くと
「考えすぎだ、お前は。──とは言え、女がいるならいるで身元は調べておいた方が良さそうだな。明日にでも──」
廊下から新たな気配を感じて、沈黙する。その気配は、この部屋の前で立ち止まると
「天城先生はこちらですか?」
「あ、前野君? お疲れさま」
聞き慣れた声に、洋子は立ち上がって襖を開けた。それでと言おうとした途端、前野が
「お夢さんには言っておきましたから」
「ありがとう。こっちはまだ相談中なんだけど、──入る?」
「組長方さえよろしければ」
永倉と藤堂を見やる。
「俺は別に構わんが、平助、どうする?」
「俺もいいぜ。ただしちょっと狭くはなるが」
「それは一向に。──では失礼いたします」
軽く頭を下げて中に入ろうとした時、声がした。
「よう。お前ら、こんな所に集まって一体何やってんだ?」
原田が前野の背後から不意に現れ、室内を覗き込んだのである。

 この日四度目になる『斎藤とお香』の説明をした洋子に対し、原田は意外と物わかりが良かった。
「なるほどな。確かに俺も聞いてないし、お前が不安がるのも分かる」
おいおいと思った残る組長二人を知ってか知らずか、彼女はほっとして言葉を継ぐ。
「でしょう? 組長と伍長に内緒でどこか行って、女の気配させて帰ってくるなんて、絶対人に言えないことやってるに決まってるんですから」
その背後で何やら物言いたげな永倉と藤堂を無視して、原田は訊いた。
「それはそうとしてだ、最近のあいつに関して、他に変わったことは?」
「変わったこと?」
隣の前野と顔を見合わせる。記憶を辿り、思い出したように
「そう言えば、最近服が綺麗ですね」
「ああ、そうそう。よく洗ってある感じで、のりもきいてそうな──」
二人して頷き合う。更に一方の洋子が
「それと後、斎藤さん、最近朝出てくるのがちょっと遅いんですよ。顔合わせずに済みますから、遅い方がいいんですけど」
「言われてみればそうだな。確かに少し遅い」
永倉が後ろから同意した。そうした発言を原田は軽く顎を撫でながら聞いていたが、ややあってニヤリと笑うと
「そりゃ斎藤の家に女がいるな、間違いなく」
「──は!!?」
洋子と前野は、異口同音にそう言った後、二の句が継げなかった。顔を見合わせても言葉が全く浮かばない。永倉や藤堂でさえ驚いた様子で一瞬絶句し、ややあって互いの顔を横目で見て、困惑が入り交じった表情で微かに苦笑している状態だ。──まさかあの斎藤に限って、という思いが組長たちの方には強い。
 一方、未だに信じられないどころか完全に茫然自失の伍長二人──特に洋子に、原田は苦笑混じりに言った。
「まあ、あいつの日頃の言動考えりゃあ無理もないか。何だったら、俺が明日の朝にでもその辺訊いてやろうか?」
「原田さんが訊いてくれるんですか?」
洋子の顔が、一気に明るくなる。原田は確かに請け負った。
「ああ。任しとけ、俺が必ず聞き出してやるからよ」
「お願いします、助かります」
彼女は深々と一礼した。そして簡単に打ち合わせした後、部屋を出る。それを見送った後、永倉が
「原田君──」
「別に隠すようなことじゃねえだろ。俺はそういうのが一番嫌いなんだ」
応じた原田の顔は、何だか非常に楽しそうだった。


 かくして翌朝。
「よっ、斎藤。いい人が出来たんだって?」
出勤してきた斎藤を母屋に上がってすぐの廊下で待ち構えて、原田はそう訊いた。

 

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