原田の妻であるおまさは、その日も家の近くまで来る行商人から夕食の材料を買おうと、長屋の近くの通りに出て待っていた。長屋に住んでいる他の人々もその頃になると姿を見せ、挨拶がてら世間話に花を咲かせる。
「あら、おまささん、綺麗な着物着てるじゃないの」
「数日前、夫に買って貰ったものなんです」
はにかむような笑顔を浮かべて、おまさは言った。女性にしてはやや背が高く、肌は白い。二十歳前後の健康的な町娘だった。
「いいねえ。うちの旦那なんか、金もらうとすぐ酒に消えるんだから」
と、長屋の向かい側に住んでいる大工の妻が言う。おまさは手を振って
「いえいえ。普段はうちも似たようなものです」
そもそもこの着物、原田曰く『報奨金で飲みに行ったが、金が余ったので買ってきた』。照れ隠しもあるのだろうが、もう少し言い様があるだろうとおまさは思うのだ。
その光景を思い出していると、行商がやってきた。皆、そちらに集まる。
魚と野菜を買い、おまさは長屋に戻ってきた。向かい側の大工の妻に挨拶をして、室内に入る。そして夕食の下拵えをやっていると、扉を叩く音がした。
「はい、何か用でしょうか?」
扉は開けずに、中から声をかける。数秒後、外から若い男の声で
「新撰組関係の者ですが、おまささんにお渡ししたい物がありまして」
「はい、分かりました」
恐らく原田からの預かり物だろう。おまさは扉をそっと開けた。
「うっ…」
次の瞬間、彼女はうめき声を上げて目の前の男に倒れかかった。それを受け止めた男は、ニヤリと笑って
「な、鳩尾突けば一発だと言っただろう」
「さすが兄貴。このおまさが普通の娘だって、よく分かりましたね」
背の低い方が、感心したようにもう一方を見上げる。眼光鋭い剣客だ。
「それより、原田の奴には脅迫状を残しておくぞ。おびき出して殺す」
「さっき作った奴を置いておきます」
背の低い方が懐から手紙を出し、土間から上がってすぐの所に置いた。そして剣客の方が、おまさを肩に担いで立ち去る。もう一方がすぐに後を追い、角を曲がる頃には並んで歩いていった。
その頃は師走の上旬で、仕事が終わるともう真っ暗だ。原田が帰ってくる頃には普通なら長屋に明かりがついているのだが、今日に限ってついていなかった。不審に思い、戸を開けながら声をかける。
「おーい、おまさ。どうした、具合が悪いのか?」
中を見回すと、誰もいない。奥にさばきかけの魚があるのに気づき、草履を脱いで上がろうとした時、紙のようなものを踏んだ。足下を見ると手紙である。
「何だ?」
拾い上げて読み始めた次の瞬間、原田の表情が変わった。鬼のように怒り狂った形相で、歯ぎしりの音がギリギリと聞こえる。
「許さねえ!!!」
怒りに満ちたまま床に拳を叩きつけると、バギッ!! と穴が空いた。
「おまさをさらいやがって! 絶対に、こいつら皆殺しだ!!」
言うが早いか、原田は槍を持って飛び出していった。
「さて、桂先生に援軍を頼むか」
「援軍?」
どこかの寺の境内で、五人の男が話し合っていた。さっきおまさをさらっていった二人組がその中心で、当の彼女は隅の方で縛り上げられ、猿ぐつわを噛まされて気絶したまま倒れている。
「俺たちだけで新撰組の組長と渡り合っても、勝つ見込みは薄い。抜刀斎を回してもらうんだ」
「そうだな、奴らに対しては池田屋事件の恨みもあるはずだし、承諾して下さるだろう」
そして彼らは、二人の見張りだけを残してその場から立ち去った。三人揃ってある料亭に入り、桂小五郎に面会を求める。
「大事な話だそうだが、何の用だ?」
桂は少々、訝しげだった。三人の浪士たちのうち、一人が
「新撰組十番隊組長、原田左之助の妻のおまさをかどわかして参りました。今晩子の刻に近くの寺に一人で来るように書き置きしておりますので、もうじき──」
「馬鹿者! すぐに解放せよ!!」
桂は一喝した。驚く浪士たちに
「いかに新撰組が憎いからと言って、女子供をさらって人質に取るなどと人倫にもとることが出来るか!! そんな暇があったら自分で腕を上げて連中を倒せ!!」
「は…はいっ!」
慌てて退散する。襖が閉まり、足音が遠ざかっていくのを聞いた桂がふうと息をついた時、傍らで気配もなく座っていた男が立ち上がった。襖の方に歩いていく彼に
「緋村、どこへ?」
「彼らがちゃんと彼女を釈放するか、確認してきます」
「──分かった」
そのまま振り返らず、剣心はその部屋を出た。
「ど、ど、どうする? おい」
「こうなったらしょうがねえ、俺たちでやるしかないだろ!」
討ち取っちまえばこっちのもんだ、と五人のうち背の高い方が言う。桂に面会しに行った三人が寺に戻ってきての事だった。
「相手は新撰組の組長だ、多少手段はずるくても殺せば英雄だ」
重ねて言って一同を納得させ、次いで手段を話し合う。誘拐に同行した小男が
「で、どうするよ?」
「なあに、こっちには女がいるんだ。殺すと脅せば動けまい」
「なるほど」
一同は頷いた。三人目の、中肉中背の男がニヤリと笑って
「では、なぶり殺しにするということで?」
「そうだ」
頷いた首領格の男は、次いで細部の指示を出し始めた。
子の刻、原田がその寺にやってきた。槍を構え、怒り狂う寸前の表情で歩いてくる。
「新撰組十番隊組長、原田左之助だな」
境内の奥、本堂の前にいる男がそう言った。眼光は鋭く、背は高い。出来るな、と原田は咄嗟に思った。彼は知らないが、おまさをさらった張本人である。
「そうだが、おまさはどこにやった」
沸騰している心に敢えて蓋をし、低い声で訊く。相手の男は隅の方に目をやり
「あそこにいる」
そちらを見ると、大木の下におまさがいた。縛り上げられ、猿ぐつわを噛まされている。
「おまさ!」
「おおっと、近づいてもらっては困るな」
大木の影から、別の男が現れた。月の光で、刀を抜いたのがはっきり分かる。
「お前がそこから一歩でも動けば、この女を殺す!!」
「なにいっ!!」
刀を突きつけられたおまさは必死になって首を横に振っているのだが、原田は硬直したように動かない。そこに三人の男が現れ、正面にいた男と四人で原田を取り囲んだ。言葉にならない声を上げようとしたおまさを、傍の男は喉に刀を押し当てて制す。
「殺されたくなかったら、大人しくするこった… ぐへえっ!!?」
いきなり、肉を斬る音と共に、その男の胸から刀の先端が飛び出した。
「ば、ば、ば、抜刀斎!!?」
仲間の声にそちらを向いた男たちは、その場に現れた左頬に十字傷のある剣客を見て、一斉に脅えと驚きの混じった声を上げた。刀を引き抜くと同時に仲間がばったり倒れるのを見て、戦闘意欲が一気に消えていくのが、原田からも分かる。風に乗って血の臭いも漂って来る中で
「女子供を種にしておびき出すだけでも許し難いが、挙げ句の果てにその女の命を盾に敵の動きを封じるなど、志士を名乗るのもおこがましい。新撰組が手を出すまでもなく、この抜刀斎が成敗する」
「おおっと、手出し無用だぜ、抜刀斎」
再び身構えた剣心に、原田はニヤリと笑って応じた。
「こっちは怒ってるからな。少し暴れさせてもらうぜ」
「しかし、おまさ殿は」
「大丈夫だ。そいつは肝っ玉の据わった女だからな」
「──もう!」
原田の台詞におまさはふくれたが、傍で殺人があったにしては平気な顔をしている。まんざら嘘ではないらしいと剣心は思い、取りあえずおまさから戦いが微妙に見えない位置に立って、一対四の決闘を見守ることにした。
一方、敵の方は完全に脅えていた。もともと自分たちだけで勝てるとは思っておらず、出来れば抜刀斎と戦ってもらう予定だったのだ。
「ええい、四人でかかれば万が一ということがある!! 行けっ!!!」
背の高い男がそう命じ、自ら叫び声を上げて原田に襲いかかった。周りの三人も襲ってくる。
原田は正面の、命令を出した男をめがけて突進した。間合いに入ると一瞬槍を引き、次の瞬間に再び突き出す。相手はこの素早さに対応しきれず、胸の中央をまともに貫かれた。手応えを感じ、即座に槍を引き抜いて威嚇の意味で振り回す原田の目の前で、その男は傷口から血を噴き出して倒れる。
「ひえええっ!!」
「やっぱ叶いっこねえ!!」
「に、逃げろおっ!!!」
背を向けて、一目散に逃げていく三人の耳に、空を裂くような音が聞こえた。その直後、何かが肉に突き刺さるような低い音。真ん中の小男が、寺の出入り口に当たる正門の傍でばったり倒れ込んだ。その背中には槍が突き刺さっている。
「悪い、投げたら当たっちまった」
頭をかきながら歩いてくる原田は、唇に凄味のある笑みを浮かべていた。それが死神の微笑にも見えたのだろう、残る二人は今度こそ言葉にならない悲鳴を上げて、我先にと逃げ出した。原田はそのまま、槍を引き抜きに行く。
逃げる二人の足音が遠ざかっていくのを聞いて、剣心は帰ろうとした。これでもう、この女性は大丈夫だ。数歩ほど歩き出したその背に
「あ、あの、今日はどうも、ありがとうございました!」
おまさが大声で言い、深々と頭を下げた。だが剣心は立ち止まらず、
「今度から気をつけてくれ」
「まあ待てよ。礼も言わせねえで帰る気か?」
そこに槍を引き抜いて戻ってきた原田はふっと笑うと、おまさの肩に手を置いた。その台詞に剣心は振り返って
「しかし、まずくはないのか?」
「なあに、俺たちの行動をいちいち把握してられるほど上層部は暇じゃねえよ」
空を見上げて、原田は応じた。小寒とあってそれなりに寒いが、星空の綺麗さはまた格別で、西の空には月も見える。そして彼は、再び剣心の方を見ると
「今日は助かった。お前も結構いいとこあるじゃねえか」
「ああいう奴らが長州派だと思われては、こっちもいい迷惑だからな」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微かな笑みを浮かべた。次に切り出したのは剣心の方だ。
「局中法度は大丈夫なのか? 私の闘争を許さず、とあるそうだが」
「新撰組の組長ともあろう者が、自分の妻を守るのに他人の手を借りなきゃならんようなら士道背反だぜ。組長である資格なし、ってなもんだ」
お前に心配してもらわなくても大丈夫だ、と原田は言った。
「いずれにしても、この借りはちゃんと返すからよ」
「ああ。楽しみにしてる」
再びニッと笑って、互いの目を見つめた。