るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の六 江戸での日常(1)

 「こら、洋子、いつまで寝てやがる!! いい加減に起きろ!!!」
足音高く歩いて奥の和室に向かうのは斎藤だ。手に水の入った桶を下げ、もう一方の手で襖を勢いよく開ける。それが柱にぶつかって大きな音がし、眠っていた洋子は薄く目を開いた。顔まではよく分からないが、人が入ってくるのが見える。
 何かを置く音。不審に思う間もなく、彼女は首を根っこからつまみ上げられ水の中に突っ込まれた。水をまともに飲んだ挙げ句、冷たさと息の出来ない苦しさに、一気に目が覚める。自分で顔を上げ、袖で水気を取っていると
「貴様はいつになったら自分で起きられるんだ、この阿呆」
次の瞬間、洋子の頭上からそういう声が降ってきた。かなりむかついて相手の顔を見上げ、こう応じる。
「だったら、修行内容を調節して下さいよ。私が翌朝起きられる程度に!」
間髪を入れず竹刀で頭を殴られた。大体人を起こすのに竹刀まで持ち出すか、と洋子は思うのだが、相手つまり斎藤はフンと立ち上がって
「食事だ。食いはぐれたくなかったら来い」
「はーい」
不満ながらも返事して、襖が閉まるのを待つ。閉まった途端、あっかんべえをした。
「何よ、あいつ。私がいつも一番早いじゃないの」
 ──これが、試衛館での毎朝の光景の一つだった。

 洋子が試衛館に来て半年になる。ここでの暮らしにもすっかり慣れ、随分性格が変わったと自分でも思う。第一、師匠に文句を言うなど昔の自分なら考えられない。
 着替えも自分でして朝食に向かう。衣服は土方の姪のぬいという娘のお古で、これ以外に道着が二着あって一日ごとに取り替える。稽古中は汗をかなりかくので、着替えがないと臭くてやっていけないのだ。
「おはようござ…やっぱり来てない。ふあー」
遊郭や出稽古に行っている者がいると朝食は取らないので日によって違うのだが、大体十人前後が共に食事をとる。一番の大食漢は原田左之助で、小食かつ偏食の沖田は嫌いなものがあるとこの男に食べてもらう。次が道場主の近藤だが、好き嫌いなく食べるという面では原田以上である。他の居候たちもそれなりに食べるが、この二人には負けるだろう。特に土方は味付けにうるさく、まずいと判断したものは決して食べない。
「おはよう、洋子さん。いつも早いね」
そこに、沖田が声をかけた。彼女は振り向いて挨拶したあと
「もう少し寝ていたいんですけど、例によって例の如く斎藤さんが起こしますから。しかしあの人、私起こしてから食事まで毎日一体何やってるんでしょうね。四半刻(三十分)くらいの間、影も形も見あたらないんですよ」
言われてみればそうだ、と沖田もはじめて気づく。洋子を起こすのが斎藤の日課になっているようだが、起こしてから食事までの間は何をやっているのか、まるで行方不明なのだ。部屋にも無論いない。
「まあ、あの人のことだから心配いらないだろうけど」
沖田が呟いたところに、お常が食事を持って入ってきた。ご飯とみそ汁に漬け物と言った質素なものだが、一応一人ずつの箱膳に入っている。
「あ、手伝いましょうか」
洋子は進んでお常から膳を受け取り、並べ始めた。沖田が少し慌てて一緒に手伝いを始める。奥の台所から膳を運んでくるのだ。
 洋子の生まれが、沖田をそういう行動に走らせていた。

 彼女は、旗本の娘である。本来ならこういう所にいるはずもない身分なのだ。それが家督相続争いに巻き込まれ、借金の形として売られて薬屋で働きだした。そこの女主人にいじめ抜かれ、ひどい熱があったのに真冬の夜に外に放り出されて眠っていたのを通りかかった沖田がここに連れ帰った。あるちょっとした事件の結果斎藤に剣を習いはじめ、それがもとで居候兼弟子としていることになったのだ。当の本人は沖田たちが自分の過去を知っているとは気づいていない。
 ただ、慣れてくるとやはり斎藤のやり方に不満が出るのか、最近はよく喧嘩する。もっとも彼が稽古の量などで無茶をやっているのは事実だし、喧嘩したからと言ってそれを改める気配もない。直接の師匠は斎藤なので他人は口が出せず、放っておくしかないのだ。
 こういうわけで、斎藤と洋子の喧嘩は毎日の儀式にまで成り下がっていた。

 「いただきます」
近藤の義父にして天然理心流先代当主、近藤周斎が姿を見せたあと、ようやく食事が始まる。もうかなりの高齢で、ほとんど隠居の状態だ。
 近藤はこの周斎に弟子入りし、腕を見込まれて十代で養子に入った。周斎自身も更に先代の養子として天然理心流を相続しており、養子続きの流派と言える。もっとも、これは当時の剣術流派の宗家では当然のことだった。実子に腕の立つのがいれば問題はないが、往々にしてそうではないからだ。ある意味で飛天御剣流もそうなのだが、これは奥義伝授と引き換えに師が死ぬという例でかなり特殊な面も持つ。
 洋子は一番末席で黙々と食べている。居候たちとも距離を置き、話しかけられれば応答はするが自分から話すことはほとんどない。食べ終わると一人でさっさと片づけ、部屋に戻って胴着に着替える。斎藤より遅れて道場に出ると大変なのだ。通常の倍の稽古をやらされる。もっとも、最近は素振りなどの基礎は随分減ったが。
「まだやっぱり遠慮してるなあ、あの子は」
沖田はそう思っている。筆を執らせれば達筆だし、教養もかなりのもので茶道も華道もこなす。何気ない動作にはやはり町の生まれとは思えない気品が感じられ、加えて売られた際の持ち物にさえ刀があったことから、恐らく洋子が旗本、しかもそうした公家的な素養を必要とされる高家の娘であることは間違いなかった。
 ちなみに当時の大部分の旗本というのは、礼儀作法こそしっかり身につけていたが『将軍の直参』であることにあぐらをかき、教養面がまるでない存在だった。約二十年後、幕府瓦解後に静岡の沼津に旗本や御家人を集めて学校を建てたが、入学試験の際に幕府の譜代大名の正式名称を読ませたところ読めない連中が続出し、試験官が「だから君らは薩長に負けたのだ」と言ったというが、要するにその程度の連中に成り下がっていた。
 そして沖田や土方、近藤といった者たちは一般の旗本のレベルがその程度だと知っていたから、なおさら洋子の教養が驚きだったのだ。しかも、刀を持つなど普通の町人ではありえない。武家で娘にもここまで高い教養を求める家など、限られている。

 

 当の本人は、そうしたことを一切隠している。慣れたとはいえ、まだ『拾われた身』であることが気になるのか、いまいち打ち解けようとしないのだ。斎藤には文句を言うが、打ち解けたからというより余りにもきつい稽古に耐えかねて言い始め、それがいつの間にか習慣化したと言った方が近い。それでもいわないよりは遙かにましだと沖田は思う。
「洋子さん、朝食の時はもう少しゆっくり食べていいと思うよ」
斎藤が来る前に、彼は既に来ていた洋子にそう言ってみた。
「いえ、あれが普通ですから」
彼女は応じた。どうやらここに来る前にいた薬屋で、早く食べる習慣がある程度身についたらしい。その後道場に入って自分専用の竹刀を持ってくる。これだけは正式にここにいることになってから買ってもらったのでまだ新しく、手垢や埃といった汚れはそれほどついていない。それを中で振り回しているうちに、他の門人たちや居候、道場主の近藤などがやってくるのだ。今日は沖田がいるので斎藤にいきなりどつかれる事はないだろうが、出稽古などに出ているときは程々にしないと、入ってくるや否や何も言わずにぶっ叩く。
 と言っても斎藤の場合、先に稽古をしているのが気に入らないわけではなく、後できつくなって素振りなどがおろそかになるのが分かってるのに敢えて余計な体力を消耗するような真似をするのが気に入らないのだ。初めの頃は基礎だけで一日が終わっていたのだから、確かにそういう面が多分にあったのは否定できない。
「でも今は、素振り中に叩かれる回数も随分減りましたし、稽古そのものが組み手中心になってきてますから。少しはいいんじゃないですか」
「何がいいんだ、この阿呆が」
その声と背後から竹刀で釣り上げられるのと、ほとんど同じだった。そのまま肩にかけて縁側にまで連れていき、荷物でも投げるかのようにどさっと置く。
「どうしてそういう風にしか扱えないんですか、私のこと」
痛さに顔をしかめながら、洋子は非難がましく質問した。斎藤は平気な顔で
「貴様に学習能力がないからだ。だから阿呆なんだよ」
むかっときた洋子は、座ったまま抜き打ちで相手の足を払った。だがそこはまだまだ斎藤の方が上手である。足に当たる一瞬前
   ボカッ!!!
 頭のてっぺんに痛烈な一撃を食らい、彼女は脳震盪を起こして倒れた。
「悔しかったら、この程度はかわしてみろ」
それを見ながら、斎藤が呟いた台詞である。そこに
「あーあ、またやってる」
一部始終を見ていた沖田の、やけにのんびりした声がその耳に入った。
「そんな風で、今夜の川開きは大丈夫かなあ。くれぐれも喧嘩して、バラバラになったりしないで下さいよ。物騒な世の中なんですから」
「君が心配しなくてもいいさ」
心配そうに覗き込む沖田に、斎藤はいつもの調子で応じた。
「師匠としての仕事はわきまえてる。第一、君自身ついて行くんだろう?」
それにしても気がつくのが遅いなと思いつつ、洋子の顔を覗く。と
   バゴッ!!!
 みぞおち付近に、彼女の竹刀が命中した。本人に言わせると「生まれてはじめて一矢報いた」そうだが、もちろんこれに対する斎藤の処置は厳しかった。

 「痛たた…。いいですいいです、大丈夫…くあーっ」
沖田に怪我の治療をしてもらっている洋子の目に、涙が浮かんできた。
「染みてる? それは薬が効いてるって事だから、我慢して」
「お、泣いてやがんの。なっさけねえ」
暇な原田がからかう。それに応じようとした途端、沖田がまた別の所に薬を塗りこんだ。顔をしかめ、本気で歯を食いしばって痛みに耐える。
『しかし、さすがに斎藤さんだな。あれだけやってすり傷と打ち身だけってのは』
 洋子が「一矢報い」た後、斎藤はただでは済まさなかった。悪魔のような形相で内庭に彼女を引きずり出し、組み手で半刻(一時間)ほどしごき上げた。その後沖田が怪我の治療に当たっているのだが、意外と怪我の中身の方は軽い。傷の見えない部位はないほど数は多いのだが、もっぱら痣とすり傷、打ち身。後の稽古に支障が出るような捻挫、ましてや骨折に骨のヒビなどは全くない。傷口の消毒をして、常備薬の石田散薬を飲ませればすむ程度の傷なのだ。怒り狂っているように見えて、理性はちゃんとあったらしい。
「じゃ、これ飲んで。酔いが醒めるまでここにいていいから」
そう言って、沖田は石田散薬入りの熱燗を渡した。これは怪我によく効く。洋子は薬屋勤めの経験から、こういう民間の薬を飲むのは初めのうち気が進まなかったのだが、どうやらここには他に薬がないようなので仕方なく飲み始めた。だが程なくその効果を身をもって知るようになり、今では信用して飲んでいるという薬である。ただこの薬は酒で飲むので、洋子のような子供は飲んですぐに動き回ることが出来ない。
「四半刻たったら、呼びに来てくださいね」
かといってゆっくりしていると斎藤が例の調子で呼びに来る。そうなる前に沖田に呼んでもらおうというつもりだった。
「うん、じゃあとりあえずそこで横になってて」
素直に横になる洋子に沖田は微笑み、道場に戻った。斎藤にこう言う。
「ほんとに程々にして下さいよ。相手はまだ子供なんですから」
「子供子供と言っても、すぐに大人になるさ。──剣の腕も含めて」
言われた側ははっとなって見返す。薄く笑って付け加えた。
「あいつは、そうヤワじゃない。君が思ってるほどには」
「……すみません、出しゃばってました」
申し訳ないのとほっとしたのと半々で、沖田は頭を下げた。

 

 その日は、旧暦の五月二十八日。隅田川の川開きの日である。沖田たちも、今年は花火を見に行くことにしていた。