それから数日後、いつものように洋子が縁側で稽古していると、土方が妙な顔をしてやってきた。斎藤に目配せして稽古を中断させ、手に持っている封筒を彼女に渡す。
「私宛の封筒なんて、珍しいですねえ」
その日は、沖田は多摩に出稽古に行っていて留守である。しょうがないのでその場で封筒を開け、中の手紙を読む。いつの間にか他の居候たちまで来ていた。
「は…は…果たし状!!?」
洋子の絶叫に、来ていた居候たちが一斉に手紙をのぞき込む。
「と、なになに…。『果たし状 明日午の刻、鎮守の森にて待つ 四乃森蒼紫』…」
文面は普通の果たし状と大して差はないが、筆跡は明らかに子供だった。一瞬顔を見合わせ、爆笑する。
「おーおー、洋子ぉ。最近なんか恨まれるようなことやったか?」
「告白してきたのをふったとか? 男を振るたあ度胸があるなあ」
「違いますっ!! 最近町歩いてて、ちょっと喧嘩しただけ…!!」
言いながら顔が真っ赤になる。それを見つけた原田が
「お、顔が赤い。さては図星…いてっ!!!」
洋子が頭を思いっきり竹刀で殴ったのだ。そのままプイと部屋に消える。いつもだったらそこで斎藤に首を捕まれるのだが、今日は珍しく何もしなかった。
「思い当たりがあるのか、斎藤君」
土方が相手の顔を見て言った。笑っている。
「ええ…。しかし、ここで話すのは…」
「分かった。他に移ろう」
と、二人は他の居候たちが騒いでいる間に別室へ移ってしまった。
「――そうか。御庭番衆が…」
道場奥の控えの間で、斎藤は数日前の川開きでの事件のことを語った。あの子供の言うことがすべて本当だとしたら、向こうは恐らく洋子の過去と本当の身分を知っている。
「恐らく連れ戻しに来たんでしょう。その後どうするつもりか分かりませんが」
「実家は従兄弟が跡を継いだしな。まさか殺しが目的でもあるまい」
数日前の口封じだとすれば、斎藤や沖田とて狙われるはずだ。洋子だけを呼び出すことはまずない。また、洋子という存在そのものを消すにしても同様だ。
「とはいえ、沖田がおらんのに洋子を他にはやれん。戻った後で叩き殺される」
この台詞が本気で受け取られるのが、沖田総司の実力を何よりもよく物語っていた。後年の、肺結核にかかった後の沖田はともかく、今の彼には試衛館で敵う者はいない。道場主の近藤でさえ、沖田には負けるのだ。
その彼が、妹同様に可愛がっているのが洋子である。何かと彼女の面倒をみ、愚痴を聞いてやったり気晴らしに歌舞伎や講談などに連れていったりしており、もし彼のいない間に洋子が行方不明になろうものなら斎藤、土方は責任を問われて殺されかねなかった。
「斎藤君、洋子にハッパかけてやってくれ」
と、土方は言った。斎藤は意外げな表情をする。苦笑して
「君は、仮にもあいつの師匠だからな。こういう時こそ出番だろう」
そうは言われたものの、恐らく本気で果たし合いだと思っているだろう洋子にどう言えばハッパをかけたことになるのかよく分からず、とりあえず道場に戻った後で彼女の部屋に行った。軽い物音がする。
「俺だ、入るぞ」
どうも調子が狂っている。いつもなら声もかけずに入るのだ。
「はい」
答える側も普通ではない。どこか緊張している。
開けてみると、さっきの手紙が広げてある。繰り返し読んでいたようだ。
「で、何か用ですか」
洋子は突き放した口調で訊いた。どうも一人で決着をつけるつもりらしい。
「果たし合いの件だ。その子供、そんなに強いか」
「ええ…。まともに剣術を習ってるそぶりはなかったんですが、強いのは強いです」
後になってみると、この時なぜ素直に相手の質問に応じたのかよく分からない。
「柔術というか、空手というかそんなものと組み合わせて使ってました」
「まあ、御庭番衆の一員だからな」
これは言った側からするとかなり際どい台詞なのだが、洋子はどうやら自分と沖田が途中から見ていたことに感づいていたらしく、平然と頷いて見せた。
「で、どうやったら勝てると思います?」
逆に問い返され、その単刀直入ぶりに斎藤は苦笑した。それが嘲笑に見えたらしい。
「どうして笑うんですか? こっちは必死なのに!」
「この阿呆が、勝てるわけがなかろうが。少しは頭を使え」
いつもの表情に戻って竹刀で軽く頭を叩く。それでも結構痛い。顔をしかめた彼女に
「相手は御庭番衆だ。物心つく前から武術なり忍びの術なりを習ってるような連中だぞ。いくら敵が年下だと言っても、たかが半年剣術をかじった程度のお前が勝てるはずがないんだ。常識的に、この程度のことも分からんのか」
洋子はふくれている。思いっきりけなされた気がしていた。
「だからとりあえず、五体満足でここに戻ってくればいいんだ。お前の実力なら、それで上々だろう」
「あのー、さっきから私のこと散々バカにしてますけど」
と、彼女は言った。まともな助言を期待した私がバカだったと、顔が言っている。
「そういう私にしたのは一体誰ですかね。え、斎藤さん?」
相当な皮肉を言ったつもりだったが、相手は少しも動ぜずに
「俺の言うことを聞こうともせずに、よくこういう時だけ責任を押しつけて平気だな。――だがまあ、お前に死なれては困る」
内心、自分に対して皮肉めいた気持ちになる。大体斎藤の場合、師匠と言っても前に『事実上の』という修飾語がつき、正式には同じ道場の居候同士の関係しかない。更に言うならその関係自体、彼が言い出したわけでも洋子が頼んだわけでもないのだ。その自分が何だって言うことも聞かない弟子のために、何かをしなければならんのか。
「いいか、相手は御庭番衆だ。口封じのために何をやるかわからん。だから勝つことよりもまずここに帰ってくることを考えろ。……いいな、帰れよ」
本当は別の可能性に対して言ったのだが、通じたかどうかよく分からない。ただ、とりあえず洋子が頷いたのでその話はそれで終わった。
翌日、鎮守の森にやってきた洋子は奥の祠で呼び止められた。
「お久しぶりです、静姫」
数日前の子供が、打って変わって跪いている。彼女はしらを切ることにした。
「誰のことよ、それ。人違いじゃないの?」
「とぼけても無駄です。あなたは旗本高家二十六家の一つ、畠山家先代当主の姫君、静様であらせられる。調べは済んでおりますゆえ」
「――」
御庭番衆の情報収集力を、洋子はなめていた。仮に分かったところでお家の事情が関わるから何も出来はしないとたかをくくっていたのである。
「そんなこと言って、私をどうするつもり? ばれたら困るからって殺すの?」
解答を保留したまま、洋子は訊ねた。
「殺すなど、とんでもございませぬ。御頭におきましては静様がそのような身の上となられましたことを大変残念に思われておりまして、養女として引き取りたいとの考えにございます。もし今の生活がお気に召さぬようであれば…」
「要するにそれって、御庭番衆に入れってことでしょ?」
顔つきが変わっている。戦闘前の言い合いのような気分で、洋子は一気に続けた。
「冗談じゃないわ。今更何を言ってるの。自分を捨てた輩を守るために、裏の世界に入れって? そりゃ今の暮らしだって良くないけどさ、そういうことをするほど落ちぶれちゃいない。誤解しないでね、今の私はあくまでも天木洋子なんだから」
「そうですか。ならばこちらにも考えがございます」
そう言った瞬間、目の前の子供、つまり四乃森蒼紫はすっと消えた。辺りを見回す間もなく、後ろから羽交い締めにされる。
「!!!」
「手荒な手段ですが、お許しを」
ほどこうと暴れようにも、手足を押さえられてまずびくとも動けない。その代わりのせめてもの抵抗として、洋子は大声を張り上げた。
「よーっく考えたら、そもそも旗本の高家の娘が御庭番衆に入るってこと自体おかしいのよね。それこそどこの馬の骨ともつかない連中と一緒になんて仕事できますかって。今の連中はそういうこと知らないから諦めつくとして、知ってるからにはちゃんとそれなりの待遇してもらうわ。ましてこういうことやらかしたからには」
蒼紫は黙って走り始めている。自分より背丈も重さもある彼女を羽交い締めにしながら、その速度は驚くほど速かった。
「大体今更遅いってね、売られて一年近く経って迎えに来ても。御庭番衆の情報網で、何でもっと早く分からなかったの?」
「その点については、御頭は心から申し訳なく存じているとのこと。であればこそ、こうして…」
その台詞にカチンときた洋子は、走っている相手の足を思いっきり踏みつけた。体勢を崩して転倒する蒼紫の腕の力が緩んだ瞬間、彼女は素早く脱出して離れる。
「何が『こうして』よ。──いい、誰が何と言おうと今あんたがやろうとしてるのは人さらい。どうしてもそうしたいんなら、少なくとも今、私が世話になってる連中に話をつけること。あいつ等が私のことをあんたたちに譲るって言うんなら、そのときは私も御庭番衆だろうがなんだろうが行くわ。順番が違うって言ってるの、分かる?」
そこまで言って木刀を抜き、実戦さながらに身構える。二度と旗本の娘でいたいとは思わない。試衛館が今までで一番いいかと言えば明らかに違うが、それでも親戚を平気で人買いに売る人間と身元不明の他人をまかりなりにもいさせてくれる人間と、どちらを取るかと言えば後者だろう。それに、今日は絶対に帰らなければならない。斎藤にそう言われたからだ。
「──!!!」
何の気なしに思い出した記憶にはっとなる。あの悪人面の、人を殴るのが自分の仕事と思いこんでいるらしいあいつがそう言ったのだ。好きで剣を教えてるんじゃないというのがいつも顔中に出ていて、弟子を弟子とも思っていない素振りのあの男が。
「──あいつ…」
洋子は笑った。体勢を立て直した蒼紫がその顔を見て
「何がおかしい!?」
侮辱されたとでも思ったのだろう、刀を抜いて斬りかかった。それを間一髪かわすと、次の瞬間には蹴りが彼女を襲う。それを木刀で真っ向から受け止めた。
バキッ!!!
木刀が真っ二つに折られ、先端の部分が弾き飛ばされる。だが洋子は柄の部分を握りしめ、蒼紫の脇腹に叩きつけた。口から大量に唾を吐いて倒れる彼の上に洋子は跨り、喉元に敵の手から奪った刀の切っ先を押し当てる。
「どうだ!」
勝ち誇った声に、蒼紫は負けを認めざるを得なかった。
「ただいまー!!」
洋子が試衛館の門をくぐったのは夕方だった。折れた木刀も、記念品として持ち帰ってきている。原田左之助、藤堂平助といった連中が早速やってくる。
「お、洋子。どうだった?」
「げ、木刀折ってやんの。相当激しくやり合ったんだろ。え?」
「相手がしつこかったんですよ。しょうがなくて決闘する羽目に…」
などと応じていると、後ろから頭を殴られた。振り返ると斎藤がいる。
「何をやってるんだ、この阿呆が。油売ってる暇があったら、今日の日課終わらせてからにしろ」
「──はあ!?」
決闘で疲れてるのに、と言いたげな声色に自然となる。次の瞬間、今度は正面から竹刀を叩きつけられた。顔をしかめる彼女に
「文句があるなら、俺に勝ってからにしろ」
不満そうに頬を膨らませ、洋子はついていった。殆ど誰もいない道場で、斎藤が竹刀を投げてよこす。縁側に戻る途中でのすれ違い際に
「お前にしては上出来だったな」
呟くように言った。目を瞬かせる彼女を無視して、そのまま歩いていく。
その日の夜、今日のことを思い出していた洋子は、やっと斎藤のことが少し分かったような気がしていた。