るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十二 変奏曲(1)

 「ただ今ー!」
春の夜も更け、亥の刻の頃。沖田がいつものように、帰ってきたことを皆に知らせる。
「ああ、帰ったか。ご苦労──おい」
迎えに出た土方が、何とも言えない表情で続いて入ってきた女性を見やる。
 年は二十歳前後である。着物からして既婚らしい彼女は、深々と一礼した。

 客間で事情を聞く。何でも、酒を飲んで帰ってきた旦那に小言を言ったところ、追い出されてしまったらしい。名前はお文と言い、店の前で呆然と立っているのを見かけた沖田が連れてきたのだ。
「まだ結婚したばかりで、駆け込めるような親しい人もいないので……。迷惑かけてすみません。明日には戻りますので」
最近、夜間は物騒なので連れてきたこと自体はやむを得ないだろう。それに明日には帰ると言うし、洋子の時のような事態にはなるまい。
 土方はそう考えて、沖田に任せることにした。

 翌朝、洋子が厨房に行くとお常以外に働いている女性がいた。
「あの…貴方は…?」
「お文と言います。昨日沖田さんが連れてきてくれまして、一泊させて頂きました。朝食を食べ終わったら帰りますので」
振り返ったのは、なかなかの美人である。一礼したのでこちらも礼を返したが、どういうつもりだろうと洋子は沖田に訊いてみたくなった。
 膳を運んでいると、途中で沖田に遭遇した。
「あの、ちょっといいですか」
「お文さんのこと?」
頷いた。相手は厨房まで行くと自分の膳を持って戻ってきて
「昨日の夜、夫婦喧嘩があって家を追い出されたらしいんだ。僕は数日いてもいいと思うんだけど、朝ご飯食べたら帰るつもりらしくてね」
「──てことは、沖田さんも一緒に行きます?」
食堂まで運びながら、洋子は訊いた。沖田は相手の質問の意図を悟ったらしく、苦笑混じりにこう応じる。
「ダメだよ。君は稽古があるんだし」
「だって、沖田さん一人で行ったら妙な誤解をされるかも知れないじゃないですか、駆け落ちとか不倫とか。私が一緒の方が安全だと思いますけど」
そう言われると、沖田としても拒否しづらい。寄り道しないで帰るんだよ、と条件を付けて、認めることにした。

 

 食後、一応斎藤には断って沖田と洋子はお文の家について行った。
 家は呉服屋も兼ねているが、店はそれほど大きくはない。暖簾分けしたばかりの店で、夫はお文より十年以上年上だそうだ。番頭時代までは真面目に働いていたのに、店を持った途端遊びに行くようになってしまった。多少は付き合いで認めていたが、最近は三日に一度も出るようになったので、小言を言ったら剣幕にあったらしい。
「あのう…」
勇気を振り絞って、お文は声をかけた。奥様だ、と思って奥に取り次ごうとした召使いが振り返ると、夫らしい三十代後半の男が顔を出している。
「あなた、昨日は…」
「うるせえ! てめえなんか俺の妻じゃねえ!!!」
怒鳴りつけた後、床に落ちていた布の切れ端をつかんで投げつける。お文が声を出す暇もなく、その男は奥に戻っていた。
「──」
沖田と二人で顔を見合わせた洋子の耳に、すすり泣く声が聞こえた。
 お文が泣いている。取りあえず励まそうと思ったが、二人とも何と言っていいやらよく分からない。そこに丁稚の一人らしい者が
「昨日の今日ですから、旦那様もお怒りが静まってないのでしょう。数日おいて、また戻られて下さい。坊ちゃまなら大丈夫ですよ」
と、そっと囁いた。ええ…そうね…と真っ赤な顔でお文が応じる。
「帰ろうか、お文さん」
沖田はそう言って、店の奥を見つめている洋子の背を軽く押した。

 

 戻ってきて、日課を半分こなしたところで昼食になる。それを食べ終わった後、洋子は部屋で考え事をしていた。どうしても、売られたときの光景が重なってしまう。
 あれは、両親が死んだ直後だった。夜中に寝ていた彼女の前に、従兄弟とどう見ても武士階級ではない男二人、合わせて三人が現れたのだ。そして声を出す間もなく、従兄弟について来た二人の男に口を塞がれ、寝間着のままかつぎ出された。洋子は訳が分からず、もがきながら助けを求めようとして従兄弟に手を伸ばしたが、その従兄弟は自分に背を向けて屋敷の奥へと消えていった。
 この時、彼女は悟ったのだ。──私は捨てられたのだ、と。

 よく考えれば、洋子がここにいる理由は何もないのだ。
 ただ沖田が拾ってきて、そのまま何となく居候になってしまった。別にここの居心地が特にいいとか、正式な弟子になったとか言う事情はない。
 けれども、ここを出ても行き場所はない。せいぜい新吉原、岡場所、もしくは御庭番衆の一員。ここよりましだと、誰が言えるだろう?
 父親の都合で娘として認知されたは良かったが、代わりに父親の屋敷で正室に敬遠されながら暮らす。実の母とはたまにしか会えず、他の娘たちが遊んでいる間にも勉強ばかりしていた。その母と父親が死んだ直後、泣いている暇もなくやって来た従兄に売られて、売られた先で虐められて、拾われた先でも虐めまがいの厳しい修行。不幸な星に生まれついたことだけは間違いなかった。それでも自殺まで考えなかったのは何故だろう。
「──ふう…」
自分でも分からない。そう言えば、薬屋では毎日のように死ぬことを考えていたような気がする。それがここに来て、一切考えなくなった。肉体の疲労という面では、薬屋もここも大して差はないはずだ。
 或いは、斎藤が考えるだけの余裕を全く与えなかった、とは言えるかも知れない。厳しい修行で毎日疲れ果て、食後に部屋に帰れば布団をひいてそのまま寝るという毎日である。自殺どころか家出さえ考えなかった。
「──あれだけ毎日文句は言っても、実際に行動に移さなきゃねえ」
本気とは思っていないかも知れない。とは言え行動に移してもまともに解釈してくれるとは限らず、いない方がせいせいするとの理由で放っておかれるかも知れないのだ。いや、斎藤の場合ほぼそういう態度に出そうである。
「どう抗議しても暖簾に腕押しか。あーあ」
「洋子さん、斎藤さんが呼んでるよ」
沖田の声に立ち上がる。午後の修行がそろそろ始まる頃だ。

 

 道場に行くとお文がいた。自室に一人でいると何を考えるか分からないので、衆目の届くところにいさせようということらしい。
「遅いぞ。何やってた」
「──別に、何でもないです」
「何でもないならさっさと出てこい。取りあえず、いつもの分をやり終えろ」
「──はい」
いつもならすでに不満や反発が三言以上飛び出しているところだが、今日はやけに大人しい。こうなると斎藤も逆の意味で気になる。頭を竹刀で殴って
「客がいるからって黙り込むな。気色悪い」
「き…!!?」
この一言に、さすがの洋子もキレた。
「人が折角大人しくしてあげてるのに、気色悪いはないでしょうが! 大体いつも私が文句言うのも斎藤さんが悪いんです!! いつももう少し量を押さえてくれればいいのに!!!」
「阿呆。人が一発殴ったくらいで戻るようなら猫被るな」
彼にとって、洋子とは不満を言う存在なのだ。不満を口に出す権利を認めてやることが存在を認めてやることなのであり、不満に応じるかどうかは全く別次元の話なのである。
「別に猫被ってるわけじゃありません! 礼儀作法を守ってるだけです!!」
「どっちにしても同じことだ。気味が悪いからやめとけ」
すでにやめてるが、と内心思いつつ応じる。そこに笑い声が響いた。
「すみません、可笑しくて……。フフッ」
お文が笑っている。彼女がここに来て初めて見せた笑顔だった。

 「あーもう、むかつくむかつくむかつく!!!」
自室に戻った途端、洋子はそう叫んだ。刀をつかんで投げ飛ばす。
「人が折角お客さんがいるからって大人しくしてるのに、気味が悪いだのお前らしくないだの、言いたい放題言って!! 普通ならこっちが騒ぐのを師匠がたしなめるもんなのに、あれじゃあ逆じゃないの!!!」
押し入れを音がするほど乱暴に開け、枕を床に叩きつける。布団も飛ばした。
「そんなに人に盾突いてて欲しいんなら、一生でも盾突き続けてやるわ!!! 斎藤さんの言うことなんて絶対聞いてやらないから!!!!」
完全にキレている。そりゃお文さんが笑ってくれたのは良かったけど、と布団を乱暴に敷きながら彼女は続けた。
「とにかく今日という今日は頭に来た!!! 絶対思い知らせてやるんだから!!」
仮にも師匠である男に、こうまで宣言している弟子も彼女くらいのものだろう。

 ところが、こと人間関係においては一方の意志だけでは物事はそう変わらない。ぎりぎりまで眠っているつもりが斎藤に顔を水桶に突っ込まされて目が覚め、早速思い知らせるどころではなくなってしまった洋子は、常にも増して不機嫌だった。
「どうしたの、洋子さん」
ぶすっとしている彼女に、沖田が訊いた。
「別に、何でもないですけど」
口調にかなり棘がある。昨日のことだなと見当のついた沖田は
「あれは確かに、斎藤さんが悪いと思うよ。洋子さんが折角気を使って大人しくしてたのに、いっぺんでパーだ。それも…」
「気色悪いはないでしょうが。私だってここに来た当初は大人しかったのに、無茶苦茶やらせてキレさせたのが自分だってのを完全に忘れて、挙げ句の果てにはお前らしくないですもんね。誰がこういう性格にしたんだか」
「確かにね。ただ──」
沖田は笑いながら、やや真面目に思う。斎藤の言った通り、大人しいのは洋子らしくないのだ。少なくともここで丸一年以上過ごしてきた彼女ではないのだが、そう言ってしまうとまた怒りかねないので焦点をずらして
「こっちがあんまり気を使うと、お文さんも居づらいかも知れないから。基本的には普段通りでいいと思うよ」
と言った。洋子は数秒考え、納得したらしく表情を和らげる。