るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十二 変奏曲(2)

 「ほう、あの男の妻が、例の道場に」
江戸城の一室で、天井裏から報告を受けている男がいた。歳は四十代半ばだろうか。
「はい。ことによっては静姫を除く全ての者を引っ捕らえることもできますが…。いかが致しましょうか」
「出来ぬこともなかろうが、そもそもあの男自体、自分が何をやっているのか気づいてはおるまい。手先を全滅させても、元締めを捕まえねば意味がない」
「分かりました。では、静姫の方は取りあえず放っておくと言うことで」
その声と共に、天井裏の気配はスッと消えた。座って報告を受けていた男は
「蒼紫はいるか」
「ここにいます。何か御用でしょうか」
呼ばれたのは、十かそこらの美少年である。
「静姫が、妙な騒動に巻き込まれそうなのでな。それとなく見張って欲しい」
「分かりました」
静のことは、御庭番衆の失策でもある。公には出来ぬし、殺すとしたら周囲の者と戦う羽目になるだろう。黒船来航以後、権威の落ちた幕府としては騒動は避けたいのだ。

 

 「はい、洋子さん。お水」
取りあえず基礎鍛錬が終わったところで、お文が水を持ってきた。一気に飲み干して一息つく。旧暦四月ともなれば、日によってはかなり暑い。
「おい、洋子。次行くぞ、次」
「少しは休憩させて下さいよね、斎藤さん。こっちは疲れてるんだし」
次の瞬間、相手の竹刀が洋子の脳天に叩きつけられた。
「阿呆。休憩なんざ水飲む間だけで充分だ」
脳震盪で卒倒した洋子を、ずるずると引きずって縁側に行く。そして外に突き落とし、自分も庭に下りて立った。
「こら、いつまでぶっ倒れてるんだ。起きろ」
普通なら庭に突き落とした時点で目が覚めるのだが、今日は様子が違う。斎藤は無言で井戸の傍に行くと、水を汲んできてやや離れたところから洋子に向けてぶっかけた。
「うわっ!!!」
「狸寝入りしやがって。取りあえずこれで身体も冷えたろう、行くぞ」
何で分かったんだ、と彼女が首を傾げる間もなく、斎藤は攻め込んできた。

 「お文さんの旦那がどこ行ってるか、分かったぜ。どうやら遊びじゃないらしい」
その翌日の夕方、原田、永倉、藤堂の三人がそう言って戻ってきた。どうやら昨晩帰って来なかったのはそれを調べに行ったためらしい。
「ホントですか!? で、どこへ?」
迎えに出たお文が急きこんで訊く。三人は顔を見合わせて
「品川だよ。夕方に来る荷物の受け取りを、暖簾分けする前の主人の命令でやってるらしい。箱一つで十両以上する、高価な荷物って聞いたなあ」
「箱一つで十両、というと──。京都の西陣織でしょうか。けどそれなら隠すようなことでもないでしょうに…」
お文が首を傾げている。呉服屋が西陣織を扱うのは当然のことで、別に妻である自分に言ってもどうということはない。隠れて受け取るような荷物ではないはずだ。
「それが、売ってる側が日本人じゃないらしいんだ。あの髪型からして清国人だろうって見た人は言ってた」
当時中国を支配していた清王朝。その支配者階級の満州族の風習である弁髪を、漢民族に押しつけたのだ。従って、髪型で見分けがつくのである。
「生糸でしょうか、それとも他の…?」
考えているお文の背に、壁に叩きつけられるような物音が聞こえた。

 

 「四兵衛、お文さんを迎えに行くべきだよ」
その頃、お文の住んでいた呉服屋では彼女の旦那とその両親が話し合っていた。
「そうだよ。あんないい娘は滅多にいない。帰りが遅いのが続けば心配するのも無理ないし、ヤキモチの一つも焼いて問いつめたくもなるだろうさ。仕事でやましいことは何もないって言うんなら、そう言えばいいじゃないか。一也の世話もあるし」
四兵衛の一人息子の一也は、離れたところで奉公人に夕食を食べさせてもらっている。まだ数え年で二歳になったばかり、歯が生えて来かけている頃だ。
「長尾様に、このことは絶対に誰にも言うなと言われてるんだよ。言ったら暖簾を取り上げるって。親父とお袋も、絶対に秘密にしておいてくれよ」
「だったらそう言えば良かったじゃないか。秘密の仕事があって忙しいって。敢えて追い出さずとも、ねえ」
「そうだぞ。大体お文の実家にも申し訳が立たねえ。とにかく戻って貰え」
お文は川越出身で、両親は、彼女を本当はもっと格上の商家に嫁がせるつもりだったらしい。それを、四兵衛が頼み込んでもらってきたのだ。
 両親の説得にも、四兵衛は怒鳴りたいのと困ったのが混ざった表情で黙り込んでいた。

 

 「ホントに行く気ですか」
「このままだと、旦那さんが何やってるのかわかんねえままだぜ。一つ現場まで行って遠くからでも見てくれば見当がつく。戻るのはそれからでいい」
四兵衛が両親から説得されても応じなかったという話を聞きつけた次の日の夕方、前に聞き込みに行った三人は揃って出かけようとしていた。原田に続いて永倉が
「お文さん、四兵衛がもし犯罪にでも加担していたら取り返しがつかないよ」
「で、でも……。まさかあの人に限って、そんなことは……」
もともと真面目一筋で、だからこそ彼女との結婚を許して貰えた四兵衛である。犯罪に加担しているなど、考えられない。
「いや、その暖簾分けする前の主人ってのがくせ者だ。真面目な四兵衛が口止めされるようなことだ、かえって危険だよ」
「ま、何もなけりゃあないで問題ない。ちょっと見てくるだけさ」
どうもお文に好意を持っているらしい藤堂が締めくくり、三人はそのまま出かけていった。そこに洋子が姿を見せる。
「あ、もう行っちゃったんですか? ついて行こうと思ったのに」
「阿呆、お前が行っても足手まといになるだけだ」
斎藤が言ったことを半ば無視して、洋子はお文に問いかけた。
「今から走っていって、間に合いますかね」
「多分──間に合うと思いますよ。出て行ってすぐですから」
「阿呆。いつも食事取った後何も出来ずに寝てる人間が、稽古内容同じで今日だけ徹夜なんざ無理だ無理。さっさと戻れ、後一回やるぞ」
無視して下駄箱を開けようとした瞬間、頭を竹刀で殴られる。
「その無反応はやめろ。騒ぎ立てられる方がよっぽどましだ」
洋子が内に籠もることが、斎藤は何より嫌いだった。客がいるからと言って内に籠もられて後で不満をぶつぶつ言われるのも嫌だったし、普段はとんでもなく生意気な洋子がこういう時だけいい子ぶるのがもっと嫌だった。更に言うとこちらが何も言わなければ普段まで大人しくなってしまう可能性があり、返って突発的に自殺しかねない。大体稽古そのものも、喧嘩混じりの方が本気なので速く上達するのである。
「私は急いでるだけです。早く追いつかないといけないし」
数秒ほど動けなくなった後で、洋子は平静を装って言った。
「急ぐも急がないも、もう追いつくのは無理だと思うがな」
「──誰のせいでそうなったんですか、元はと言えば」
やっと草履を取り出した、洋子の口調に棘がある。
「俺のせいだ、と言いたげだな」
こうなれば挑発するだけだ。案の定、乗ってきた。
「他に誰がいるって言うんですか!? さっきからこっちが黙ってれば言いたい放題言ってますけどね、前から言ってたでしょうが、出来ればお文さんの代わりに一緒に行きたいって!! 稽古内容のこと言うんだったら、斎藤さんがそう仕向けただけでしょう!!!」
「いつもと同じ量をやらせただけだがな」
「そのいつもが多すぎるから、食事取った後も何もできなくなって寝るんです! 大の大人と同じ量を、十二歳の子供にやらせる人間がどこにいますか!!? 大体私だって、ホントはもっと大人しくしたいんです!! 斎藤さんが毎日毎日無茶苦茶するから、抗議してるだけであって!!!」
相変わらずの大喧嘩である。そこに沖田が現れた。
「あーあ、みんな先行っちゃった」
それで一瞬平静さを取り戻した洋子だったが、次の瞬間には遅れた責任を巡って斎藤と喧嘩している。お文は呆れて、笑い出した。

 

 「斎藤さん、折角洋子さんが大人しくしようとしてるのに、敢えて喧嘩させなくてもいいでしょう。あの子はあの子なりに気を使ってるんですよ」
その日の夜、沖田は斎藤にそう言った。洋子は寝た後、斎藤の個室だ。
「分かってるさ。ガキのくせにいっぱしの大人の振りをしようとしてるのは」
言われて苦笑する。襖を後ろ手で閉めて、畳に直に横になっている相手の傍に座った。
「確かに、お文さんに気を使わせないという意味ではうまく行ってますよ。けど、もう少しどうにかなりませんかね。訴え仏も大変なんですから」
「──あいつは、お文さんと自分を重ねて見ている節がある」
沖田を見上げもせずに、呟くように言う。
「多分、売られたときのことを思い出したんだろうが…。あの阿呆、どうせなら師匠に気づかれないように考えろ。こっちはいい迷惑だ」
沖田は黙った。数日前のお文とその旦那との光景を思い出し、ため息が出る。
「──言い過ぎましたね。すみません」
それが分かっていたから、斎藤は洋子の大人しさを嫌ったのだろう。理由はどうあれ、彼女の従順さはここに来た当初の頃を思い出させる。彼らを、自分を売った者たちと同列に見なし、怖れていた頃を。
「それにしても、もう少し素直にそう言ったらどうです? 間違いなく誤解されてますよ、洋子さんに」
「誤解が怖くてやってられるか。第一今に始まったことじゃない」
そう言い放つと、斎藤は沖田を見上げた。珍しく笑っている。
「まあ俺と喧嘩して、君に愚痴こぼしてるうちは大丈夫さ」
クスリと笑って、その台詞に同意した。