洋子が寝静まった頃、永倉、藤堂、原田の三人は品川に到着していた。
「お、舟が来てるぜ」
三人ほどを乗せた小さな舟が、沖合に向かっている。弁財船が浮かんでいた。
「荷物の陸揚げって、普通昼間やるもんだろ?」
付近の小高い丘の上にある林から見下ろしつつ、原田が小声で訊いた。永倉が応じて
「ああ。こいつはどうも…」
舟の光は手元の提灯のみで、持っている三人の顔も分からない。どうやらヤバい物を運んでいるらしかった。お上に漏れたら大変な騒ぎになりそうな物を。
「問題は、四兵衛が中身を知ってるかどうかだが」
「さあな。けど聞いた話だと、知らねえ可能性の方が高そうだ」
「お前たち、あの舟の男に用があるのか?」
いきなり、背後からそう声がした。咄嗟に振り返って身構える。
「そう身構えるな、私も四兵衛とやら言う男以外の二人に用があるだけだ」
声は落ち着いている。年は三十代の半ばくらいだろうか、顔は覆面をし、月を背後にしているためによく分からないが、姿勢などからかなりの武術を身につけているのが分かった。雰囲気からしてただ者ではなく、更に大小を身につけている。
「──用とは言っても、何の用だ?」
身構えた姿勢を解かずに、永倉が訊いた。相手の男は
「貴様らには関係ない、個人的な用だ」
そんな返事で目の前の三人の警戒が解けるはずもないのだが、その男は平然と
「──それで、ものは相談だが。あの三人が陸に上がったときに、お前たちで四兵衛だけをどこぞに連れていってくれんか。残る二人だけに用がある」
「決闘でもするつもりか?」
この男の実力なら、二人まとめてでも勝てないことはなかろうが…と思いつつ、藤堂は言った。相手の男はむしろ事務的な口調で
「まあそんなところだ。──心配するな、罠にかけたりする気は毛頭ない」
永倉たち三人は、顔を見合わせた。どうも目の前の男は胡散臭い。だがこちらとしても余計な騒動に巻き込まれるつもりはなく、取りあえず手を打つことにした。
「──分かった。で、四兵衛は無事に戻れるんだな」
「ああ、真っ直ぐ帰ればの話だが。──約束する」
信用されていないのを感じたのか、目の前の男はそう言った。
「静姫の名にかけて、な」
「何だと!?」
その場に殺気が満ちると同時に、男はふっと消えた。
「──あの野郎、そういう関係の人間だったわけか」
原田が怒号寸前の声で呻いた。永倉が応じて
「いずれにしても、長居は無用だ。さっさと行くぞ」
三人はそれぞれの表情で、丘を降り始めた。
「おーい、四兵衛さん。ちょっと用事があるんだが──」
彼らが舟から下りたばかりの浜で、原田がそう声をかける。びくっとしたのを見て取り
「別に怪しい者じゃない。お文さんを預からせてもらってる道場の者だ」
と、藤堂が続けた。四兵衛は荷物を下ろしながら、顔を背けて
「お文のことなら、もう別れるつもりですから。故郷に帰りたいのであれば帰らせてやって下さい。子供のことは心配するなと──」
「おいおい、バカ言っちゃいけねえよ」
原田が応じて、思い出したように周りを見回す。
「こんな所で家のことを話すのも何だな、ちょっと離れるか」
「あ、私は仕事がありますので……」
「お前さんと奥さんの話だろう。お前さんが考えなくてどうする」
打ち切ろうとした四兵衛の背中を、永倉が押す。原田が手を引き、三人で周りを囲むようにして四兵衛を海岸から離れさせた。
さて、とかなり歩いたところで原田は手を離した。松林の中、波の音がほとんど聞こえないほどの距離だ。
「ここだけの話、お前さんが今運んでたものは何だと思う?」
永倉が訊いた。四兵衛は辺りを何度も見回して、他に誰もいないことを確認する。一息ついて小声で、殆ど囁くように
「中身までは知りませんが、ご禁制のものでしょうね」
告白した。やはり見当はついていたらしい。
「最初は上方の何かかと思いました。ええ、最初は新吉原の遊女さんたちに売る着物、その中に入っていたんです。これくらいの小箱で」
げんこつほどの大きさの箱を手で作って、話を進める。
「暖簾もとのご主人は新吉原に贔屓にしてもらっていて、そのお礼の品かと思ってました。私も時たま、暇なときは手伝いに行ってたんです。ところが最近──」
夜中にその荷物を受け取りに行けと暖簾もとの主人に言われ、おまけに仕事の内容については誰にも一言も喋るなと口止めまでされたのだ。急に夜の出歩きが増えれば周りが不審に思うのは無理もなく、特にお文に心配をかけたことは反省していると四兵衛は言った。
「──ですから、私と共に暮らすのは彼女にとっても危険なのです。どうか別れて、故郷に帰るように言って下さい」
「お前さんはそれで良くても、お文さんの方は困るだろう」
と、永倉が言った。奉公人たちが面倒を見るとは言え、母親にとって子供と別れるのは何より耐え難いことのはずだ。まして自分の夫が危険な目に遭うかも知れないと分かっていて、敢えて自ら別れを選ぶような彼女ではない。
「第一、お前さんの恋女房だろうが。そう簡単に別れるだの何だの言うもんじゃない」
そこまで喋ったとき、浜辺の方から叫び声がしたかと思うと、途中で途切れた。四兵衛は顔を青ざめさせ、思わずその方へ駆け戻ろうとするのを原田が押さえた。
「戻るんじゃねえ、バカ野郎が!」
腕をつかみ、柔術の要領で投げ飛ばして四兵衛を倒れさせる。そして更に怒鳴りつけた。
「ご禁制のものを扱ってるんだ、向こうだって事件に巻き込まれる覚悟はしてるだろう。それにあの様子だと、てめえが今から戻ってももう間に合わねえよ!!」
「──確かに、そうだな」
四人の頭上から、いきなり低い声がした。
「あの二人は我々が始末した。阿片の密輸罪だ」
年齢不詳。が、その服装からして隠密に間違いなかった。木の枝に立って、声の主は語りかけてくる。
「そして今度は、貴様らの番だ。密輸幇助罪につき、この場で始末してくれるわ!!!」
「何だと!?」
十数人ほどの隠密が、不意に姿を見せた。周囲を囲んでいる。
「──要するに、俺たちも謀ったというわけか」
永倉が身構えつつ言った。他の二人も既に身構えている。 無言で、隠密たちは木の上から襲いかかってきた。
鉄の爪を振り上げて襲いかかる男を、永倉は間合いに入る直前まで待っていた。そして入った瞬間、刀を抜き打ちにしてその男を斬り捨てる。そして振り返りざまに敵の拳をかわす。斬り捨てた男のいた木を背後に、改めて身構えた。
原田は繰り出した槍を利用して敵が遠くに飛び、第一撃は失敗した。が、その後は機敏な動きで敵を近寄らせない。藤堂は空中からの攻撃をかわして敵が着地した瞬間を斬り捨て、残る数人とも睨み合っている。迂闊に近寄る者はいない。
「落ち着け。まだ時間は充分にあるのだから、まず傷を負わせればいいのだ」
始末すると言った声が、冷静にそう指示した。隠密たちが再び攻め込んだ途端
「止めんか、貴様ら!!!」
と、背後から大声がした。敵の動きが一斉に止まる。
「平太、お前にこの者たちを襲う権限を与えた覚えはない!!」
さっき永倉たちと話をしていた武士だ。追いかけてきたらしい。
「で、ですがこの者共は静姫の──」
「私の命令が聞けないのか!!?」
語気強く言われ、他の者たちは刀を納めて一斉に散っていった。
「──助かったぜ。騙されたとあっちゃ敵わねえからな」
原田が唇を舌で嘗めながら、ニヤリとして応じる。構えは三人とも解いていない。
「静姫は、お元気か?」
「ああ。毎日毎日やかましいくらい斎藤と喧嘩してる」
やや気配を緩めながら、永倉が応じた。相手の武士は苦笑して
「そうか。しかしあの男も、いい加減に諦めるように伝えてくれ。そもそも静姫ほどのご身分の高い方に剣を教えることは、それ自体が非常に光栄な事だと」
「──で、肝心の四兵衛の方はどうなるんだ?」
藤堂が訊いた。当の本人は、完全に腰を抜かしている。それを横目で見て
「当初の打ち合わせ通りだ。ただし、暖簾もとの主人に今宵のことを喋ればその限りではない。──まあ明日には捕まえるつもりだが」
「分かった。一応担保として訊いておきたいが、お前さんの名は?」
「巻町明人」
言うのと男が消えるのと、ほぼ同時だった。
「本当に、色々とお世話になりました」
お文と四兵衛は深々と頭を下げた。早朝に暖簾もとの呉服屋には奉行所の手が入ったらしいのだが、四兵衛の店は今のところ無事である。試衛館まで迎えに来たのだ。
「今度こそ仲良くな」
「つまんないことで、喧嘩するんじゃねえぞ」
「まあまた何かあれば、相談に乗るよ。お文さん、しっかりな」
永倉、原田、藤堂の三人がそれぞれ言葉をかける。洋子はお礼代わりに子供用の振袖を貰ってご機嫌だった。
「では、私たちは仕事がありますので、これで…」
「本当にどうも、ありがとうございました」
そう言って、二人は並んで背を向けた。後ろ姿を見送りながら
「行っちゃった……。良かったですねえ」
沖田がほっとした顔で言う。角の所で振り返って頭を下げたお文たちに手を振っていた洋子は、斎藤の方を横目で見て
「もし、私が家出なり一人で夜間外出なりしたら、どうします?」
そう訊いた途端、洋子は頭に痛烈な一撃を食らった。脳震盪を起こして気を失いかけたのをずるずると引きずって家の中に戻る。
「阿呆。百年早い」
道場まで戻ってきて、斎藤は言った。更に
「俺に気づかれずに出来るようならやってみろ」
とも言い放った。洋子はムカッときて
「分かりました。じゃあ今度また縁日の時にでもやってみます」
バゴッ!!!
前以上に強い一撃を食らい、今度こそ完全に気を失ってしまった。
「ったく、この阿呆が」
その光景を見て、前夜巻町と話した三人は苦笑しつつ天を仰いだ。──俺たちが言ったのが半刻前でこれだ。そっちが諦めた方がいいと思うぜ…。