るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三 邂逅、そして(1)

 「洋子! あんた一晩外に出て、頭を冷やしてきな!! この役立たず!!!」
月夜の亥の刻(午後十時前後)。通りに面した薬屋の扉から、十歳ほどの少女が突き出された。倒れ込んだ彼女の背後で、扉が音を立てて閉まる。
 はっとなった少女は懸命に扉を開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。そのうち疲れたのか、膝を抱えて座り込んだ。
「人斬りにしたら、私なんていいカモだろうな」
冴え渡った冬空を見上げて、一人呟く。風が身を切るように冷たい。
「今朝から頭はがんがんするし、熱はあるし…。今日が最期かな」
一段と強い風が吹き抜け、彼女は咳こんだ。水をこぼした服が冷たくなっている。
「死んだら…母上や父上に会えるかな」
意識が遠い。ひどい熱にやられ、彼女はだんだん気が遠くなっていった。
 万延元年(1860年)も十一月(当時は太陰暦で、現在の太陽暦の方が一月以上進んでいる)、真冬の江戸の夜である。

 後の新撰組一番隊組長沖田総司はこの夜、講談を聞いて寝泊まりしている道場へ帰る途中だった。道場の名は試衛館。天然理心流という流派の剣術道場で、江戸の中では有名ではないが付近の農村では三大勢力の一角をなしていた。
「ああ、楽しかった」
今日の講談は太平記が題材で、楠木正成が鎌倉幕府の大軍を千早城でさんざんにやっつけるところである。その発想の奇抜さ、大いに笑えるところであった。
「さて、早く帰って…」
路上に蹲っている人影を見つけた。よく見ると子供、それも女子だ。
「──ああ、ここの薬屋か」
人使いの悪いので有名な店である。性格の悪さが出るのか、薬もさほどよく効くとはいえない。少女は顔を伏せていたので、常人なら「追い出されたんだな」程度で見逃していたであろう。だが沖田は、少女が尋常の呼吸をしていないことに気づいた。ひどく荒い。
「大丈夫、お嬢さん」
声をかけ、体に軽く触れた途端彼の表情が変わった。
「すごい熱だ。このままだと明日まで…」
絶え間なく吹き付ける北風が、この少女の体力を奪っていく。
「何か言ってきたら、その時に考えればいいや」
暴力沙汰になっても、そこらのやくざになら勝つ自信がある。そう考えて、沖田はこの少女を背負った。道場が病気の療養に向いているとは聞いたことがないが、それでもこんなところにいるよりはずっとましであろう。
「やくざより、幽霊の方がよっぽど恐いですよ」
後で、沖田はそう言った。

 「ただいまー!」
まるで遊びに行ってきた子供のような声を上げて、沖田は自分が帰ってきたことを皆に知らせた。
「おう、総司か。…何だ、そのガキは」
迎えた土方歳三が、背負っている子供に不審そうな表情をする。
「例の薬屋の奉公人ですよ。店外で寝てたのを連れてきました」
「……寝てた? この物騒な時分にか」
夜には『異人襲来に備えて腕を磨く』といって浪人たちが通行人を斬っているようなご時世である。常識的に言って信じられない。
「おまけにこの子、病気なんです。明日まで放ってたら命に関わるから、これも何かの縁かなと思って」
背負われている顔を見ると、ひどい風邪を引いているらしいのが一目で分かる。とはいえこの青年のこと、独断で連れてきたのだろう。他家の奉公人を無断で連れてくれば、後で一悶着は避けられそうにない。
「空いてる部屋に寝せておきますから、薬の方を用意してて下さい」
遠慮なく玄関をあがる。土方の不満そうな顔を無視して、沖田は奥に向かった。その時、横顔だが一瞬背負っている子供の顔を間近で見る。
『──妙だな』
あの娘の顔は、薄汚れてはいるがただ者ではない。生まれつきの気品というか、そういう常人離れしたものをこの人間観察の達人は敏感に感じとっていた。
 あいにくと言えるか、この日から道場主の近藤勇は多摩方面の出稽古で留守だった。道場の食客たちも大部分が岡場所か吉原かに出ていっている。残っているのは沖田と土方、斎藤一の三人だけだ。この斎藤も、お世辞にも一般的な意味での『いい人」とは言えない性格をしている。剣の腕は立つのだが。
「土方さん、そんなに怒らないで下さいよ」
曲がり角のところで、沖田は振り返ってそう言った。

 さて、少女が目覚めたのは翌日の正午前ほどの時間だった。見慣れぬ部屋に一人寝ている。薬を飲ませたらしい茶碗と水の入った桶が枕元にあり、額に濡れ布巾があった。
「どうしたんだろう、私…」
少し汗をかいたらしく、服が濡れている。声はまだ枯れていた。
「目が覚めた?」
と、障子が開いた。入ってきたのは背の低い優男で、小姓部屋にでもいそうな雰囲気がする美少年だ。どうやら外で待っていたようである。
「ひどい熱だったし、最近この辺も物騒だから。昨日の夜連れてきたんだ」
「連れてきたって…。貴方がですか?」
目を瞬かせて訊く。その優男はうなずいた。
「うん。──ああ、僕は沖田総司。ここの道場の出で、一応皆伝持ってる。普段ここに寝泊まりしてるから、連れてきたんだ」
「──天木洋子です」
少女は、そう名乗った。

 と、どたどた人が走ってくる足音がした。
「おい、沖田君。客人が目覚めたらしいな」
「病人なんですから、そんなに騒がないで下さいよ、原田さん」
そう言って、沖田は苦笑を浮かべた。いきなり入ってきたその男は背も高く、顔はやや粗野な印象を受けるが決して醜男ではない。沖田よりも年上なのは一目瞭然だったから、それで敬語を使っているのだろう。彼は洋子が目を瞬かせるのに気づき
「へえ、この子か。意外と可愛い顔してるじゃねえか」
濡れ布で顔を拭いた際、汚れもとれたらしい。土方から一通りの話は聞いていた。
「名前は、天木洋子って言うんだって。──そうだ、土方さんに医者…」
「さっき頼んだ。しかし沖田く…」
そこに、またしても人がやってくる。一人は室内に顔を見せるなり
「俺、籐堂平助。伊勢の籐堂侯のご落胤だよ」
と言った途端、もう一人に頭を叩かれた。
「今のは冗談だから気にしなくていい。…ああ、俺は永倉新八。松前藩の出身だ。──と言っても、家は江戸定府だったが」
「いったいなあ。前から母親には事情があったって言ってるだろ」
叩かれた側の反論に応じて
「どうせまともな事情でもないくせに。見ず知らずの子供にそんな馬鹿なこと言ってどうするんだ、まったく」
新八の語尾に重ねて、原田と呼ばれた男が
「大体なあ、俺がまだ自己紹介やってないのに、てめえらだけ勝手にやるんじゃねえよ! ふざけやがって!!」
怒った口調で言った。慌てて沖田が止めにはいる。
「ちょ、ちょっと原田さん。ここで喧嘩するのは…」
「放っとけばいいさ。第一、君が止めても止まるまい」
やけに冷静な声が傍からした。そしてさっきからの喧噪に目を丸くしている洋子を指し
「で、こいつか」
文字どおりの悪人面だった。洋子としては、余り好感の持てない人種である。
「ええ。──しかしいいのかなあ、病人の前であんなに騒いで」
沖田はそう言って首を傾げた。その男は彼女を横目で一瞥し
「斎藤一だ」
と言ったきり、顔の向きを変えて眉一つ動かさずに原田たちの喧嘩を見ていた。

 「全く、怪我の治療のために医者を呼んだんじゃねえぞ」
「面目ねえ」
土方の皮肉に、原田は頭を下げた。結局庭での三つどもえの大喧嘩になったのだが、ちょうど土方の呼ばせた医者が現場に到着して一件落着。まず洋子の治療を済ませてから、残りの人間を治療してもらった。沖田が洋子の耳元にささやく。
「今のが土方さん。道場主の近藤さんは多摩の方に出てていないから、塾頭のあの人が留守を預かってるんだ。分かるかな」
「じゃあ、他の人は…?」
別に悪いことをしているわけでもないが、自然と囁き返す格好になる。
「みんな居候さ。他の流派の目録やら皆伝やら、武術の腕は立つんだけどね。道場破りの連中の相手をしてもらってる」
こうまで騒がしいのは良くも悪くも初めてだった。傷口に薬を塗りこまれ、痛そうな顔をする三人を見ながら、すごく場違いな場所に来た気がすると洋子は感じていた。
「で、天木洋子とか言ったな」
と、土方が部屋に入ってきた。昨晩飲ませた薬が効いたのか、今朝はやや調子がいい。
「見苦しいところを見せた。お詫びと言うわけでもないが、風邪と怪我が治るまではここで療養させよう。まあ何もないが」
沖田が、ほっとした表情で一礼した。

 その頃、薬屋の奥の座敷では、主人夫婦が話し合っていた。
「どうする、なるだけ隠密にやらねばなるまい。事の全貌がお上に漏れたら首が飛ぶ」
不安そうな主人に対し、洋子を追いだした本人である妻の方は強気に
「なあに、大丈夫よ。どうせあの体で遠くに行けるはずもないわ。近くをしらみつぶしに探せばきっと見つかる。見つけ次第実力で奪い返せばいいわ」
「…そうだな。漏れて困るのは我々だけではない」
納得した主人は、やっと障子を開けた。外は珍しく晴れている。

 同じ空の下で、洋子は居候たちと雑談に興じていた。