るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三 邂逅、そして(2)

 洋子の風邪は五日ほどで全快した。そうなるといつこの道場を出てもいいはずだが、沖田が「ついでに怪我も治していけばいい」と言って引き留めるので、そのまま居候としての生活を送っている。
 道場の試衛館の食客は、この前の喧嘩騒ぎの前後に出会った人間以外に二人いた。山南敬助と井上源三郎である。うち山南は他流の皆伝、井上の方は天然理心流の目録と、いずれ劣らぬ剣客ぞろいであった。さらに道場主の近藤とも対面し、好きなだけいてもいいという言質を得る。もともと居候ばかりいるので、今更一人増えたところで影響は少ないのだろう。
 風邪が治ると道場へも行くようになる。門人たちは町人や下層武士の物好きな連中が中心で、大して強くないのだが、居候たちの試合はさすがに迫力があった。他流出身の居候中、永倉新八は神道無念流、籐堂平助と山南敬助は北辰一刀流という有名な流派を習っているのだが、原田左之助は大阪の方の流派の槍術で、斎藤一に至ってはどこの流派かも分かっていないという状況である。
「ま、みんな腕は立つからね」
確かに沖田の言うとおり、腕は皆ほぼ互角と言っていいほど立つ。面白いのは竹刀と木刀で勝敗が逆転することで、竹刀を使っては他流の方が強いのに木刀となると天然理心流の方が強い。特に近藤、土方にはその傾向が濃厚である。
「仕方ないさ。大流とは教え方からして違うもの」
当時の有名な剣術の流派は、合理的あるいは科学的な教え方をしていた。気合いだの根性だのはすでに古く、技術が要求されるようになっていたが、天然理心流は相変わらず気合い重視である。ただ木刀はある意味ですでに実戦であり、実戦は細かい技術より気の持ちようで勝敗が左右されるために天然理心流の方が強くなるのだ。
「毎日見に来るな、あいつ」
今日も道場の隅で皆の稽古の様子をじっと見ている洋子に気づき、原田は言った。
「暇なんだろう。邪魔でなかったら構わんさ」
土方が応じる。実際、彼としてはどうにでもなれという心境であった。
 沖田が連れてきたのを自分の判断で追い出すのは道理に合わない(沖田の方が天然理心流という流派内での格は上なのだ)し、仮に追い出したにしても連れ戻そうとする沖田と決闘して勝てる自信はない。第一、この十日ほどの二人のやりとりを見ているとむしろ微笑ましくなってくるほどで、追い出す気をなくしてしまう。
『──兄と妹だな、あれは』
沖田には姉はいても妹はいない。ちなみに土方、近藤も末っ子で弟や妹を持たず、沖田を弟代わりに扱っているようなところがあった。だから洋子を妹代わりに扱う彼の心境が理解できないわけではなく、取りあえず薬屋から何か言ってくるまで放っておこうというのが「どうにでもなれ」の意味だった。
「それに、こう毎日がやがややってたら部屋にいても気が散るさ」
籐堂が言った。彼は比較的洋子に好感を持っているようで、手があくとよく話しかけに行く。彼女もようやくこの道場の雑然とした雰囲気に慣れてきたようで、色々剣術のことなどについて話している。封建時代といえば女性にはひたすら『女らしさ』が求められたような印象があるが、北辰一刀流などには女の皆伝持ちもいるほどで、女性が剣術に興味を持つのはそう奇異に見られることではない。
「そうそう、土方さん。あの子、意外と頭がいいんですよ。昨日なんか平家物語の冒頭部分を見事に暗唱してのけましたし。薬屋に奉公に出る前は、意外といいところのお嬢さんだったんじゃないですかね」
「それが黒船のあおりを受けて没落し、娘を奉公に出さないといけなくなった訳か」
そうだとすれば、あの妙な雰囲気も納得がいく。黒船来航と開国の結果、それまでの商売の仕組みが大きく変わり、中堅どころでは店を閉めたところが多い。そのあおりで潰れた商家の娘だろうと思いつつ、土方は洋子を見やった。
「そういえば、明日はお前が出稽古に行く番だろう」
ふと思い出して、土方は沖田に言った。洋子がこの道場に来たとき近藤が出ていた理由の、多摩方面の出稽古である。出稽古と言っても近藤や沖田、土方は師匠であり、その方面の農村の若者に剣を教えに行くだけで、他の道場に行くということではない。
「ええ。頼みますから、僕がいない間に洋子さんを追い出したりしないで下さいね」
と、指摘された側の青年はやけに真剣な表情で応じる。目録だが年齢で塾頭になっている土方は苦笑して
「俺は、勝てない喧嘩はしないたちだからな。安心しろ」
「ならいいけど。勝手に勝てると信じこんで突っ走る人間だからなあ、土方さんは」
「……とはどういう意味だ、おい」
沖田は笑ったまま答えない。からかわれたと察して不機嫌になる土方であった。

 「じゃあ、みんなの言うことをよく聞いていい子にしてるんだよ」
翌朝。単なる出稽古前にしてはやけに大げさな台詞を言って、沖田は見送りに来ていた洋子と別れた。見るからにどこか不安げである。
「大丈夫だって。数日経てば帰ってくるよ」
そう言って頭を撫でてやると、表情が和らいだ。それを見て、彼は出発する。
 後に分かることだったが、洋子のこのときの不安そうな表情にはちゃんとした理由があった。もっとも、それがどこに転がるかまでは予測できなかったのだが。

 理由というのは、昨晩遅くのことである。実は風邪が治ってから、洋子は夜中に竹刀を持ち出して稽古の真似事をしていた。本気で習おうというつもりはなく、あくまでも薬屋に戻ったときに見せるちょっとした特技のつもりだったから、真似事だけである。
「えっと、今日は何をやろうかな」
走れば音で気づくだろうから、動かずに出来るものでなければならない。真っ暗な道場の奥で素振りをしていると、突然人の気配がした。
「おい、そこ。何やってる」
その低い声は、恐らく斎藤一とかいう居候のものだ。冬の夜だからというのではなく、洋子は本当に凍り付いた。他の居候なら見逃しもしただろうが、ただでさえ怖い顔のこの男が彼女は余り好きではなく、向こうも彼女にはほとんど興味を示さなかった。結果互いに妙に無視しあう関係が続いていたため、それが期待できない。
「──洋子か」
無表情に呟くと、斎藤は道場の中に入ってきた。そして無言で彼女の持っていた竹刀を取り上げ、よろめいたのは無視して元の置き場に戻す。そのまま道場を出て戻り際に
「今度やったら、覚悟しろ」
鋭い瞳で睨みつけられては、今の洋子は震え上がるしかない。当然応える気力もなく、ただ立ちつくしていた。

 その頃、道場では斎藤が土方に昨晩のことを話していた。
「そうか」
土方はそう言って思案した。剣術道場にいる以上、洋子が剣術に興味を抱くのはやむを得ない。それにいずれ薬屋に戻る可能性が高く、正式な弟子入りも恐らく無理だろう。そう考えて斎藤の顔を改めて見た途端、一つの案が浮かんだ。
「斎藤君、一つ洋子に教えてみないか」
言われた側は、一瞬きょとんとした顔で提案者を見返した。苦笑して説明する。
「あれが剣術に興味を持っているのは確実だし、そういうことがあったからには君の言うことなら聞くだろう。なあに、今年いっぱいの辛抱さ」
「……分かりました」
道場の居候が、塾頭に逆らえるはずもない。うなずいて立ち上がり、不機嫌そうな表情(この男の場合いつもそう見えるのだが)をして道場の外に出る。見送りから戻ってくる洋子を見つけ、呼び止めた。
 彼女はびくっとした。無理もない、昨日の今日である。
「何か…?」
声を出すのがやっとという感じで、問いかけた。
「今から剣を教えてやる。ついてこい」
何の因果で俺がこんな小娘に教えねばならんのだ、と思いながら言う。洋子は一瞬心の中を嵐が駆け抜けたように思って愕然とし、数秒立ちつくした。やがて天を見上げて肩を落とし、とぼとぼとついていく。
 こうして『史上最大の不毛な師弟関係』と後に洋子が剣心に言うところの関係が始まったのである。実のところ、この少女の正体をこの時知っていれば、こういう待遇をすることはなかったであろう。