文久二年も晩秋。試衛館では食客の山南、永倉たちが近藤、土方と道場奥の一室で話し合っていた。洋子は例によって例の如くだ。
「浪士組?」
近藤が問う。山南が頷いて
「ええ。幕府の費用で浪士組を設立し、攘夷を進めるための士を集めるとかで、今、各道場に檄が回っています」
「うちには来ていないが」
と、土方が横から言った。それは、という表情を山南がしたが
「向こうの手落ちでしょう、ただ単に」
永倉が言う。もともと他道場で聞き込んだ話である。
「発起人の清河とて、もとは単なる浪人です。手落ちなんていくらでもあり得る」
「で、京都に上って…その後は?」
行くとなれば道場はどうなるか。もともと養子に過ぎない近藤としては、彼の一存では決められない話である。まずは周斎の了解を得なければ。
「攘夷断行は、幕府によってなされねばなりません。そのための士を集め、攘夷を断行するための力とするのです」
「となると、末は旗本か大名になる可能性もあるわけだな」
と、近藤は呟いた。彼の考えで行けば、これは幕府のために功績を挙げて出世し、正式に武士として認められる機会だ。かつて生まれが農民というだけで講武所の教官になれなかった彼としては、願ってもない機会だった。
「まあ、それはよく分かりませんが。どうしますか」
「幕府側の正式な話を聞きたい。檄文と言っても、清河が勝手に出しているものだ」
土方が言った。いつまで京都にいるのか、我々のような身分でも採用してもらえるのか。それ次第で対応が変わってくる。攘夷を断行するための力とするとは言うが、具体的な任務さえ明らかではない。
「それなら知人のつてを頼って、頼んでみましょう。しかるべき方に会えるように」
山南はあっさり応じた。それから少し経ったあと、話が終わって近藤と土方だけが残る。
「歳、意外と慎重だな。お前ならすぐに乗ると思ってたが」
「興味はあるさ。ただ、話がうますぎると思ってな」
清河、正式には出羽浪人清河八郎という人物は北辰一刀流の剣客だ。この北辰一刀流という流派がくせ者で、水戸学を奉じる極端な尊王攘夷の論客を出している。京都を騒がせているのもこの派が中心で、その一派である彼が幕府に浪士組の設立を申請すること自体が土方には引っかかった。
「それに、俺たちが出払っている間、洋子はどうする?」
と、壁に何かが飛んできてぶつかったような音がする。続いてやや低めの衝突音。
「──またか。相変わらずだな」
土方が呟き、近藤と顔を見合わせて苦笑する。数秒静かになったかと思えば、今度はものを投げるときのドサッという音が聞こえた。子供のものらしい呻き声。
「いったーい。何も投げ落とさなくてもいいじゃないですか」
「だったらさっさと起きろ。いつまでぶっ倒れてるんだ」
いつもの言い争いに、土方たちは軽く息をついた。
「そんなこと言う前に、人が動けなくなるような攻撃を仕掛けないで下さい」
「自業自得だ。悔しかったら食らうな」
次の瞬間、竹刀が激しくぶつかり合う音。
「──確かに、一問題だな」
近藤は笑って頷いた。何にせよ、詳しい事情が判明してからだ。
近藤たちが紹介されたのは、この徴募の幕府側の肝煎り役である松平上総介だった。
「ああ、浪士組のことか」
と彼は言い、詳しい説明をしてくれた。何でも直接の任務は、近く京へ上る将軍家茂の警護であるらしい。
京は人斬りたちが横行し、中には攘夷の勅命を守らぬ将軍を斬るという動きさえないとは言えない。彼らの手から将軍を護るにはこちらも腕利きの剣客たちを揃える必要があり、それが幕府の浪士組徴募の目的だという。
「なるほど、分かりました」
清河の計画とはかなり違うが、取りあえず幕府としても今回の浪士組徴募は本気らしい。納得した土方が隣にいる近藤の様子をうかがうと、任務が将軍警護だと聞いた途端に微かに震えている。天下の将軍を、自分のような一介の農民上がりの剣客が護るということに感激しているらしい。
「歳、俺は行くぞ」
会見からの帰途、近藤が言った。
「ああ。手柄を立てれば武士にだってなれる」
もともと、武士になる願望を強く持っていたのは土方である。今度の話が確実なつてであれば乗りたかった。
「ただ、あの様子では清河と幕府が対立する可能性がないとも言えん。そうなったら近藤さん、あんたどっちにつく?」
「それは幕府だ。言うまでもなかろう」
迷うことなく、近藤は即答した。この付近、やはり天領の農民と言うべきだろう。
さて、次に考えなければならないのは洋子の処遇だ。まず沖田に内々に打ち明け、意見を聞いてみることにする。
「道場は閉めた方が良いでしょう。僕も京に上りたいですし、多分他のみんなも上りたいでしょうから。洋子さん一人だとさすがに荷が重すぎる」
「ふむ。で、どうするかだ」
問題は閉めた後だ。お常や周斎はここにいるから、いさせようと思えば出来る。ただその場合、洋子の剣術修行が問題だった。あれほどの剣才の持ち主を、中途半端に放り出すのは余りにも惜しい。
「練兵館にでも、預かって貰いますか。永倉さんの話だと、弥九郎殿は洋子さんに好感を持ってるそうですよ。将軍の護衛というなら、一年以上かかることもないでしょうから」
土方は少し考え込んだ。彼女を京都へ連れて行くわけには行かない以上、確かに誰かに預かって貰うしかない。ただ、任務完了の時期がはっきりしないため、授業料をどうするかが問題だった。ある程度事前に払うにせよ…。
「佐藤さんに、頼むしかないな」
姉婿である佐藤彦五郎は日野の名主で、天然理心流の多摩方面での保護者である。後に新撰組が結成されたときも初期には金を送ってくれており、裕福な農民だ。
「ええ、僕もその方がいいと思います。洋子さんも会ったことありますし」
それでその場は話をまとめ、次に斎藤に持ちかける。その日の夜だ。
「例の浪士組ですか、加盟できるものならしたいですが…」
「洋子か?」
突っ込まれ、苦笑する。彼自身、個人的な筋から浪士組結成の話は聞いていた。ただ、自分で参加するつもりがなかったので誰かに教えることもしなかったのだ。
実のところ、斎藤は洋子を嫌いではない。当初は教えること自体が面倒で、渋々ながら自分も食客なのでやむを得ず教えていたのだが、彼女に予想外にも剣術の才能があることに気づくと、日々の稽古がある種の楽しみにさえなってきた。今手放すのは、確かに気がかりだ。惜しいというほどでもないが。
「そのことなら、心配するな。佐藤さんに身元保証人になって貰って、実際には練兵館に預ける予定だ。それがいいと思ってな」
「ああ、それなら…。私も少し遅れていくことになりますしね」
先代まで歴とした藩士だった斎藤には、整理することが色々ある。それらをやってから出発するので、加盟には少し遅れるだろうと言うことだ。
「よし、決定だ。周斎先生もいいと言ってくれたしな」
残る問題は洋子本人だ。土方としても反応が予測できないだけに誰に言わせるか悩み、結局翌日になって沖田が説明することにした。他の門人は一堂に集めて説明すればいいのだが、彼女の場合事情が事情だけにそれが出来ない。
「──分かりました」
幕府による浪士組結成と、それに近藤・土方・沖田などが参加する予定で、結果この道場を閉鎖しなければならないこと、それに伴う彼女自身の処遇などを説明すると、洋子は静かにそう言った。
「何か僕らにこうして欲しいとか、こうしたいとか、ない? 準備金がいくらか出るから、その範囲でなら出来ると思うよ」
「いえ、特にないです。──ただ…」
洋子は笑った。半分無邪気で、半分皮肉めいた笑み。
「斎藤さんが参加するってことは、私もう斎藤さんの稽古受けなくていいってことですよね。あの無茶苦茶な稽古を」
「まあ、当然そうなるかな」
「やった!」
そう言って、洋子は手を打った。満面に喜色を浮かべ
「これでやっと普通の稽古が受けられる。弥九郎先生は親切な人だし、斎藤さんみたいにいきなり人の頭をボカスカ殴ったりしないし。あー良かった」
余りの喜びように、沖田は斎藤がやや気の毒になってきた。
「それはちょっと言い過ぎだよ。何しろ斎藤さん、その話前から聞いてたのに君の稽古があるからって参加躊躇ってたらしいんだから」
え、と彼女は手を止める。まさか、という表情だ。
「ホントだって。だからそんな言い方したら失礼だよ。僕の前だからいいけど」
「……はい」
洋子は頷いた。何故あの男がそんな態度を取ったのか、分からないながらも。
洋子はその夜、寝床で一人考え込んでいた。
『──まさか。あの人に限って』
第一、そんなことを誰かに直接言うような男ではない。恐らく言動からの推測だろうし、だとしたら外れている可能性も多分にある。
『ただ、斎藤さんが浪士組の話を事前に知ってた事実と、にも関わらず参加しようとしなかった事実はあるわけで。──やっぱり馬鹿馬鹿しい』
この二つの事実の間に、彼女がどう関係するというのだ。条件が合わなかっただけかも知れないし、一人で参加するのが嫌だっただけかも知れない。大体私のことをそんなに気にかけているんなら、普段もう少し親切でも良さそうなものだ。
『──沖田さん、拗ねたかな?』
では何故あんなことを沖田が言ったのか、理由として直感したのがこれだった。少しは寂しげにするかと思いきや、自分は予想外に平気で喜んだりしている。彼が拗ねたとしても無理はない。
『でもねえ、別れも繰り返せば慣れるもんなのよね。まして貧農同然に売られた身分としては、今更別れに特別な感情抱けっていっても…』
所詮は無理な話なのだ。正直な話、彼らはまたいずれ江戸に戻ってくるだろう。永久の別れと一時の別れでは、やはり送る側の感覚も違う。
やれやれだ、と洋子は思う。ため息をついて、目を閉じた。