「──で、どうして貴方だけ残ってるんですか」
「仕方あるまい。仕事が残ってるんだ」
小石川の伝通院前で、洋子と斎藤が会話している。遠くには三百人ほどの人影が見え、ますます遠ざかっていくのが分かった。
その日は、文久三年二月八日。新撰組のもととなった幕府肝煎りの浪士組が、江戸から京都に旅だった日である。
洋子は当初、浪士組出立後も斎藤が少し江戸に残ると聞いて、露骨に嫌そうな顔をした。折角彼のいない場所で羽を伸ばそうと思ったのに、よりによって彼だけが遅れて出立することになったのだから、当然と言えば当然だろう。
「ま、明日からは本格的に練兵館に住み込みだ。今までのように行くと思うな」
「貴方にボカスカ殴られなくなるだけでもましでしょうよ」
沖田さんに会えないのは寂しいけど、と内心思う。今までとて決して楽ではなかったし、結構手伝いもしていた。大体斎藤が滅茶苦茶な稽古をするから喧嘩するわけで、喧嘩さえせずに大人しくしていれば何とかなるだろう。
「──まあいい。俺が様子を見に来たとき、怠けてたら遠慮なくぶっ叩くからな」
「はいはい」
言いつつ、さっと距離を取る。相手も分かっていたのか、刀が空を舞うことはなかった。
洋子にとって試衛館から練兵館への移動は、稽古の質と量が変わっただけで基本的に変化はない。女性で住み込みの剣術志願者は彼女一人で、しかもある程度の位を持っているので個室が与えられ、そこで寝起きする。変わったと言えば斎藤に水桶に顔を突っ込まされて目が覚めることがなくなったくらいで、周りの物音で目が覚める。
「おはよう、お洋さん」
「おはようございます」
一年以上前にここに来て以来、洋子は斎藤がいない日を見計らってちょくちょく来るようになっていた。やはり物珍しいのか、みんな親切にしてくれる。
顔を洗い、食卓につく。一汁一菜に沢庵の質素なものだが、ご飯は自由におかわりできる。同級の者同士で集まって食事をするので、余計な気兼ねもいらない。
「まあ上になればみそ汁の具が良かったり、魚が塩焼きだったりするんだけどな」
隣の哲治が言った。同年代で、顔はまあまあだが口は少々悪い。沢庵を口に放り込んで
「しかしあんた、女なのに何で剣術習ってんだ?」
「別に、習いたくて習い始めたわけじゃないのよ。色々あって、半分押しつけ」
洋子の複雑な表情を見て、相手は応じた。
「だったら断れば良かったじゃないか。どうしても嫌なら。女なら別に強制もしなかっただろうし」
「それが出来るような状況じゃなかったのよ。奉公に出された先で散々虐められて、風邪引いてるのに冬の戸外に叩き出されたのを助けてもらったんだから」
「なるほど。そりゃあ断りづらいだろうな」
納得して頷いた。洋子の本音としてはその後の事件の方がよほど決定的に断れなくしているのだが、敢えてそこまで説明したくないので深入りは避ける。
「で、何か知らないけど私には才能があるってみんな言うから、続けてるんだけどね。ホントにあるのかなって疑問に思う時もあるわ」
みそ汁を飲み干して一息つく。哲治は顔を正面に戻して
「ま、その付近は俺にはよくわからんけどな。少なくとも永倉さんと同じくらいの実力の人たちがそこにいて、その彼らが言うんだから少しは信用できると思うぜ」
「──そういうもんなの?」
箸を置いて洋子は訊ねた。
「ああ。人間、自分より実力のない奴のことはよく分かるもんなんだ……って、親父が言ってた。だから修行する必要があるんだと」
さて、と哲治は立ち上がった。
「先に行ってる。じゃあ後でな」
うん、と彼女は頷いた。
哲治は、どこかの旗本の家臣の息子という身分である。次男だったかで家は決して豊かではないため、剣才のあるのをいいことにここに住み込ませて口減らしをし、将来道場でも持ってもらえば一人立ちできて御の字だというつもりらしい。
洋子とは食事の席がたまたま隣なので親しくなり、毎日雑談をするという関係だ。住み込んで五日だが、その間に結構何やかやと話し合っている。
「あのう、お洋さん」
哲治にやや遅れて道場に出、竹刀を取った洋子に声がかかる。
「斎藤一という方が、いらしてますけども…」
げ、と顔をもろにしかめながら洋子は小者に向き直った。
「分かったわ。行くからちょっと待ってて貰って」
洋子が道場の客間に向かうと、ちょうど弥九郎が出てきたところだった。
「あ、先生。おはようございます」
「おう、お洋さんか。待ってたぞ。師匠はこの中だ」
「はあ」
気のない返事に、弥九郎は苦笑した。それを無視して
「失礼します。何か用ですか」
と、洋子は部屋に入るなり言った。
斎藤は、相変わらずの悪人面を向けてくる。そして
「別に。ただ今日は暇だからな。様子を見ようと思っただけだ」
「だったら、さっさと帰って下さい。これから稽古があるんです」
「相手は順番待ちでか。それだと殆ど息抜きか遊びだ」
厳しい声だった。実のところ、数日後まで洋子の稽古相手は決まっている。
「弥九郎殿も気にかけておいでだ。ちやほやされていい気になるな」
「それでもこっちが本気ならいいでしょう? 向こうが遊びなのは向こうの責任です」
洋子の反発に、更に厳しい言葉が返ってきた。
「そういう問題ですむと思うな。遊びに全力を出す奴がいるか? お前と遊んで勝っても負けても、それは相手にとって全力の勝負じゃない。それでお前の実力が本当に上達するか? ちょっと考えれば分かることだがな」
彼女は詰まった。確かにある意味で斎藤の言うことは当たっている。が、だからといってどうしろと言うのだ。いくらこっちが本気でも、相手が遊びのつもりを止めるとは限らない。第一遊んでいても強い奴は強いのだ。
「まあいい。今から来い」
「はあ!?」
洋子は、思わず相手の顔を凝視した。
「怠けてるんじゃないかと思って来たら案の状だ。ここの道場で叩きのめされるのと今から出かけて稽古するのと、どちらか選べ」
最悪の二者択一だな、と頭を抱え込む。その様子を見て(ある意味無視して)、斎藤は彼女を連れだした。
一応事前に弥九郎の許可は取っていたらしい。誰にも咎められることなく、洋子は道場の外に出た。と言っても、問答無用で連れ出されたに等しいのだが。
「痛い痛い。そんなに引っ張らなくてもいいじゃないですか」
片腕を強引に引っ張って連れていくため、かなり痛い。おまけに歩く速度も速いため、殆ど小走りでついていく羽目になっていた。相手は
「自業自得だ」
と応じたきり、どこまで連れていくのか説明もない。よほど逃げようかとも思ったが、捕まれた腕がびくともしないので諦めた。そうこうしているうちに、ある林の中に入る。
「ここだ」
と、いきなり斎藤は手を離した。倒れそうになったのをやっと踏みこらえ、洋子は斎藤の方を不満そうに見やる。
「怠けてたらぶっ叩くと、言っただろうが。俺は現場は見てないが、お前が怠けてるのは分かる。だから稽古つけてやろうとしてるんだ」
「そう言うのが余計なお世話だって言うんです。わざわざ人の道場に来て、言うことはそれですか。いい加減に…キャ!」
斎藤が腰の刀を抜き、いきなり斬りかかったのだ。洋子もまだ一度も使ったことのない自分の刀を咄嗟に抜いた。甲高い金属音がする。
「言いたいことは、その剣で言え」
洋子は無論、真剣など初めてだ。緊張して動けない隙をついて、相手は斬りこんできた。
反射的に受け止め、跳ね返す。この人なら私を殺しかねないという思いが、彼女を必死にさせていた。僅かな隙が、文字通りの命取りになりかねない。
攻める余裕などない。相手の斬撃の鋭さ、体勢の立て直しの速さから言って、攻めに転じようとした途端に一瞬の隙をつかれて殺されかねない。間合いを確保しつつ、やっとの事で一合ごとに受け止める。ついていくのがやっとで、先読みなど不可能だった。
息が荒い。初春の日射しは洋子にとって既に暑く、汗が顔から滝のように流れ落ちている。互いに離れた瞬間、更に間合いを空けながら彼女は素早く汗を拭った。目に入れば殺される。だがその間に、斎藤は開いた間合いを詰めてきた。
「!!」
体勢をやや崩しながらも受け止め、そのまま停止する。押し切られないように腕に力を込めた。肩で息をし、腕が震えている。相手の力が緩んだのを見て押し返した。
「くっ」
いったん離れ、再び斬り結ぶ。洋子は体勢を立て直すのがやっとだった。
汗の滴が飛び散り、甲高い金属音が林全体に鳴り響く。その合数は既に百に達していた。
「そろそろ終わらせるか」
斎藤が呟き、次の一撃で彼女の刀を跳ね飛ばす。その瞬間、咄嗟に死を覚悟して目を閉じた。──何も起きない。
「阿呆が。いくら俺でも殺す気はない」
と、斎藤は言った。恐る恐る目を開ける。
「いずれにしても、お前がいかにこの数日怠けていたか分かっただろう」
悔しいが否定できない。いざとなればあれほどの剣技が出来るのだと、自分で証明してしまったのだ。それが目的だったかと唇を噛む。
「遊びのつもりで来る奴は叩きのめせ。本気の奴だけまともに相手しろ。それで嫌われるようなら、あそこにいるな」
刀を鞘に納めながら、彼は厳しく言った。
「帰ったか。お洋さん、師匠は何と?」
午後から忙しい、というので斎藤とは途中で別れ、洋子は一人だけ練兵館に帰ってきた。弥九郎に帰還の報告をする。
「遊びのつもりで来る奴は叩きのめせ、だそうです。……しかしまあ……」
ため息が出る。何のつもりであいつが来たのかさえ、掴みかねていた。
「──彼は明日、江戸を出るそうだよ」
と、弥九郎が告げた。洋子がそんな話は言わなかった、と言うと
「そういう若者なんだ」
彼女は黙りこんでしまった。またため息をついて
「──戻っていいですか」
相手が頷いたのを見て、立ち上がった。