るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の七 二つの再会(3)

 洋子が土方と剣心に再会して数日経った。剣心は洋子の稽古場にはまだ一度も姿を見せていないし、試衛館での仲間たちも未だに接触してこない。結局あれから事態は何も動いていないのだ。別に彼女としてはそれで困ることもないので、相変わらず葵屋に泊まっている。本当は手伝いでもするべきなのだろうが、何故か皆がやらせてくれないので完全に客人待遇だ。
「まあいいや、なるようになるわ」
とは言え、出来れば斎藤に直接出くわすのは避けたい。そこで稽古場への往復の道順を毎日変え、しかも京都に来たばかりの者は知らない裏道をよく使う。御用盗や女に絡んでくる浪士の退治も、以前のように回り道してまですることはなくなった。
「時々はやらないと、上達の程が分からないから」
と、道順を決めるのに協力してくれるお増には言っている。確かに以前に比べたら帰る時間は早くなっているので、実際まっすぐ帰ってきてはいるのだろう。
 洋子としては、この年七月下旬の時点で自分から動く気は毛頭なかった。

 一方、翁たちは新撰組と彼女の関係でいくつか動きを察していた。
「ほう、静姫の稽古場の洗い出しをな」
そのために、出来上がったばかりの監察部を使って聞き込みを始めているそうだ。更に言うなら、この件には芹沢一派は全く関与していないという。
「となると、いよいよ元試衛館の連中が動き出したということじゃな」
「ええ。それはそうと京都守護職の方はどうなりました?」
この場合、『京都守護職の方』とは現在の新撰組筆頭局長・芹沢鴨暗殺許可のための裏工作、の意味である。
「ああ、そっちは大丈夫じゃよ。先日の大坂くだりで、鴨は随分評判を下げたらしいからのう。遠からずご沙汰が下ろうて」
七月中旬に新撰組は京都守護職の命令で大坂に下ったのだが、その時芹沢は『大坂天満橋事件』を起こしてそれが京都守護職・松平容保の心証を害したのだ。だからそう遠くないうちに近藤たちに密命が下るだろうと言うのが、翁の台詞の裏にある。
「それで、新撰組の方はどうします?」
「少し妨害するくらいがちょうど良かろう。まだ条件は満たしとらん」
その指示がとんでもない結果を生むことになるとは、この時誰も予想していなかった。

 旧暦八月は、今の九月から十月上旬に相当する。さすがに京都独特の酷暑も和らぎ、朝夕は涼しさを感じるようになった。その初旬、洋子はいつものように稽古場に行った。
《どうもつけられてるような気がするわ、あいつに》
気配を隠そうともせず、しかし姿は絶対に見せないようにしながら、そいつはつけてくる。それも葵屋を出てからずっとだ。
『──気づかないとでも思ってるのかしら、私が』
或いは彼女が気づくかどうかを試しているのか。かなりバカにされた試験だが、そいつなら平気でやりかねない。その人物の性格からして後者の方の可能性がかなり高く、おまけにその場合問題はお互いに正対した後だ。どういうつもりか予測がつかない。
『おまけにどこでやるかよね。町中でやってもいいけど、下手するととんでもない事態になりそうだし。ったく…』
少々頭痛を感じながら、洋子は脇道に入った。最近よく使う「裏道」の一つだ。 人通りはがたんと減る。もしそいつがつけて来るにしても、この道だとすぐに気配が分かるので何らかの対応を取らざるを得ない。案の定、その人物は気配を消した。
 いや、正確には完全に消したとは言えない。常人なら決して気づかないが洋子程度の使い手ならどうにか分かる程度の、微かな気配を感じさせながらつけてくるのだ。
『完全に挑発してるわね、あいつ』
いっそ無視して稽古場に行こうか、とも考える。しかし行った先で先方がどういう手に出るかも問題な上、その稽古場そのものが本来葵屋の関係者の持つ竹林である。当然事件が起これば葵屋に迷惑がかかる。それは避けたい。
『こうなったら撒くしかないわ』
洋子はそう結論づけ、そのまま別の大通りに出た。

 京都の地理には自信がある。洋子は追う側の気配に十分注意を払いながら、抜け道や店の裏口、大通りの人混みなどを利用して京都市内のあちこちを歩いていた。いくら相手の気配が感じられないからと言って、油断は出来ない。そいつは本気になれば完全に気配を消せるからだ。また、かえって人混みの方が襲われる心配の少ない分だけ安心できる面もあるので、脇道にばかりいることは少ない。同じ所を回ったと思えば寺社仏閣の出入り口を活用していきなり大通りに出るなど、かなり変則的に動いている。
 そんなこんなで正午頃、洋子は食堂に入った。今のところ今朝からつけてきた者の気配は感じられない。取りあえずおかずと水を頼み、葵屋で作って貰ったおにぎりとで昼食を取る。相手の姿も見えないまま食べ終わりかけた頃、最近の京都ではつきものの騒ぎがやや離れたところで起きた。諸国からの浪士たちとのそれである。

 何やら聞き慣れない言葉とともに、机を叩く音がした。何事かと思って見てみると、薩摩藩士数人が騒いでいる。が、薩摩弁丸出しのために何について怒っているのかよく聞き取れない。店の主人が出てきて土下座したが、お互い京都弁と薩摩弁のため意志の疎通が出来ずにいるようで、ついに薩摩藩士の一人が刀を抜いた。示現流独特の構えを取る。
「ギャアッ!」
奇妙な叫び声とともに、机を一振りで真っ二つにしてのける。この場合、刀が人間に向けられなかった分ましと言うべきだろう。人間だったら即死である。
 ひええ、と震え上がって一そう頭を深く下げる店主をほとんど無視して、その薩摩藩士はやたらと刀を振り回し、周囲に斬りつけた。茶碗や皿が割れて周囲に散乱し、両断された机や椅子の破片が飛んでくる。ついには叫び声が聞こえて肉を斬る音がし、血が流れて床に赤い斑点ができた。これは助けるべきか無視するべきかと悩みながら食事する洋子の方に、とうとうその薩摩藩士が向かってくる。
「やれやれ」
ため息とともに彼女は立ち上がって横によけ、突進してくる相手の足を軽く払った。もんどり打って転倒し、脳震盪を起こしたところでその後首部を軽く打って気絶させる。時間にして数秒の早業だった。
「大丈夫ですか?」
洋子は傷を負った従業員に近づきながら問いかける。腕をやられたようで、傷口を押さえている手から血が溢れてきている。
「ここ食堂だから、焼酎くらいあるでしょう。あと布巾。それで応急処置して、同時に誰かが医者を呼んでくる。急いで下さい」
「あ、はい!」
呆気に取られていた周囲の者は、慌ただしく動き出した。

 医者に治療をさせている間に、洋子はさっきの薩摩藩士を縛り上げて店の外に出しておいた。薩摩藩士は見ただけでそれと分かるので、誰かが拾いに来るだろうと考えていたのである。そして食事を再開する。
「こんにちは、洋子さん」
程なくひどく親しげな声がかかり、その聞き覚えのある響きに思わず警戒を強めた瞬間
   トン 
さっき彼女自身がやったように後首部を打たれ、あっけなく気絶する。
「この阿呆が。手間をかけさせやがって」
食卓の上に顔を突っ伏している洋子を見下ろしての斎藤一の台詞に、沖田総司は苦笑した。実をいうと今朝から洋子をつけてきたのはこの二人で、沖田の方は完全に気配を消していたため気づかれなかったのである。
「あ、その言い方は酷ですよ。──それはそうと、これからどうします?」
「手筈通りさ。君が葵屋とやらいう旅館に行って事後通告、俺がこの阿呆を抱えて屯所に行く。それが一番だろう」
「はーい」
沖田はそう言って、一足先に店を出た。一息ついて斎藤が洋子を背負い、店を出て反対側に歩いていく。ほどなく店の奥から主人が出てきて薩摩藩士を止めた少年に礼を言おうとしたが、当の本人はどこにも見あたらなかった。

 葵屋の前まで来た沖田は、ほうきではわいている中年男性を見つけた。長い顎髭に白いものがうっすらと混じっており、恐らくこの店の主人だろうと思わせた。
「あのう、少しお話があるんですが。構いませんか?」
遠慮がちに訊く。その男性は沖田を見やって
「静姫なら、外出中ですが」
「ええ。実はさっき、こちらで引き取りました」
翁は驚愕の表情で、微笑した目の前の青年を見た。まさか向こうが自分たちの頭越しで洋子に直接接触してくるとは、思っても見なかったのだ。芹沢鴨を暗殺するという約束もまだ果たしてはいない。そう言おうとした彼に
「約束は、そう遠くないうちに果たせると思います。でも、彼女は僕たちにとって個人的に大切な存在であって、諜報組織間の権力争いの道具じゃないんです」
翁は目を見張った。闇乃武との不和を、この新参者たちはいつ聞きつけたのか。
「彼女をモノ扱いするような輩との約束を、守る必要はない……そう、土方さんが言ってました」
沖田は相手に隙を見せないようにしながら、簡潔に語った。
 闇乃武と御庭番衆の不和は、実は近藤が京都守護職松平容保に対面した際に示唆されたことなのだ。芹沢の暗殺についての示唆の後、『組織の諜報網は、自前で持っていた方がよい。他人に頼ると相対立する情報が入ってきて、かえって混乱する』と。
「そういうわけで、荷物を引き取りに来たんです。以後こっちで彼女は保護しますから」
「──分かりました」
翁は息をついた。新撰組と全面戦争するわけにも行かない以上、裏事情を知られたとなっては諦めるしかない。むしろそれらを承知の上で協力関係を築いた方が得策だ。
「保護についてはそちらに任せます。ただ、荷物は彼女自身にお渡ししたい。こちらで保管しておきますので、数日中に一度こちらに戻って来られるようにお伝え願いたい」
「承知いたしました」
差し当たってこちらの話はついた、と沖田はほっとした。残る問題は本人の説得だが、まあどうにかなるだろう。

 当の洋子は、芹沢たちがいないのを確認した上で屯所の一室に隔離された。とは言え下手に一人にしておくと後で大変な事態になりそうなので斎藤がそのままついている。畳の上に直接寝せたのは、彼女の意識回復を早めるためだ。
 案の定、そう待たないうちに洋子は目覚めた。すぐに起きて斎藤を見つけ、露骨に嫌そうな表情をする。口を開いて言うには
「私一人を連れ込むのに、沖田さんの手まで借りなきゃ行けなかったんですか」
「正確に言うと、沖田君が俺の手を借りたんだがな」
それはそうだろうな、と洋子も納得する。この男が自分から私を引き取りに動くなど万が一にもあり得ない。
「だったら、何で手を貸したんですか。土方さんに言ったでしょう、行かないって」
「この阿呆が」
訊いた口調もきつかったが、答え代わりに吐き捨てた台詞もかなりきついものだった。
「いいか、お前が泊まってた葵屋、あれは御庭番衆の京都探索方の本拠地だ。そこにそういつまでもいたらどうなるか、分かるだろうが。過去に襲われた身で」
洋子の表情がさーっと変わる。そうだとすれば、いくつか思い当たる節はあった。
 男装をしていた自分を女性だと気づいたのも隠密の能力からだろうし、その後の待遇も『旗本の娘』に対するものだとすれば納得がいく。そして葵屋が御庭番衆の京都探索方の本拠地だとすれば、危険度は新撰組にいるのと実質的に大差ない。そう考えると沖田が心配して動いたのは納得できるのだ。だが斎藤までが動く理由がさっぱり分からない。
「別に、沖田さんへの義理で厄介者を連れ込まなくてもいいでしょうに。稽古の邪魔なんでしょう、私がいたら」
「確かに邪魔だが、他人に取られるのはごめんだからな」
洋子は思わず目を丸くした。斎藤の口からそんな台詞を聞くとは思っていなかったのだ。
「第一、あのとき俺たちが出なかったら今頃お前はあの薩摩藩士に逆恨みで殺されてるかもしれんのだ。偉そうなこと言えた義理か」
「──」
確かにそうなのだ。示現流の初太刀を食らえば確実に即死だし、本気になったそれをかわせるほどの実力がないことは彼女自身承知している。
「取りあえずお前はこっちにいろ。師匠としての命令だ」
「こういう時だけ師匠面しないで下さいよ。虐めてるだけでしょうが」
一瞬後、竹刀をまともに食らって卒倒している洋子の姿があった。

 やがて沖田が帰ってきて、葵屋での交渉結果を説明する。聞きながら洋子は天を仰いでしまった。まさかこういう事態になるとは予想していなかったのだ。
「僕が言ったら怒るかも知れないけど、こうなったら諦めも必要だと思うよ。みんな君のことを心配してるんだ。妙な人たちと付き合ってるから」
「心配してますかねえ」
疑うような目で相手を見やる。
「そうだよ。素直に表現できない人もいるけど、ああいう事情を知ったら江戸に戻すわけにも行かないし、僕らで面倒見るしかないじゃないか」
葵屋の主人が自分の正体を土方さんにたやすく喋ったのがもともとの原因だ、と沖田は考えている。御庭番衆の根拠地ともなれば決して安全ではあり得ないし、江戸に帰れば帰ったで危険が待っているとすれば、自分たちで保護するのが最も確実である。そう判断すれば、あとは行動あるのみだ。
「本当はね、君の稽古場を探し出して待ち伏せするつもりだったんだ。でも向こうが情報を回してくれないから、それなら実力行使しかないなと」
その結果があれか、と洋子は苦々しく思う。しかし冷静になってみると、沖田がつけてきたことに全く気づかなかった自分が身の安全についてどうこう言える立場ではないとも思うのであり、不満ながらも現状を受け入れざるを得なかった。
「──分かりました」
洋子はそう、短く言った。