るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十二 四つの死(1)

 慶応三年五月下旬。監察たちの控え室で、洋子は頭を下げた。
「今からちょっと出かけるんで、済みませんが後はよろしくお願いします」
「はい、分かりました」
吉村に見送られ、部屋を出た。

 梅雨時でもあり、空は曇っている。道端に水たまりが出来ている中を、羽織袴姿で大小を腰にさした洋子は歩いていた。屯所にいるときから制服は着ていないが、これは監察方として活動するときの常であり、誰からも咎められることはない。監察にあっては、制服は新撰組での儀式の時にのみ着ればいいものなのだ。
 しばらく歩いていた彼女はある店の前で立ち止まり、のれんの奥を覗いてから中に入る。とある人物の前まで来て、一声かけるとその目の前に腰を下ろした。
「今日は、普通の格好だな」
その相手は、洋子の方をチラリと見てそう言った。言われた側は不機嫌そうに、小声で
「監察方の服装に、普通も何もないと思うんですけど。必要なときに必要な服装をする、それのどこがいけないんですか」
「大道芸人だか歌舞伎役者だかの服装がそこで何故必要なんだ、阿呆」
次の瞬間、彼女はいきなりキレた。
「ちょっと振り袖着ただけじゃないですか、感づかれないように! それを斎藤さんが言うに事欠いて大道芸呼ばわりしてるだけでしょうが!!」
   バキッ!!
「やかましい、怒鳴るな阿呆。大体、何度喧嘩禁止と言ったら分かるんだ」
「だから前の時は振り袖着て行ったんです、喧嘩騒ぎせずに済むように! なのに斎藤さん、いきなり背中から突いてくるし」
洋子が更に言いかけたのを一撃叩き込んでさえぎり、相手は応じた。
「俺からすれば、振り袖着たら何もせんと思ってるお前の思考回路が理解できん。お前が阿呆で同じこと何度も繰り返すからぶっ叩くんだ」
「とか何とか言って、前は私が何もしてないのに刺突食らわしましたよね、斎藤さんは」
沈黙が流れた瞬間を見計らっていたかのように、店員が声をかける。
「あの、お二方とも、ご注文の方は──」
言われてようやく自分の居場所を思い出したらしい洋子は、急いで周囲を見回した。それを横目で見やりつつ、斎藤は
「かけそばだ」
「天丼ありますか? あったらそれで」
続いて彼女も言った。立ち去る店員を見送って視線を戻すと、斎藤が紙を机の中央に置いたところである。無言で一礼し、さっとその紙を取って懐に収めた。

 監察方の一員としての洋子の最大の任務は、斎藤との繋ぎ、及び、それを通じた御陵衛士たちの動向の情報収集である。実のところ、斎藤からの情報を受け取る手段はいくらでもあるだろうと彼女は思うのだが、先方にはその気がないようで、この数ヶ月間ずっと、直接会っては情報を記した紙を渡されるという『原始的な』やり方で来ている。
 とは言え、二人が前にいつどこで会ったか、また次にいつどこで会うか、正確なところはお互いしか知らない。紙を渡す土方にも言っていない。要するに完全な密会なので、特に伊東派の誰かにばれたら最期である。従って喧嘩は人目を引くので禁止なのだが、会うとなればせずにはおれない二人であった。
 今日の喧嘩の種は六日前、前回会ったときに起きた。直接会うことが続くと気づかれやすくなるからと、変装のつもりで友禅染の振り袖(土方に掛け合って新撰組の経費から半額援助して貰ったもの)を着て待っていた洋子に、遅れて来た斎藤がいきなり無言で背中から鞘ごと刺突を食らわせたのだ。それだけならまだしも、この悪人面の青年は、倒れ込んで激痛に呻いていた少女に「何を大道芸やってるんだ、この阿呆」と言ったから、彼女は完全にキレてしまった。それが今もくすぶっているのである。
「で、他の監察たちとはどうなんだ」
かけそばを食べつつ、斎藤は訊いた。
「別に、相変わらずですよ。皆さん忙しいみたいで」
私も忙しいんですけど、と付け加える。師範の仕事は続けてますからと。
「うまくやれてるか?」
「ええ。どうにかこうにか」
頷いた洋子は、手ぬぐいで額を押さえた。梅雨時ともなれば、天丼などを食べていると汗が噴き出てくるのである。そして拭き終わったあと、彼女が物言いたげに黙っているのに斎藤は気づいた。
「どうした」
「──中村君が、そっちに行ってませんか?」
なおも少し躊躇った挙げ句、洋子はそう口に出した。
「中村というと、中村五郎のことか?」
「ええ。二年前に土方さんたちが江戸で隊士を募集したときに応募してきた──って、その時斎藤さんも江戸に下ってますよね。彼のことですよ」
中村五郎、十九歳。年齢不詳ということになっている洋子を除けば、新撰組の中で最も若い年代に属する。また同じく伊東から古典を習っていた人物でもあり、彼女とは比較的親しかった。三月の伊東派の分離の時は新撰組に残ったが、伊東が新撰組の動向を探るために敢えて数人ほどを残したという話もあり、監察方では密かに警戒していたのだ。
「その中村君が、どうかしたのか?」
「どうも、幕府の直参になりたくないらしいんです。そのことでそっちに来てないかと思いまして。──もともと伊東先生に心酔してましたからね、彼は」
「──少なくとも中村君は来ていないが…」
斎藤は言いよどみ、蕎麦を口に入れた。
 中村は確かに来ていないが、どうやら伊東道場出身で分離時には新撰組に残った佐野七五三之助が、伊東たちと頻繁に会っている様子なのである。特に五月に入ってからは三日ごとと言っていいほどで、斎藤はさほど夜の会合には付き合わないのでそうでもないが、藤堂などは身が持たないと冗談交じりに言っていた。
 実はその付近のことは既に土方には報告済みで、洋子も渡される紙を見ていれば分かっているはずである。だがさっきからの彼女の言動からして、どうやら今まで見ていないのは間違いなさそうだった。
「そう言えば、佐野君はちょくちょく伊東先生と会ってるらしいな」
思い出した風を装って口に出す。洋子はやっぱり、といった顔で
「そうですか、分かりました。──これからどうします?」
話題を変えてきた。食べ終わっていた斎藤は箸を置くと
「取りあえず、お前が食い終わってからだ。──例の竹林にでも行くか」
思わず顔をしかめる洋子に、平然と
「貴様が稽古を怠けてないか、調べてやるんだ。感謝しろ」
「別に調べて貰わなくても、怠けてませんよ」
応じて言ったあと、ため息をもらした。

 「ふむ」
その日の夕方、副長室で。洋子は土方に斎藤からの手紙を渡した。
「で、先方は何と言っていた」
「特別には何も」
「そうか、分かった」
会話はそれだけだった。洋子は一礼し、部屋を出る。それから土方は手紙を開いて読むのだ。最初の頃は土方が手紙を開くまで確認しようとしていた彼女だったが、彼は「後で読む」と言って自分の前では決して開けようとしなかった。加えて常に会話が二言三言だから、当然ながら斎藤とどういう形で連絡を取っているのかも全く訊いてこない。そして実のところ、これが土方流らしいのだ。ある意味で気が楽である。
 不満というか希望があるとすれば、手紙の中身を教えてくれてもいいだろうということである。預かっている間に自分で見ればいいのだが、他人宛の手紙を本人の許可なく見るのは悪いことだと教えられた洋子としては、やはり土方から内容を聞きたかった。
 監察室に戻って挨拶した彼女は、家に帰ろうと廊下を歩いていた。
「天城先生」
呼び止める声がする。そちらを見ると、中村五郎が立っていた。
「中村君か、どうかした?」
相手は少し躊躇った後、切り出した。
「今から、一手お教え願えませんか」
「今から?」
目を瞬かせて訊く。もう夕方、伍長以上の幹部は帰り始めており、道場には殆ど誰もいないはずの時間である。おまけに今日は斎藤と真剣勝負よりたちの悪い稽古を一刻以上に渡ってやっており、今更木刀など持ちたくない。
「今日はもう遅いし、明日の朝一番はダメかな。お夢が心配するし」
「──先生のご希望とあれば」
その声が心なしか不満げに聞こえたので、洋子は謝った。
「ゴメンね。私ももう少し早く戻ってればよかったんだけど、監察の仕事があって」
「いいえ。こちらこそいきなりの申し出、申し訳ありません」
「そっちはいいよ。──じゃ、明日の朝一番ね」
中村が頷いたので、洋子は再び歩き始めた。
 その様子を、土方は自室の襖を指二本分ほど開けて見ていた。

 翌朝、道場に来た洋子は、完全装備の中村が監察仲間の島田魁と話しているのを見た。
「ああ、もう来てたんだ。遅れてごめん」
じゃあ早速やろうか、と木刀を取りに行きつつ言う。中村が
「今、そのことで島田先生と話していたところなんですよ。無謀だとか何とか、非道い言われようで。天城先生の方から言い返してくれません?」
「おいおい、中村君。俺はただ単に、天城先生の稽古はきついからやめた方がいいって言っただけだが。誤解しないでくれよ」
「──ま、何事も経験だからね。多少きつい方が腕は上がるし」
洋子は木刀を二本持ってきて応じ、一本を中村に渡した。島田がそれを見て
「俺が審判しましょうか、天城先生」
「──いいけど、仕事の方は大丈夫? 確か昨日は宿直だったよね」
「会議の方はまだですから大丈夫です。それに」
近づいてきた島田は、彼女の前で囁くように
「これは、副長の命令でして。中村の様子を見るようにとの」
「──分かった」
副長の命令というだけでピンときた洋子は小声で応じ、中村の方をチラリと見た。それから自分の頭より高い位置にある相手の肩を軽く叩いて
「じゃあ、島田君。審判よろしく」
と中村に聞こえるように声をかけ、そのまま稽古するときの位置に向かう。
 互いに正対し、身構えた。島田の太い声が響く。
「天城洋対中村五郎、はじめ!」

 

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