数秒、洋子は無形の位、中村は青眼で身構えたまま、動かなかった。
「逆牙突は、出さないんですか」
「変化に応じて出すよ。攻めてきたらいい」
言い終わる間もなく、中村が突進してくる。尋常ではない気迫を感じつつ最初の一合を受け止めた洋子は、その瞬間に相手の瞳を見た。面を通して見えたのは、実戦以上の気合いがこもった瞳、鬼気迫る形相である。
『これは…』
洋子は本気になる必要を感じた。自分が受け止めた木刀で押してくるのを、刀をずらして相手の体勢を崩し、次の瞬間その肩に袈裟斬りを叩き込もうとするが、中村も辛うじて反応し、木刀同士の衝突音が響き渡る。目が合ったまま数秒押し合いつつ、相手が体勢を立て直そうとして気を緩めた一瞬を洋子は見逃さなかった。
ドスッ!!
低いが大きな音と共に、彼の死角に下段からまともに刺突が入る。胴丸のために吹き飛びこそしなかったが、衝撃に耐えかねて二、三歩後退したとき
「一本!」
島田が宣言した。洋子の勝利である。
その頃には、道場に人が集まりだしていた。その中には当然、土方や沖田や永倉も混じっている。前の方で見ていた永倉に、土方は背後から声をかけた。
「永倉君、どう見る」
「どう見るもこう見るも、ひろ──違った、天城君が圧倒的に有利でしょう」
「それはそうだが、中村君の気合いの入り方が半端でないと思わないか」
永倉は一瞬黙って中村の方を見ると、こう応じた。
「確かに、稽古にしては気迫がこもってますな。──師範に自分から申し込んだんだから、そのせいもあると思いますがね」
「確かにな」
道場を見つめる土方の目の前で、洋子は二本目を取っていた。
三本目、双方ともに身構える。中村は下段、洋子は変わらず無形の位だった。
「最初から牙突で戦ってください」
肩で息をしつつ、中村は言った。真剣勝負のつもりで稽古しているのは、その相手が最もよく分かっている。気迫や刀の振り、勝敗に対するこだわりが全く違うのだ。多少無理な体勢からでも洋子の斬撃を受け止めようと木刀を走らせ、ともすれば剣術以外の技さえ使って勝とうとする。それでも牙突を正面切って出していない彼女に勝てないのだ。
「別にいいけど、結果は保障しないよ?」
洋子はそう応じた。相手の声が焦っているように聞こえたのである。
「構いません。──お願いします」
「そう。──分かった」
彼女は頷くと、腰を落として前屈みになり、引いた右手で持った刀を横に寝かせた。その刀の先端部に軽く左手を添える。逆牙突と呼ばれる、師匠とは左右逆の構えである。
両者を見やって島田が宣言した。
「では、三本目、開始!」
「行くよ」
低い声で言うなり、洋子は突進した。
さすがに最初の刺突はかわされたが、即座に横なぎに転じる。受け止めた中村の顔が歪むのが見て取れた。衝撃で手が痺れたらしく、木刀を持つ手に力が入らないようだ。その一瞬を突いて洋子は籠手を狙って攻撃し、受け止めようとした相手の刀を跳ね飛ばす。驚く間も与えずにそのまま懐に刺突を入れ、中村は数間飛んで壁に叩きつけられた。
「一本!」
島田が宣言した。一瞬しんとなった道場内だが、ひそひそ声が聞こえてくる。
「おい、今の見たか? さすが師範だ」
「中村君も弱くはないと思うが、天城先生はこの数ヶ月、更に強くなってきてるな」
その中を、動かない相手を起こしに、洋子は壁際まで歩いていく。手を差し出した。
「天城先生」
中村は、その手を取らずにうつむいていた。目の前にいる相手しか聞こえないような声で
「どうやったら、そんなに強くなれるんですか?」
単なる悔しさ以上の深い情念が、篭もっているように聞こえた。洋子は淡々と、こちらも小声で
「十歳の頃から、毎日気絶したり吹き飛ばされて庭に落ちたりの無茶苦茶な稽古やってれば、それなりの実力はつくと思うよ」
「──今からでは、挽回できませんか」
中村の声が、幾分平静さを取り戻している。
「剣の腕前なら、追いつけると思う。──ただ」
「ただ?」
顔を上げた相手の手を取り、引っ張って立たせる。そして一瞬間をおき
「稽古は半端でなくきついけどね」
言った後、にやりと笑って見せる。だがその脳裏には、別の言葉があった。
『剣腕と引き換えに失ったものも、色々あるんだけどね』
それから約一刻(二時間)後、師範として道場にいた洋子は島田に呼ばれた。ついて行くと別室である。襖を閉めて腰をおろし
「さっきの中村君の様子、天城先生としてはどうご覧になりますか」
単刀直入に訊いてきた。洋子は数秒思い出した後で
「どうも、必要以上に焦ってるような気がしたなあ」
「──というと、何か具体的な根拠でも?」
島田は鋭く訊いてくる。確かにそこは、実際に稽古した相手でないと分からないだろう。だが洋子は、この場ではごまかした。
「別にそれはないけど…。何となくそう感じただけだから」
「なるほど、相手の雰囲気がというわけですか」
「うん。そういう感じ」
頷いておいて、稽古場に戻るべく彼女は立ち上がった。歩きながらあることを決める。
夕方、道を歩いていた斎藤は立ち止まった。
「どうした、斎藤君」
「いえ、急用を思い出しまして。ちょっと失礼」
篠原の声に応じて一礼し、素早くその場を離れる。脇道に入って一つ角を曲がると
「おい阿呆。いきなり何の用だ、事前連絡もなしで」
「いいじゃないですか、折角こっちから出向いたってのに」
不満そうに、聞きなれた声が応じる。
洋子だった。私服を着て大小を帯び、塀に寄りかかっている。
「中村君と今朝、稽古しました」
歩きながら言う。どうやら斎藤は家に帰る途中らしい。
「で?」
「その時の様子が普通じゃなかったんです。最後には『牙突を出して欲しい』なんて言うし。こっちが二本既に取ってるのにですよ」
「──それで?」
「当然私が勝ったんですけど、その前後から焦ってる様子がありありで。負けた後も単なる悔しさ以上の──そう、自分の弱さを恨むような感じでした」
朝の中村の様子を思い出して、洋子は語った。
「多分今日の稽古自体、新撰組を抜けた後の刺客対策のつもりだったと思うんです。脱退すれば死、生き残るには刺客を倒すしかありませんから」
「でもってお前ごときに負けた、と。焦るのも無理ないな」
斎藤の台詞に、一度は頷いた彼女だったが
「その『ごとき』って言い方はないでしょう。正式に師範になったんですからね」
バシッ!!
「自惚れるな、この阿呆。今の一撃もかわせん分際で。大体、俺がいなくなったから人材不足で師範になれたんだろうが」
「──今の一撃、かなり本気でやったでしょう。しかもいきなり! 師範になったのは事実だし、あれくらいで叩かなくてもいいじゃないですか!」
バキッ!!!
「やかましい、怒鳴るな阿呆。大体敵から不意打ち食らって、そんな言い訳が通用するか」
「それとこれとは話が別です! そもそも私の言ったことに対する斎藤さんの反応が適切かどうかでしょう、今回の問題は!!」
バゴッ!!!
「怒鳴るなと言ったろうが、この阿呆は。──ったく」
気絶した洋子を肩に担ぎ、ため息をついて斎藤は歩き始めた。屯所だったら放っておくところだが、街中だけにぶっ倒れた彼女を放って勝手に帰るわけにも行かない。現状では気づいた後が怖いのだ。
それにしても、と斎藤は思った。中村たちは本気で新撰組を抜ける腹らしい。もともと彼らは伊東の命令で隊士として新撰組に残り、勤務しながらの諜報活動を続けているのだが、やはり近藤や土方などの佐幕派とは、思想的方向性が違いすぎてついて行けなかったようだ。しかし直参取り立て自体は前から予測されていたことでもあり、伊東自身も言い含めていたはずである。なのに何故、今頃になって彼らは抜けようとするのか。
『諜報活動をするには、純粋すぎたな』
転向したり裏切ったりすることのないよう、伊東は敢えて自分の思想に忠実な者を新撰組に残したのだろう。だが、彼の思想に忠実であるということは尊王攘夷、少なくとも反幕府的な思想を持つということであり、そういう思想の持ち主が幕府の直参になることを受け入れることは、理性ではそうしなければならないと分かっていても、感情や本能の面で難しい。そして中村や佐野といった一派は、恐らくそれを割り切るには純粋すぎた。
『だからと言って、こいつが心配するまでもないんだがな』
大通りからやや細い脇道に入り、肩に担いでいる洋子を見やって、斎藤は息をついた。気持ちは分からなくはないが、所詮は彼らが自分で決めることである。結果に関する責任も自分で取るだろう。そこに第三者が入り込む余地はない。
『と言いつつ、この阿呆に干渉してるのは俺か』
己の言行不一致に、苦笑するしかない。何のかんの言いつつ、洋子だけは特別で例外なのだ。本人も今は分かっているはずだが、その割に喧嘩は一向になくならない。
そこまで考えて、再び洋子を見やる。さっきから肩に担がれたまま、ピクリとも動かない。常ならばとっくに気づいているはずなのだ。舌打ちをして角を曲がり、一人でどうにか通れる程度の細道に入ると
ドサッ!
と、まるで荷物でも下ろすかのように彼女を投げ下ろした。
「いっったーー!」
「ったく、阿呆が。狸寝入りしやがって」
その声に、洋子は起き上がって座った姿勢のまま、不満そうに相手を見上げて応じた。
「狸寝入りだっていう証拠がどこにあるんですか、え?」
「その応答自体が証拠だ。本当に寝てたら俺の台詞以前の段階で一騒動だろう、いつもの貴様なら」
う、と彼女は詰まった。斎藤は嘲笑した後で
「それで、中村の話だが」
逆に切り出す。一瞬にして真面目な顔になった洋子に
「最悪の場合も、想定しておけ」
言い置いて背を向け、歩き始めた。