るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十六 暗殺(2)

 谷三十郎は、珍しく狼狽していた。
 何しろ相手は、若いとは言え剣術師範代を務めるような重要幹部である。事実上の伍長筆頭であり、なおかつ谷からみれば自分より新撰組の中枢に近い存在だ。このことが漏れて、粛正などの目に遭いでもしたらたまったものではなかった。
「どういう事情かよく知りませんけど、何も嫌だというのを無理に追い回さなくても、他にいい女が幾らでもいるでしょう。そっちに目を向けたらどうです?」
洋子は、店の奥に引っ込んでしまった女店員を見やってそう言った。その口調に嫌みを感じたらしい谷は
「だ、だだ、黙れ! 貴様などに──」
「ここで戦うのは構いませんけど、そうなれば私か貴方か少なくともどちらか、下手すれば両方が死にますよ」
さらりと言ってのける。この場合、お互いに隊士同士なので、局中法度がどこまで適用されるか疑問もあるが、『もし隊士が職務によらずして外部の者と争い、仕留めきらずに逃がした場合』には死刑という規則が新撰組にはある。これを適用されれば確かに互いの命に関わるのだ。そして彼我の実力からみて、短時間で確実に相手を仕留められるとは思えない。下手をすれば決闘で負ける可能性さえあった。
「──ちっ」
谷は舌打ちした。そしてくるりと背を向け、一言も言わずに立ち去る。
 ふう、と洋子は息をついた。女にうつつを抜かしている暇があったら、槍の修行や市中見回りでもしていたらどうなんです、と言いたい心理である。
 会津藩士で斎鬼鹿沼流の剣客だった高槻厳達が、緋村抜刀斎に殺されて間もなく二ヶ月になる。現れ方からして誰かの護衛だったとしか思えず、本来遊撃剣士である緋村が護衛を務めること自体が、その場であったことの重要さを物語っていた。恐らく長州側で動きがあったに違いなく、それを突き止めなければならないこの時期に、何を下らないことに時間と労力を費やしているのか。洋子はそう思い、不快だった。

 「お夢、ただいま!」
長屋の入り口を開けると、洋子はそう言った。
「あ、みそ汁出来てますよ。それと葵屋さんから新鮮な魚がたくさん入ったからってお裾分けが来て、刺身にしてます」
奥で帳簿を付けつつ、お夢が応じる。
「え、刺身があるの? やった!」
洋子が軽く歓声を上げる。だが次にお夢が言ったのは小言だった。
「だから早く食べないといけないのに、洋子さんいつもより遅く帰ってくるから」
「ごめんごめん。ちょっと巻き込まれてね」
「すぐ事件に首を突っ込みたがるんですから、洋子さんは」
愚痴るお夢をよそに、洋子はさっさと刺身皿にかぶせてある布をはがして食べ始めた。すでにみそ汁も注いであり、かなりの早業とは云えるだろう。
「あー、久しぶりの刺身はやっぱりおいしいわ」
斎藤が見たらぶっ叩きそうな能天気洋子が、ここにいた。

 翌日、洋子はいつも通りの時間に出勤した。部屋で予定を確認し、道場に向かう。角を曲がった途端、荒い声が聞こえた。
「次! かかってこんか、次!!」
斎藤ではない。大体、こんな早い時間に彼が来るはずもない。となると誰か、と思いつつ洋子は道場に入ろうとした。声の主の正体を見る。
「──なるほど」
谷三十郎が、平隊士相手に稽古していたのである。

 「どうも谷先生、お早いですね」
洋子は、すれ違いざまに平然とそう挨拶した。谷は横目でじろっと相手を見たが、
「遅いぞ、天城君」
と言うに留めた。そのまま木刀を取りに行き、戻ってきて庭におりる。つられるようにして他の隊士も半分ほどが庭におりた。そのまま稽古に入る。
 そうこうするうちに、他の幹部がやって来た。そして組長級以上が参加する朝の会議が済んだ後、巡察など他の仕事がない者は道場にやってくる。新撰組では、稽古そのものが仕事の一部なのである。
「おい、洋」
「はい?」
斎藤が珍しく庭に降りてきて、洋子を呼んだ。
「昨日、何か妙なことやらかさなかっただろうな」
小声で訊かれ、一瞬言葉に詰まったが、こう応じる。
「──別に何も…。何かありましたか?」
「詳しい話は後だ。隠し事はためにならんとだけ言っておく」
感づかれたか、と洋子は内心舌打ちした。

 「──だからか。朝の会議で谷さんが俺をじろじろ見てたのは」
屯所近くの料理屋である。昼食の席で斎藤はそう言った。
「折角こっちは何もなしで済ませるつもりだったのに、何でそう感づかれるようなことをするんですかね、谷先生は」
洋子は不満そうに口を尖らせた。さあな、と斎藤は応じておいて、思考を巡らせる。
 恐らく端から見れば、この阿呆と自分は一つに括られるのだろう。特に谷のような事情を知らない者から見れば、天城洋のやっていることについて斎藤が知らないはずがない、と思うらしい。──冗談じゃない、俺がこの阿呆にそうまで関わってやる義理はない。せいぜい命の危険がないようにしてやる程度で十分だ。
「ったく、傍迷惑な奴だな、お前も谷さんも」
本人としては呟いたつもりだったが、目の前の相手には聞こえていたらしい。
「何でそこで私が傍迷惑になるんですか!」
「阿呆、元はといえばお前が他人の色恋沙汰に干渉したりするからだ」
「だからそれは…!」
「分かってるから静かにしろ」
確かに、洋子のその時の行動は正しいのだ。それにこれ以上、事態が大きくなることもあるまい。取りあえず今日はここまでにしておくか、と斎藤は思った。

 洋子はため息をついた。斎藤の、相変わらずの干渉ぶりである。
 この場合、直接の干渉と言うより情報収集なのだが、いずれにしても彼女としては不安であり不満だった。──半分以上は、谷に向けたそれなのだが。
『たかがあれくらいでいちいち反応してたら、私と斎藤さんの関係なんかとっくに終わってるわよ。それも何で私でなくて斎藤さんをじろじろ見るのよ。当事者は私なんだし、私と斎藤さんの関係なんて普段見せてる以上のものじゃないんだから、こっちから進んで教えるなんてあり得ないのに』
 そしてもう一つの不安。斎藤の様子は、やはり洋子から見ておかしかった。
 はっきり言って、あれだけ長い時間さしで喋っていて、斎藤が自分に全く手を出さなかったこと自体が普通ではない。──そういう関係自体が他人から見ればおかしいのかもしれないが、とにかく二人の関係はそういうものであり、そうでない方が不自然なのだ。或いは、やっと一人前に認めてもらえるようになったということなのかも知れないが、それにしても奇妙である。
「──斎藤さん、何かあるのかな」
ふと呟いた。いくら好きではない相手でも師匠兼上司である以上、気にはなる。ただ、当の本人に確認しようという気は決して起きないのだ。どうせ真面目に答える男ではない。
「ちょっと調べてみるか」
そう言えば、葵屋にもしばらく行っていなかった。挨拶がてら行くか、と洋子は思い、早速その日の夕方に行くことにした。

 「あ、洋さん。お夢さん、来てますよ」
「どこにいます?」
仕事を頼むのに、何もお礼をしないのは礼儀に反するだろう。普通に頼んでは受け取ってくれない可能性もあり、洋子はその日の夕食を葵屋で食べることにして、食事代ということでお礼をすることにしたのである。お夢を呼んだのはそのためだ。
 お夢の待っている部屋の前で、洋子は案内してくれたお増に手紙を渡した。
「ちょっとこれを──ここの主人に」
翁に、と言わなかったのは、他にも客がいたからである。それぞれ部屋にいるのだが、誰かが聞いていないとも限らない。
「はい、分かりました」
お増は一瞬真剣な顔になったが、すぐに笑顔に戻って受け取った。懐に手紙をすっと入れ、部屋の襖を開ける。
「あ、洋子さん。どうしたんです、今日は急に」
まだ料理は来ていない。お夢の問いに、洋子は手を振って
「いえね、いつもここから魚とかお菓子とか貰ってるから、たまにはお礼もかねて食べに行こうと思って。それに、お夢もいつも家事ばっかりで大変だろうから」
「なんだ、そうなんですか。それにしても寺子屋に人を寄越さなくてもいいじゃないですか。洋子さんに何かあったかと思って、一瞬心配したんですよ」
お夢に向かい合って腰を下ろしながら、洋子は応じた。
「ごめんごめん。急に思い立ったもんだから」
「また伊東さんに何か言われたんでしょう」
洋子が何かいいことをする時は、大抵参謀の伊東甲子太郎の講義でいい話を聞いた時なのだ。和歌を作ってみたり、お夢にみやげ物を買っていったり。逆に家で刀を振り回したり苛ついていたりするときは、ほぼ斎藤が原因である。
 そこに料理が運ばれてくる。扉が開いたとき、洋子はある声を聞いた。
 声は複数。薩摩訛りの強いのと弱いのが混ざった声のする中で、聞き覚えのある声があった。──この声は──?
「谷先生の槍術に、叶う者はいないでしょう」
「そう誉めてくれるな。驕りが出る」
その声は、谷三十郎の声によく似ていた──。