るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十一 分離(1)

 新撰組が幕府の直参になる、という話を、洋子は噂として聞いた。
「本当ならすごい話ですよ」
教えてくれた平隊士は興奮気味に言ったものだが、彼女はさほど興味を示さなかった。
「ふーん…。そう」
と応じたきり、他の隊士の指導に戻る。教えた側は納得がいかない様子で
「どうしてそんなに平気なんですか?」
詰め寄ってくる。別の相手の踏み込みを受け止めながら、洋子は言った。
「だって、ただの噂だし」
視線を巡らし、道場にいる自分の師匠を見やる。
「直参になったからって、斎藤さんとの喧嘩が減るわけでもないだろうからね」
 慶応二年も末の、ある日のことだった。

 一方、伊東甲子太郎たちはこの噂に色めき立っていた。
「本当かどうか、確認せねばなりますまい」
弟の鈴木三木三郎が深刻な表情で言う。
「第一これは、新撰組の行く末にも関わる重要なこと。それを伊東先生に一言の相談もなしに決めるとは、信義に関わりますぞ」
服部武雄が続いて言った。事によっては刺し違える、といった顔である。
「ま、何にしても近藤局長に確認するべきだろうな」
篠原泰之進が、落ち着いた、のんびりしたとさえ言える声で言う。伊東はその声で微笑し
「諸君、私が近藤先生に真意を問いただしてみる。それまで軽挙妄動はくれぐれも慎むように」
「──事実だった場合は?」
弟の声に、静かに応じる。
「最悪の事態も、想定しておいてくれ」

 「近藤先生」
と、伊東は口に出した。夜、場所は近藤の妾の家だ。土方の姿はない。
「噂として小耳に挟んだのですが、近々新撰組の隊士が幕府の直参に取り立てられるとか。本当でしょうか?」
近藤は言葉に詰まった様子で、数秒黙り込んだ。そして
「小笠原殿のたっての勧めでな。そうした方がやりやすかろう、と言うのだ」
「やりやすい、とは?」
「恐らく隊の統率上のことだろう。浪士組のままでは不穏な分子や敵の間者も入り込みやすく、いざとなった時に動けぬでは困ると」
まあ、それだけ幕府にとって新撰組が不可欠な存在になりつつあるということだと近藤は言った。しかし伊東は
「何故、もっと早く我々に相談してくださらなかったのですか?」
こういうことは、一朝一夕で出てくる話ではない。厳しい口調で問われ、近藤は一瞬詰まった。
「この件には、幕府内でも反対するものが多くてな。与力就任を断ったのだから今更取り立てる必要はないという者、私だけを直参にする案、組長などの幹部達までを直参にする案などが出て、正式に提案があったのはつい先日のことだ。先方の意向にこちらが口出し出来るはずもないし、妙な期待を持たせてウソだとなれば失望も大きい」
「しかしそれにしても、その時すぐにご相談いただければ…」
「その点については申し訳ない」
近藤は頭を下げた。そこに妾が酒を持ってくる。

 受け入れられない、と伊東は思った。幕府の直参になど、なる気はない。
 伊東は尊王攘夷のためなら幕府など倒してもいいと思っており、佐幕派でもある近藤や土方とは、もともとその付近では折り合わなかった。それでも今までやって来られたのは、ともかく尊王攘夷という新撰組の最終目的では一致していたことと、新撰組が尊王志向の特に強い会津藩の御預であり、しかも浪士組という比較的自由な立場であったことによる。伊東はこの立場を利用して貴族たちの屋敷に遊説に行くことも多く、そのお陰で人脈も出来つつあった。
 それをどうするかはひとまず置くとしても、彼の思想的な立場として幕府直参の身分など受け入れられるものではない。恐らく近藤が自分から言わなかったのも、実はこの付近のことがあってだろう。
 だが、新撰組にあって隊を抜けることは死を意味する。古くからの知り合いのはずの総長の山南でさえ、かつてそれで切腹させられたのである。ならばいっそのこと…と伊東は思わぬでもなかったが、それより何とか穏便に隊を抜ける方策を考える方が先だった。彼には江戸から連れてきた者たちがおり、自分一人で行動を起こすわけにも行かなかったのである。

 程なく、その噂で新撰組の内部は持ちきりになる。単純に喜んでいる者が多い中で、第二次長州征伐の失敗以降の幕府の衰退ぶりから将来に不安を覚える者も中にはいた。真っ先に反発しそうだと思われた伊東は、表向き不気味なほど沈黙している。土方辺りは監察方を使って伊東の行動に関する情報収集に努めているに違いないが、具体的行動は何もなかった。
「幕府の直参、か…」
洋子の脳裏を、古い記憶がよぎった。
 何不自由なく、平和に暮らしていたあの日々。傷の絶えない日々を送ったり誰かに気絶するほど叩かれたりすることもなく、正式に婚姻する日を待っていた。まして自分が人を斬ることなど想像さえ出来なかった。ところが両親が相次いで病死し、そして…。
 慌ててその記憶を追い払う。あの夜のことなど、思い出したくもない。従兄弟の顔は相変わらず浮かばず、それだけは救いだった。
『二度とあんな世界に戻る気はない。あんな世界、何の魅力もない。ただ自己保身と謀略と裏切りがあるだけ。──けど…』
新撰組を、抜けるわけには行かなかった。病状の悪化している沖田のことも気がかりだったし、抜ければ死である。例外は負傷などでその隊士が半永久的に任務が遂行できない状況になった時に限られ、洋子は師範代である以上、わざとそういう状況になることは出来なかった。それに…
『どうしよう…』
彼女は本気で悩んでいた。平隊士の稽古相手をしながら、ため息が漏れる。
   バキッ!!!
「何をボーッとしてやがるんだ、特にここ最近。いい加減にしろ」
「──わざわざ庭まで下りてきて、やることはそれですか。別に仕事に支障が出てるわけでもなし、いいでしょうが」
「阿呆。お前が本気かどうかで平隊士どもの上達ぶりが違ってくる」
一瞬言葉に詰まった洋子を無視して、斎藤は背を向けた。一体何をしに来たんだ、と首を傾げると、その背中から
「さっさと結論を出せ。いつまでもうじうじ悩むな阿呆」
思い出したように、その声が降ってきた。洋子ははっとなって、道場に戻っていく相手の背を見やる。

 「いよいよだな」
ある料亭の一室で、二人の男が話し合っていた。
「──何かつかめましたか」
「ああ。向こうは我々の組織を抜ける気だ」
ほう、と一方の男は声を上げた。そして
「抜けるといっても、引き受け先は?」
「薩摩」
もう一方が短く応じる。更に続けて
「先方がいつ、どういう形でこっちに告げるか分からんが、表ざたにした時点で動いてくれ。向こうも意図までは問うまい」
「分かりました。しかし…」
「あいつのことなら、悪いようにはせん」
上役らしい男が先取りしたように言い、その場に微妙な沈黙が流れた。
「悪いようにはしない、ですか」
「ああ。──君の言いたいことは百も承知だ。しかしここは任せてもらう」
言われた側は黙ったまま、返事をしない。言った側は苦笑して
「これだけは約束する。君が心配しているようなことはしない」
「……分かりました」
最後にそう、短く言った。

「天城君、今夜あいてる?」
その年の師走。家茂死後、後継者の決まっていなかった十五代将軍にようやく徳川慶喜がなった直後。洋子は伊東に声をかけられた。
「今日は無理です、いきなり帰るのが遅れたらお夢が心配しますから。けど明日なら大丈夫です」
「そうか、なら明日でいい。──ちょっと話があるんだ」
洋子は内心、来るべきものが来たかと覚悟を決める。だが表面では
「はい、分かりました」
とだけ応じ、話の内容については敢えて訊かなかった。

 夕刻、帰宅しながら洋子は考えていた。
「どうするつもりだろう、伊東先生は」
少なくとも屯所での古典の講義中には、伊東は今回の件に関して論評らしいことは一言も言っていない。ただ、直参取立ての一件が持ち上がって以降、毎日講義後にどこかで伊東一派による話し合いが持たれていることは事実であり、内容についてはっきりしたことは分からないまでも、多分今後の対応だろうことは推測でき、気がかりだった。
「そろそろ、こっちも結論を出さないと…」
洋子としては、直参になどなりたくないのだ。なった場合の影響はどうでもいいが、とにかく旗本や御家人になることを想像しただけで吐き気がする。それに、もし万一私の正体がばれれば…。
「洋さん」
そこに不意に声をかけられ、咄嗟に鞘に手をかけつつ振り返った。
「──ああ、お増さんじゃないですか。びっくりした」
見慣れた顔にほうっと息をつきつつ、洋子は言った。当のお増は
「どうしたの? 私に気づかないなんて、何か考えごと?」
「いえ、別に大したことじゃないんですけど。それはそうと何でここに?」
「ちょっと今日の分の糠漬けが余ったものだから、お裾分けしようと思って。一緒に行っていい?」
「あ、はい」
糠漬けは好きだが作れない洋子は、二つ返事で頷いた。

 

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