るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十一 分離(2)

 並んで歩きながら、お増は洋子に訊いた。
「最近、どう? 新撰組の様子は」
「別に、大して変化はないですよ。ただ…」
「幕府の直参に取立てるって話ね」
ずばり言われ、一瞬間を置いた後で洋子は頷いた。
「ええ。──翁殿は何と?」
「別に、これと言って話はないわ。──でもまあ、あなたにとっては良かったんでないの? 元の身分に帰れて」
「良くありません!」
思わず、大声で洋子は応じた。一瞬あっけに取られたお増に
「私は今更、旗本や御家人なんかになる気はないです。あんな…あんな世界に、従姉妹で婚約者を平気で売るような人間のいる世界には帰りたくない。それも差し当たっての生活に困ってたわけじゃないんです。私が邪魔だから、必要でなくなったから。ただそれだけの理由で…!」
「──ごめんなさい。あなたにとってはそうだったわね」
お増は謝った。──そうでなければ、目の前の少女が新撰組などにいるはずもない。他の生き方は幾らでもあったはずなのだ。少なくとも、その手で人を斬らずにすむ生き方が。
「じゃあ、率直に訊いていい?」
洋子は頷いた。お増はちょっと躊躇う風を見せたが、深呼吸して相手の瞳を見つめ
「新撰組を、出るの?」
洋子は立ち止まり、黙って相手の瞳を見つめ返した。だが数秒後、再び歩き出す。そして息をついて言った。
「正直言って、悩んでます。──何だかんだ言って、あの人たちのお陰ですからね。今の私があるのは」
これ以上ないほど複雑な響きが、お増には感じ取れた。
「──そうよね。良くも悪くも、あなたはこの六年間ずっと彼らの下で育ってきた。それを簡単に捨て去るわけには行かないわよね」
洋子は黙って、歩みを進めた。
 新しい自分と、古い自分。二つは彼女にとって別物であり、ただ己の記憶の中だけで繋がっている存在だった。そして、今まではそれで良かった。二度と戻ることはないと、思っていたから。断ち切られた過去であり、同じ立場に立つことは二度とないはずだったから。
「お増さん──」
下を向いて歩きながら、呟くように声を出す。
「もし、御庭番衆の誰かの命令で、御庭番衆になる前の立場、もしくはそれに似た立場に戻れって言われたら、どうします?」
「戻るわ。それが本当に、御庭番衆の誰かの命令ならね」
洋子としては意外なほど、すぐに答えが返ってきた。驚いて自分を見据える少女に、お増は
「だって、御庭番衆の命令で戻るんでしょう? だったら立場がどうであれ、御庭番衆の一員であることに変わりはないじゃない。彼らと縁が切れるわけでもないし、まして本気になって戦うわけでもない。──と言っても、あなたの場合とは色々事情が違うから、昔に対する思いも違うだろうけどね」
「──今でも、戻りたいと思ってますか」
洋子は静かに訊いた。お増はどこか遠い目をして
「さあね。親が生きてるかどうかも分からないし」
そこで、洋子の住んでいる長屋に着いた。

 翌日の夕方、洋子と伊東は二人きりである料亭に入った。
「まずは一杯」
伊東が注いだ酒を、洋子は一気に飲み干した。そして返礼にこちらも相手に注いでやり、飲み干すのをじっと見守る。
「さすがに京の酒は美味い」
「そうですね。私もこっちに来てから結構覚えました」
と言っても彼女の場合、量はそれほど飲んでいない。斎藤が酒豪でしかも一定量を超えると暴れるので、いつもはその押さえ役に回っているのだった。食べながら残り酒を少しずつ飲むので、銘柄や味には詳しいのだが。
「もう一杯、どうです?」
「ああ、ありがとう」
洋子が注いだ二杯目を半分飲んで、伊東は口を開いた。
「天城君」
「はい?」
「ここだけの話だ。直参取立ての件、君はどう思う?」
問いの余りの直截さに、洋子は少々戸惑った。少し間を置いて
「反対はしませんけど、何か今更という気はしますね」
「今更、というと?」
「この時期に直参になる利益が、見当たらないというか。第二次長州征伐の敗退で、幕府の衰運は明らかですし」
伊東は我が意を得たりという表情で頷いた。そして
「天城君。ここだけの話だが、我々は新撰組とは別の、新しい組織を作ろうと思っている」
いきなり、単刀直入に言った。
「我々の最終目的は、攘夷である。しかるに近藤先生は、孝明帝のご意志に逆らう幕府の直参になるという。これでは攘夷を達成できぬ」
「そんな新撰組には、いる価値もない──ですか」
洋子は、相手の台詞を先取りして言った。伊東は大きく頷き
「そう。そして我々としては、天城君にもその組織に入って欲しい」
驚いて箸を止め、目を瞬かせて応じる。
「あの…。私に、ですか?」
「その通り」
洋子は黙り込んだ。伊東は自分の膳に箸を置き、近づいてきて言う。
「君が色々と、近藤先生や土方先生に恩義を感じているのは分かる。しかし君は、新撰組などに埋もれておくには余りに惜しい。剣を取っては組内屈指、その年で師範代を勤めているし、筆を取っては達筆で古典などの教養にも優れている。我々の新しい組織に、是非必要な人材なんだ」
「──私のことを、そうまで高く評価していただいているのは嬉しいのですが…」
彼女は一息ついた。そして
「少しばかり、私のことを買い被りすぎだと思います。特に剣に関して申し上げるならば、私より強い剣客は新撰組の内外に無数にいます。それに私はまだまだ未熟者で、新しい組織でお役に立てるとは思えません」
「──未熟者、か」
伊東は、相手の台詞の一言を抜き出した。そして更に近づいて
「確かに、君はまだ若い。しかし、若いということは将来において無限に近い可能性があるということだ。その可能性を、新撰組などで費やすのは勿体なさ過ぎる。まして衰運にある幕府の直参になることはない」
「そうはおっしゃいますが…」
彼女は口ごもった。どこかで考えがすれ違っている。
 実のところ、洋子には幕府がどうなろうとどうでもいいのだ。滅びようが続こうが、はたまた将軍が誰になろうが、そんなことは知ったことではない。極論すれば、平隊士の腕を上げることの方が彼女には大事なのだ。
 ただ、捨てることで解放された過去の世界に、今更引き戻されるのは御免だった。直参になりたくないと言っても、突き詰めればそれだけの理由である。自分で言った幕府の衰退云々でさえそれを隠すための言い訳に過ぎず、まして伊東の言う政治的な思想などは全く関係ない。純粋に個人的な、それだけに誰にも知られてはならない理由だった。
「天城君」
伊東は洋子の手を取って、言った。
「組を出ると言っても今日明日の話ではないから、今すぐ結論を出せとは言わない。一人でゆっくり考えて欲しい」
「──はい」
頷いて、酒を飲み干した。

 それから程なくして、孝明天皇が急死した。年末も押し迫った頃だ。
 表向きは病死であったが、現在では薩長もしくは彼らと組んだ岩倉具視による毒殺との説も流れている。
 いずれにしても、攘夷という一点以外では幕府支持者であった彼の死によって、倒幕への動きが加速することになるのである。
 そして、年が明けた。

 正月も鏡開きの頃、洋子とお夢は銭湯に行った。
 二人とも振袖で、女湯の方に入る。風呂から上がって出て来たところに、ある剣客が男湯の方からいきなり現れた。出入り口で顔を合わせ、驚く。
「あんた──」
「君は…」
傷こそ隠しているが、新撰組のほぼ全員にとって、その男は宿敵である。だが洋子にとっては、かつての修行仲間でもあった。
 緋村剣心、通称緋村抜刀斎である。

 「お知り合いですか、洋子さん」
数秒ほど互いを見据えていると、お夢の声がした。洋子が応じようとしたとき
「お久しぶりだな、洋子殿」
剣心のほうがそう言った。どうやらこの場では女として扱うつもりらしい。
「──やけに平気ね、こんな格好してるのに」
「桂先生に話は聞いたよ」
そういうことか、と洋子は納得した。すると剣心は
「そう言えば、直参取り立てらしいね。おめでとう」
「あんたが喜んでいいの?」
宿敵同士である。意外なのと不審なのが混ざった顔で自分を見やる彼女に
「いいのさ、同じ剣客同士だ」
ちょっと顔を背けて、剣心は応じた。そこにお夢が口を挟む。
「あのう…その、直参取り立てって、どういう意味ですか?」
不思議そうな表情である。思わず説明しようとした彼を洋子が止めて
「後で説明するから、ちょっとその辺の店で待ってなさい。お金は持ってるでしょう」
「──それはいいですけど、あんまり話が長引くと風邪引いちゃいますよ」
「あんたみたいなガキじゃないんだから、大丈夫」
最後は少し不機嫌になって言う。甘味処に入ったお夢を見送って
「まだ言ってなかった?」
「うん…少し悩んでてね。色々あって」
「取り立てのことで?」
「──うん」
小さく頷いた。誰かが見ていないとも限らない。
 剣心は、うつむいた相手の横顔を数秒じっと見つめた。そして
「俺には詳しい事情はよく分からないが、どうするにせよ君が自分の気持ちを偽るべきではないと思う」
「──それが、純粋に個人的なことから来てても?」
「やってることが命がけなんだから、理由としてはそれで十分だろうよ」
洋子ははっと顔を上げて、剣心を見つめた。微笑んで見せた後
「じゃあ、俺はこの辺で帰るから」
彼はそう言って、歩き出した。

 

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