るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十一 分離(3)

 それから数日後の、昼食時のことである。
「例の件、どう思います?」
洋子の質問に、斎藤は蕎麦を食べる手を止めて訊き返した。
「例の件というと、直参取立ての一件か?」
実は今まで二人の間では、この件について話したことがない。機会は幾らでもあったのにどちらも切り出そうとせず、そのまま今まで来てしまったのだ。斎藤も洋子が何やら悩んでいるのは前から気づいていたが、一度殴ってからは程なく人前で考え事をするのを止めたので、放っておくことにしていた。
「ええ。ここだけの話ですが、伊東先生は猛反発してて、新撰組を抜けるつもりでいますし…。斎藤さんはどうするつもりかなと」
悩みの種はこのことか。斎藤は汁をすすった後
「阿呆。そういうことならもっと早く相談しろ」
「いや、自分である程度考えてから、相談した方がいいかなと思いまして」
またこれか、と斎藤は思った。それでも相談しただけましだが…。
「阿呆の考え休むに似たりだと、前から言ってるだろうが。この阿呆。大体、貴様が一人で考えて行動起こすとろくなことにならん」
「その言い方はないでしょう。最初から言ってても、それはそれでまた馬鹿にするに決まってるんですからね、斎藤さんは」
「大事な問題に限って一人で暴走しようとする奴が、偉そうにほざくな。──で、お前はどうする気だ」
「どうする気って、私が訊いたことに答えてから訊いて下さいよ。斎藤さんはどう思いますかって言ったじゃないですか!」
   バキッ!!!
「その程度で騒ぐな阿呆。──で、本題だが」
叩かれた箇所に手を乗せたまま、洋子は斎藤を見やった。
「今更直参になっても…という気はするな、確かに。お前はどう思う?」
腕を落とし、数秒ほどためらった後で、彼女は言った。
「──率直に言って、伊東先生について行こうかと考えてます。これはご本人にも言っていませんが」
「何…?」
斎藤は驚いた表情で、自分の弟子を見つめた。
「私だって、今更幕府の直参なんかになる気はないですよ。旗本なんて聞こえはいいですが、所詮自分の家族だろうと婚約者だろうと平気でモノ扱いできる、人買いに売ってしまえる人たちなんですからね。そういう人でなしになるくらいなら、浪人だって何だってやりますよ」
「洋子…」
古傷が、また痛み出している。それが斎藤には手に取るようによく分かった。
「だから、誰が何と言おうと私はここを出ます。例えそのために殺され、死体が見せしめにさらされようとも」
その言葉の響きと顔の表情は、悲痛とさえ言えた。そして斎藤には、その理由も分かっていた。
 もう二年半ほど前になるが、池田屋事件で新撰組の立てた手柄への褒美として、局長である近藤に「与力上席」の内示があった。ところがそれで近藤が舞い上がってしまい、本来同志であるはずの他の隊士に対し、あたかも自分が主君であるかのような態度を取るようになる。これに反発したのが永倉新八を中心とする一団で、新撰組の『預り主』である京都守護職の松平容保に直訴状を提出。土方の仲介でこのこと自体は何とか穏便に済んだものの、近藤は内示を辞退せざるを得なかったのである。
 この一連の事件を、当時まだ見習い隊士世話役だった洋子は、ずっと新撰組中枢で見ていた。与力への内示があった、それだけで人間の性格は大きく変わるのだ。まして旗本になるとなれば、彼女が恐れる方向への変化も当然起こる可能性がある。とは言え近藤も学習しているだろうし、まさか前のようなことは起きまいが…。
「──そんなに心配なら、俺が先に入って様子を見てみるか」
斎藤の呟くような台詞に、洋子は目を瞬かせた。
「当初は何かと混乱も起きる。おまけに孝明天皇が崩御された今、世情もどうなるか分からん。俺が先に入って、こっちの方がいいとなればお前も来い」
余りにも意外な言葉だった。相手の意図が理解できないまま、彼女は
「──そんなこと、しなくていいですよ。これは私個人の問題であって、斎藤さんには関係ないんですから」
「阿呆。弟子兼部下のお前が新撰組を出ると言ってるのに、師匠で上司の俺が関係ないことがあるか」
「だったら、局中法度通り殺せばいいじゃないですか。こっちは覚悟できてますから。何も自分が代わりに抜けなくても」
「──お前がもし、俺に何の断りもなく伊東先生のところに行ってたら、そうしてただろうな。問答無用で」
斎藤は、表面的には淡々とした口調で言った。
「『私個人の問題』と言いながら、お前自身も実はそう思っていない。だから事前に俺に言ったんだろう。──本当は、止めて欲しいはずだ」
「な…!」
一瞬絶句し、否定しようとした瞬間、冷たい炎としか言いようのない声がかけられる。
「大体、俺はお前をそういう人でなしになるようには育ててない。──お前が本当に恐れているのは、自分が人でなしになることではなく、人でなしに成り下がった他の奴らに捨てられることだろう」
洋子は、二の句が継げなかった。
「だからもし万一、現実にそうなりそうになったら、こっちに来い。伊東先生には俺が話をつけておいてやる」
「──何でそんな、私のために…」
「誰もお前のためとは言ってない。お前が他人に殺されたら、俺がお前に費やしてきたもの全てが無駄になるだろうが。それが嫌なだけだ」
洋子は不満げに黙り込んだ。それを見やって
「とにかく、お前は残れ。いいな」
応答はなかったが、この時の斎藤は片が付いたなと判断していた。


 夜。伊東は、ある料亭にいた。
「しばらくぶりですな、伊東先生。お待たせして申し訳ない」
遅れて部屋に入ってきた薩摩訛りの声の主を見上げて姿を確認し、一礼する。
「大久保先生こそ、お変わりなく」
大久保と言われた男は、対面の座布団の上に腰を下ろした。
「おかげさまで。──うちの富山の様子はどうですか」
「役に立っております。隊士としても、連絡役としても」
最後の一節は声を落として、伊東は言った。大久保は頷いて
「そうですか。時に武田君の一件は、残念でしたな」
「ええ…。ですが、過ぎてしまったことは仕方ありますまい。それより問題は、今後のことです」
「──新撰組を、抜けられるのですな」
小声で言う。伊東は頷いた。
「私以外にも、私の道場にいた者六名と、それ以外の新撰組隊士から数名」
「ほう…」
合わせれば十数名。規模は小さいがいずれも一流の剣客揃いであり、決して無視出来るものではない。更に伊東は続けて
「名は言えませぬが、隊士の中には組長二人が含まれております」
大久保は、今度は無言で相手を見つめた。ややあって
「──して、手段は」
「先日、手紙にて説明したとおり。どうしても先方が飲まぬ時は」
「我らが朝廷を工作する、と」
頷いた。承知しました、と大久保は言い、ふと思い出したように
「そうそう。ご自身が抜けられた後の新撰組はどうします」
「気心の知れた者を、数人残しておきます。ご心配なく」
自信ありげに言い切った伊東に、大久保は「なるほど…」と言って数秒沈黙した。そして
「よく分かりました。これにてその話は終いとしましょう」
そして手を叩き、芸子を呼んだ。

 翌朝、料亭を出て屯所に帰っていく伊東と別れた大久保は、
「伊東甲子太郎…。確かに観柳斎よりはましだが…」
思っていたほどの人物ではない、と彼は感じていた。
『新撰組は、組を抜ければ死という組織だ。自分の下に来る隊士の中に、一人程度は主流派からの間者がいると見るのが普通だが。よほど自信があるのか、自分が隊士を残すだけで良しと考え、それさえも警戒しないとはな』
そして、そういう人物を重用する近藤も、大久保には底が見えていた。
「──となると、ある意味で真に恐るべきは土方か…」

 二月に入ってすぐのこと、伊東は土方を廊下で呼び止めた。
「今夜、近藤先生と折り入ってお話があるのですが、土方先生ももし宜しければいらっしゃいませんか」
「今夜、ですか。──分かりました。して、場所は?」
いよいよ来たか、と内心思いつつ、土方は一応平然と応じた。伊東が
「近藤先生がなじんでらっしゃる、祇園の料亭です。会所で待ち合わせて参ろうかと」
「分かりました。時間は酉の──」
「酉の三刻でどうでしょうか」
酉の三刻、現代で言うなら夕方の午後六時から六時半頃である。
「それで結構です」
応じておいて、土方は伊東の背中を見送った。

 

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