るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十一 分離(5)

 古典の講読が終わった後、洋子は伊東に呼び止められた。ぴく、となって振り返り
「あの、何か?」
「斎藤君に話は聞いたよ」
伊東は言った。その傍を他の隊士が通り過ぎていく。
「こっちも基本的にその線で了解した。君は特別だ」
「あの…斎藤さん、何と言ってました?」
伊東は一瞬意外そうに洋子を見たが、ややあって
「『義理と人情の板挟みになってるらしい。師匠として放っておけないから、万一粛清されそうになったらこちらに加えて欲しい』と」
「そう──言ってたんですか」
洋子の反応に、伊東はいぶかしさを感じたようである。
「違うのかい?」
「あ、いえ、それでいいんです。じゃあそういうことで」
一転して普段の明るい声で、洋子はそう言って頭を下げた。
「これからもよろしく」
伊東も軽く会釈し、そこで二人は別れた。見送る伊東に篠原が声をかける。
「あの二人、ホントに大丈夫ですかね」
「──どういう意味だね、それは」
少し聞きとがめるような口調になる。だが篠原はあっさり言った。
「いや、普段あれだけ喧嘩しててですよ、こういう時だけ心配するってのは──。何か裏があるような気がしましてね」
「普段から心配はしてると思うが、特に斎藤君は」
教材を片づけながら、伊東は応じた。
「ただ、やり方が下手なだけで。──まあ君は、そう感じるのだろうけど」
「そりゃあね、杞憂に終わればいいとは思いますよ、私も」
その二人の会話は、これで終わった。

 そして三月十日、伊東たちは新撰組屯所を出た。御陵衛士への正式な任命にはまだ十日ほどかかるようで、すぐに任務にかかれるように早く出ることにしたらしい。
「──斎藤さん、何か用ですか」
その日の朝、洋子は出勤してきたところを平隊士に声をかけられ、斎藤が部屋で呼んでいる旨を聞いて襖の前に立っていた。
「来たか。入れ」
「──はい」
洋子はそっと襖を開けて、中に入った。

 斎藤は彼女に背を向けて、壁に向かって座っていた。その姿勢のまま
「今日、ここを出る」
「聞いています」
数日前から、その話は出回っていた。
「すぐに殺し合いになる雰囲気でもなさそうだ。たまには高台寺に遊びに来い」
「ええ──」
高台寺とは、伊東一派の新しい本拠地のことである。
「暇になったら、ですね。しばらく忙しいでしょうけど」
洋子の声が堅い。振り向くと彼女はうつむいていた。
「──言っておくが、俺相手に通用してたことが他の隊士に通用すると思うな」
顔を上げて目を瞬かせる。そして
「──例えば?」
「朝っぱらから喧嘩したり上司に盾突いたり。俺だから見逃してるんであって…」
「その原因作ってるの、ほとんど、いえ全て斎藤さんだと思いますけど」
   バキッ!!
「そういう口答えをするなと言ってるんだ。阿呆が」
「だったら、そういう話題を振らないで下さい。いつもいつも」
   ボカッ!!!
「お前に進歩がないだけだろうが。少しは自分の非を認めろ」
「斎藤さんだって全然進歩してないでしょうが。人が折角来たってのに、言うことそれくらいしかないんですか!」
「阿呆。俺はただ注意しただけだ」
「注意と喧嘩売ってるのとほとんど差がないでしょうが、斎藤さんの場合!」
   バゴッ!!!
気絶寸前の一撃を脳天に食らい、洋子は呻いている。それを見下ろしつつ
『お前がいつも通りでないと、俺が困る』
そう思って、斎藤はふと苦笑した。──矛盾してるな、我ながら。

 それから昼にかけて荷物をまとめ、斎藤は伊東たちの待っている屯所の正門に来た。
「遅れまして済みません。──これだけですか?」
「いや、あと二人──藤堂君と篠原君が来ていないが」
そう言えば洋子も見当たらない。そう思って見回していると、道場の方から凄まじいばかりの気合いが聞こえた。洋子の声だ。
「まだまだぁ!!! 次、かかって来い!!!」
木刀、或いは竹刀。とにかくそれらが混じってぶつかり合う音が続けて聞こえてくる。
「──ちょっと、道場に行って来ても構いませんか」
「ああ。どうやらもう少し時間がかかりそうだからね」
伊東はあっさり了解した。斎藤はそのまま道場に向かう。すれ違いで篠原が出てきた。
「──この荷物は?」
「斎藤君のだよ。今は道場に行ってる」
「道場?」
篠原は目を瞬かせた。と同時に、道場の方から聞こえていた音がやむ。

 斎藤が道場に着いた時、いたのは土方、沖田、井上、原田などだった。正門前にいた近藤はともかく、藤堂と永倉は見当たらない。
「──あ、斎藤さん。どうかしたんですか?」
沖田が気づいて、声をかけてくる。斎藤はいや、と頭を振って
「あいつの声が聞こえたもんでな」
視線の先に、洋子がいた。それで全て察しがついたらしい沖田は、身軽く動いて道場前の庭で平隊士に稽古を付けている彼女に話しかける。洋子がちらりとこちらを見た。そのまま道場に上がってくる。
「──よし、諸君。着座して貰おう」
土方が言った。みな顔を見合わせて着座する。
「模範稽古だ。──斎藤一対天城洋、審判は沖田総司」
「お二人さん、いつも通りでいいですね?」
こういう時にも関わらず、沖田の声は何ら普段と変わらない。それが不思議と、その場にいる者の気分を落ち着かせた。
「ああ、それでいい」
斎藤が応じ、洋子は無言で頷く。それぞれまだ無形の位である。
「じゃ、行きます。──時間無制限、降伏のみの一本勝負! 始め!!」

 互いに、手の内は知り尽くしている。予想もつく。ために二人は、しばらく動けなかった。周りも息さえ潜めて、動くのを待っている。
「──行きます」
洋子が言ったのと動いたのと、ほとんど同時だった。凄まじい勢いで斬りかかってくる。
 受け止めた斎藤の手が、痺れた。ほう、と表情を改め、力任せに押し返して間合いを開けると牙突の構えを取る。洋子が気づくと同時に突っ込んできた。
 洋子は脇によけつつ、横なぎに先手を打って相手の右籠手を突こうとした。が、実際に響いたのは木刀同士の衝突音。そのまま一歩離れ、横なぎから切上に変わった相手の刀が体から離れるのを待って、体を屈めて逆に突っ込んだ。今度は斎藤が離れる。
「──すっげー…」
低いどよめきが、周りから上がる。その中を、二人は再び身構えた。牙突対逆牙突。
 今度は、二人同時に動いた。洋子が相手の刺突をかいくぐってその胸元に一刺突入れようとするのを、斎藤は紙一重でかわすと肩に斬りつけた。しかし洋子も構わずに横なぎで相手の脇に一撃をたたき込む。この間、一瞬の差もない。
「──ちょっとは腕を上げたらしいな」
斎藤が呟くように言った。そして再び間合いを取る。
 まずい、と洋子は思っていた。斬りつけられた左肩に激痛が走っている。直後の今だけならまだいいが、続くようだと後で不都合が出る。
 彼女はいったん、構えを無形の位に戻した。斎藤が三たび牙突で突っ込んでくるのを動かずに待ち受け、まさに衝突する直前に下段から逆風で相手の木刀に自分のそれを衝突させる。逸れたと見るや跳ね上げた刀を突きおろした。
「うっ…!」
左肩をまともに突かれ、斎藤は呻いた。洋子はその一撃の後、素早く飛び離れて間合いを作る。零式を食らうわけには行かないのだ。
『こいつは…本当に本気でやるべきだな』
斎藤はそう思った。次の瞬間、辺りの気配が変わる。
「──!」
まともに剣気をぶつけられ、洋子は少し気圧されそうになった。そこに斎藤が、今までよりも更に速度を上げて突進してくる。反射的によけ、横なぎに対応して防御の構えを取った。木刀同士の衝突音が響き渡る。
 次の瞬間、洋子は木刀をそのまますりあげて中段から籠手を打とうとした。が、斎藤の動きも速く、その一瞬に体勢を整えて正面から斬りかかる。数合打ち合った後、間合いのない状態での木刀の押し合いになった。
『まずいわね、これは』
純粋な力同士では、まず斎藤には勝てない。じりじりと押されながら、洋子はそう思っていた。となると──。
 次の瞬間、洋子は木刀を受けつつ体を横にずらし、下段まで持って来つつ微妙に絡めて相手の体勢を崩す。そしてそこから半歩後退して空間を作ると、構えは下段のまま斎藤の懐目がけて斜め上に突き上げた。手応えが思ったほどない。不審に思う間もなく
「牙突零式!」
まともに直撃を食らい、文字通り洋子は吹き飛んで壁に叩きつけられた。

 数秒ほど、その場はシーンとしている。やがて低い声が少しずつ上がり始めた。
「──おい、見たか?」
「いや、全然見えなかったぜ」
斎藤は汗だくになりながら肩で息をしているが、洋子は床に倒れ込んだままびくともしない。沖田が様子を見に行って、顔をのぞき込んだ。
「──こりゃ、降伏どころの騒ぎじゃないな。完全に気絶してる」
苦笑混じりに言って、斎藤のほうを見やる。
「──本気になりすぎたか」
前に一度、無理矢理実験台として洋子に食らわせたことはあるが、こうした場で見せるのは初めてである。奥の手をそう他人には見せられないのだ。
「なりすぎですよ、明らかに。抜刀斎相手にしてるんじゃないんですから」
言った後、沖田は咳をした。取りあえずこの子を起こさないと、と思って彼女の体を揺さぶるも、一向に目が覚めない。
「──おい、前野」
「水ですか?」
間髪入れずに即答があった。更に続けて
「小笹に取りに行かせてます。ご自分でやられますか?」
「ああ。自分でやらんと寝覚めが悪い」
斎藤のその台詞に、前野は苦笑した。

 いきなり顔が水に突っ込ませられ、苦しくなった洋子は顔を上げた。次の瞬間、胸の付近に激痛が走る。
「いっ…!!」
「大丈夫、洋さん?」
沖田の声だ。──そうだ、そう言えば──
「ったく、いつまで気絶してやがる。いくらあの技食らったとは言え、木刀だろうが」
「──木刀でも十分殺傷力あると思いますけどね、あれに限れば」
十分、のところを特に強調して、洋子は応じた。
「ま、口答え出来れば傷の方は大丈夫だな。──行くぞ」
「行く? 行くって──いっ!」
立ち上がった途端、また激痛が走った。それでも彼女は、斎藤の後を追って歩き始める。
 見送りだけは、きちんとしたかったのだ。

 

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