るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十一 分離(6)

 土方には黙礼したが、他の隊士には目もくれずに斎藤は正門まで戻っていった。草履を履いたところで、伊東が声をかける。
「──済んだのかい?」
「ええ。別れは済ませました」
声に重なって、どた、どた、どたと洋子の足音が聞こえてくる。程なく姿を見せた彼女は、零式を食らった付近を手で覆っていた。顔が痛そうに歪んでいる。
「──何をやらかしたんだ、斎藤君」
篠原がやや冷やかし混じりに訊く。
「稽古納めを、ちょっと派手にやりましてね」
意味ありげにそれだけ言った。そしてふと周りを見回し
「藤堂君は?」
「まだ来ていない。もうすぐ──と、来た来た」
藤堂と永倉が、一緒に歩いてきている。藤堂の方は疲れたような顔をしていた。
「これで全員だね。──近藤先生、お待たせしました」
伊東が一礼する。そして
「ではこれより、我々はここを出ます。また宜しければ、お会いしましょう」
そう言って、伊東は背を向けた。

 その後、治療の済んだ洋子は、土方に呼ばれて副長室にいた。
「洋子、お前は監察方に回ってもらう」
土方の言葉に、洋子は軽く驚いた。
「あの、三番隊は?」
「前野君に任せる。──で、お前の監察としての初仕事だが」
いきなり初仕事のことまで告げられ、彼女は更に驚いた。
「五日後、つまり三月十五日の正午頃、清水寺の音羽の滝に行ってもらう」
無言で話を聞いている洋子に、土方は続けた。
「そこに、お前の知っている人物が来る。その人物に会って、俺宛のものを貰って来い」
「──それだけですか?」
やけに簡単な、と洋子は思った。その『土方宛のもの』というのはよほど大事なものなのだろうか。
「基本的にはそれだけだが、その次からは一切お前達に任せる」
「は?」
洋子は目を瞬かせた。さっきから土方の言うことは、いまいち理解できない。
「その人物といつ、どこで、どういう形で会うか、一切お前とその本人に任せる。ただし、俺への何かがあれば早急に教えてくれ」
「任せても大丈夫な人間なんですか、その相手とやらは」
「ああ。会えば分かる」
即答され、洋子は土方の意図を疑いつつ応じた。
「分かりました」

 そして洋子は、三月十五日に清水寺の音羽の滝の前に来ていた。
 監察の職務ということで、制服は着ていない。春霞のために京の町はよく見えず、仕方なく滝から落ちる水を見つめていた。
 あれから五日、屯所は飛躍的に静かになった。もともと騒音の大半は洋子と斎藤の喧嘩関連だったのだから、片方がいなくなれば喧嘩もなくなって静かになるのは当然と言えば当然である。だが洋子自身も含めたほとんどの隊士たちにとっては、そういう喧嘩も新撰組での生活の一部になってしまっていたのだ。今の静かさに慣れるまで、しばらく時間がかかるだろう。
「──愚痴る相手が、いなくなっちゃったな」
いくら喧嘩が日課のようなものと言っても、喧嘩するために斎藤と話していたのではない。他の隊士に関する情報交換、愚痴、隊内での世間話。そうした普通の話をする時間の方が、単純計算すれば遙かに長いのだ。情報交換や世間話は師範の永倉や監察の山崎或いは吉村とでも出来るが、愚痴をこぼすほどの関係ではない。
「ま、大したことでもないんだけどね。平隊士がどうこうって程度だし」
呟いて、息をついた。斎藤に食らった零式の傷は、まだ痛い。
「──洋子?」
そこに、声が聞こえた。聞き慣れた、だが妙に懐かしさを感じる声。
 声の主を捜して見回すと、清水の舞台の方に見慣れた、簾頭の悪人面の男が立っている。相手の方は既に自分に気づいていたらしい。
「──斎藤さん!?」
洋子はびっくりして、声をあげる。何でここに、あの人がいるんだ。
「どうしてここに?」
走り寄って訊く。斎藤はいつもの、不機嫌そうな顔と声で
「それはこっちの台詞だ。お前が来るとは聞いとらんぞ、俺は」
「私だって斎藤さんが来るとは──って」
ある可能性に思い当たり、相手の顔を見やる。彼は苦虫を噛み潰したような声で
「どうやら、そうらしいな」
とだけ応じた。ふう、と息をついた洋子だったが、数秒後
「──いつから、そういう話になってたんですか?」
寂しさと苛立ちが混じった声で、訊いてきた。
「いつからでもいいだろう。お前には関係ない」
面倒くさそうに応じられ、洋子は半分キレて
「そういうことならそうだと、最初からちゃんと言って下さい!」
   バキッ!!!
「大声出すな阿呆、感づかれる。──それにだ」
言い返そうと思った彼女だが、相手の妙な雰囲気に飲まれて言葉に詰まる。
「あの時…俺がお前に言った言葉、あれが俺の真実だ」
──『俺が死んでもお前が生きれば、俺としてはそれでいい』か。
 洋子は、胸が詰まって本当に何も言えなくなってしまった。顔を背けて欄干に手を乗せて市街地の方を見やり、ため息をつく。
「──で、屯所の方はどうなんだ」
「静かになりましたよ、斎藤さんがいないから」
と言って、またため息をついた。斎藤は苦笑して
「喧嘩の相手がいないから、か」
自分も、市街地の方を見やる。ややあって
「また飯でも食いに行くか、今から」
「──いいんですか?」
「ああ。伊東先生には夕刻まで戻らんかもしれんと言ってあるし、そっちはもともと副長の差し金だから文句は言わんだろう。問題はこの付近に食える蕎麦屋があるかどうかだ」
洋子はやっと、普段の声に戻って言った。
「相変わらず蕎麦なんですね。──まあいいですよ、しばらく食べてなかったですから」
そして二人は、その場から立ち去った。

 

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