るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十四 「秘密」(1)

 その日、洋子は宿直明けだった。
 旧暦七月の上旬ともなれば、京都の夜はかなり蒸し暑い。一晩でじっとりと汗を掻いた彼女は、隊士が出勤してくる前に服を脱いで着替えようと、自室に戻って制服の上着を脱いだ。更に袴も脱ぎ、下着も脱いでしまう。
「ああもう、べたつく」
汗で服が絡みつき、思うように脱げない。放り投げるようにしてようやく脱げた。
「ホントはサラシも取りたいんだけどねえ」
こればかりは、いつ人が来るか分からぬこの部屋では取れない。染み込んだ汗を手ぬぐいに吸い取らせて、我慢することにした。
 と、その時。ひどく慌てた足音が部屋の外から聞こえた。
「何事?」
洋子はサラシの上に一枚だけ羽織ると、障子を少しだけ開けて顔だけ廊下を覗き込んだ。誰もいないし、足音も急速に遠ざかっていく。
「変なの…。でもまあ、いいか」
首を傾げただけで、再び障子を閉めて着替え始める。
 これが、新撰組四番隊組長の死の発端である。

 洋子と斎藤は剣術師範だが、新撰組には槍術師範や柔術師範もいる。槍術は原田左之助と谷三十郎が受け持ち、柔術は松原忠司、柳田三次郎、そして伊東甲子太郎に着いてきた篠原泰之進の三人が受け持っていた。この日洋子の部屋前をばたばたと走り去っていったのは、柳田三次郎である。彼は聞いたのだ、サラシを取りたがっている少女の声を。
「天城君が……女──?」
とんでもないことを聞いてしまったような気がして、心臓の鼓動が高くなる。自室に戻って扉を閉め、胸を押さえてしゃがみ込んだ。
 確かに、天城洋は男にしては線が細い。だが年がまだ十五ということもあって、これまで気に止めたこともなかった。それに斎藤と並んで剣術師範(実質的には師範代)を務めて居並ぶ剣客たちと互角以上に渡りあっているのを見ると、とても女とは思えない。
「冗談──だろ?」
サラシと言っても、腹に巻くものかも知れない。柳田はそう思って、平静を取り戻そうとしていた。だがあの声が、耳から離れない。

 「どうしたんだ、柳田君」
四番隊組長兼柔術師範の松原忠司は、この数日様子のおかしい柳田に声をかけた。柔術を得意とするだけあって、この二人の体格はどっしりとして似通っている。
「いえ、何でもないです」
組長ではない柳田は、同じ柔術師範と言っても格下なので敬語を使っている。
「そうか、ならいいが。局長、副長も気にしている」
副長の土方が感づいたということの方が、柳田には衝撃だった。恐らく今頃は監察たちが自分の身辺を嗅ぎ回っているだろう。薩摩や長州などには通じてはいないから、当面はどうということもないだろうが、証拠をねつ造されて粛正される可能性があった。
『天城君の正体、言うわけにもいかんからな』
天城洋が試衛館育ちであることは、今や隊内の誰もが知っている。身分は伍長とは言え、師匠は同じく居候だった斎藤 一であり、自分たちより新撰組の権力中枢に近い存在であることも分かっていた。下手に疑惑を立てれば、自分たちの方が危ないのだ。
「何かあれば言ってくれよ」
松原は、最後にそう言った。

 「柳田さん、ですか? ──そう言えば……」
それから更に数日後、洋子は監察の山崎に呼ばれていた。
 監察部としては、副長に言われて柳田の動向について調べてみたものの、別に薩摩や長州などに通じている気配はないし、女についての噂もさほど聞かない。ならば隊内の誰かと喧嘩したか、と思って伍長級を中心に話を聞いているのだ。組長級では向こうの方が格上なので、山崎としては返って話がしづらい。
「何かあったのかい?」
山崎も、相手に応じた聞き方を心得ている。洋子の場合、稽古の指導中なので部屋に呼び出したりはせず、道場傍の縁側での立ち話という形式だった。彼女は一番奥で稽古をつけている柳田を見やって少し口ごもり、
「いえ、大したことじゃないんですけど──」
自分に対する態度が妙なのだ。よそよそしいというか、びくついていると言うか。
「個人的に思い当たることがないんで、家で何かあったかと思ってお夢に聞いたんですけど、何もないって言うし。何なんでしょうね、あれは」
「──ふむ」
一応、話として副長の土方に報告することにはしたものの、彼はこの話をさほど重要視してはいなかった。

 「天城君が?」
話を聞いた土方は、数秒考え込んだ。
「あの、何かありましたか」
この男に黙り込まれると、山崎も気味が悪い。
「いや、何でもない。引き続き柳田君の身辺に注意してくれ」
そう言っていったん山崎を下がらせ、更に考え込む。山崎は知らないことだが、洋子がらみとなると話が途端に複雑になるのだ。御庭番衆、闇乃武、更には最近暗殺を計画した従兄弟など、手を出しそうな人間はいくらでもいるのだ。かと言って証拠や、関与を推定させる事実もなしに、奴らと交渉は出来ない。足元を見られる。
「一度、本人に話を聞いてみる必要があるな」
土方はそう呟いた。

 「──ところで、最近変わったことはないか」
宿直の日、洋子はひょっこり訪れた土方と少し世間話をした後、そう訊かれた。
「別に。最近は斎藤さんとの喧嘩も少し減って、皆さん喜んでますけど」
と言っても、毎日やっていることには違いない。六月頃に抜刀斎と激しくやり合った時の怪我で、数日ほど彼女は部屋で横になっていた。その間斎藤が中心になって稽古をつけたのだが、流石にきつかったらしく以後少しは協力的になったのだ。
「そうか。時に、柳田君のことだが」
洋子の台詞に苦笑しつつ、話題を移す。
「──山崎さんに言ったこと以上のことはないです。ちょっと変かな、程度で」
流石に見当がついたらしく、相手はそう応じた。
「態度が変わったのは、いつからだ」
「十日くらい前──ですかね。その日の朝からちょっと」
「と言うと、二回前の宿直があった前後か」
頷いた後、洋子は「あ」と短く声を上げた。
「何か思い当たる節でもあるのか?」
鋭く訊いてくる土方に、ややあって頭を振る。大体証拠がないのに、推測だけで話して同志の命を危険にさらすわけにも行かない。
「いえ、何でもないです。気にしないで下さい」
「──そうか。まあ何かあったら言ってくれ」
『何もないと何でもないは、意味的にかなり違うんだがな』
そう思いつつ、土方は他の話をし始めた。

 あれが原因だとしたら、決着は自分でつけなければならない。洋子はそう思っていた。何しろ柳田は、自分の秘密を知ってしまったのだ。外部に漏れれば新撰組の名誉に関わるし、第一自分個人にとっても不名誉だ。彼個人には何ら罪はないのだが、新撰組において名誉とは士道の重要な一部であり、士道背反はすなわち切腹を意味する。証拠はないにせよ、準備だけはしておく必要があった。
「お増さん、柔術相手ってどういう戦い方をすればいいと思う?」
「え?」
お裾分けと言って手のこんだ煮付けを夕食に合わせて持ってきたお増に、洋子はそう訊いた。こんな話を隊内では出来ない。
「何か、柔術相手と戦わなきゃいけないことでもあるの?」
逆に問い返され、一瞬言葉に詰まる。ややあって
「いや、そうじゃないんだけどね。ちょっと興味があって」
「そうねえ……」
と言って、お夢の出したお茶を一口飲む。当の彼女は洗濯物をたたんでいた。
「柔術ってのは、相手の身体をつかまないと話にならないでしょう。だから掴まれる前に倒せれば一番いいのよ。ここまでは分かるわよね」
「ええ。問題は掴まれた場合でして」
お増は洋子の眼を見た。予想以上に真剣である。
「要は間合いのない密着状態から、いかにして刺突を繰り出すかよ」
言った後、彼女は立ち上がって長屋を後にした。

 「本当に、どうしたんだ? 柳田君は」
その日、松原と柳田は島原にいた。気の晴れない柳田を気遣って、松原が連れてきたのだ。酒を飲みつつ応じるには
「いえ、何もないです。それより今日は騒ぎましょう」
「もとよりそのつもりだ。君も盛り上がってくれ」
はい、と頷いたものの、その表情には翳りがあった。
 宴もたけなわになってきた頃、柳田はかなり酔っ払っていた。
「今夜は天城君のことも何もかも忘れて、パーッと騒ぐぞ、パーッと」
と言うなり、遊女たちに囲まれて歌い出した柳田の一言を松原は聞き逃さなかった。
「天城君がどうかしたのか?」
「いえね、サラシですよサラシ。ワハハハハ」
「サラシ……? おい、柳田君。どういう意味だ?」
追及しようとしても、当の柳田は歌っていて聞く耳もない。そこに
「何を話しておいやすのやら。ここは仙境、浮き世のことは忘れてくらはいな」
遊女の一人が手を取る。つられて松原は立ち上がり、踊りだしていた。

 

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