るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十五 洋子と近藤(2)

 翌日の昼前、洋子は上州屋の店先にいた。今日は男装で、制服こそ着ていないが刀もきちんと大小を帯びている。何があるか分からないからだ。
 上州屋は、伍長だった時に斎藤とよく食べに行った蕎麦屋である。多分今日も昼食をここで食べるんだろう、と思って待っていると、案の定気配がした。
「いつもその格好で来い、この阿呆」
「時と場合を使い分けてるだけですよ、私は」
「で、昨日みたいな事態になるわけだ」
皮肉たっぷりの口調に、不愉快そうに相手を見上げた洋子だが、口に出しては何も言わずに斎藤の後に続いて店に入った。
 料理を注文した後、本題に入る。
「で、昨日の件どうでした?」
「連中が途中で別れたので全員は分からんが、一人は道場主だ」
「──詰め寄られてた人ですか?」
「まあな」
と言って茶を一口飲む。初秋ではあるが、この日はまだ暑かった。
「道場の名前は、桃井一刀流小倉道場だ」
二条城からさほど遠くない、京都では比較的名の通った道場である。確か新撰組にも、そこ出身の隊士が数名いた。
「他にも水戸の藩邸に入ったのが一人、長屋住まいらしいのが数人」
「水戸藩って、慶喜公の御生家でしょう」
そこの人間が慶喜を殺そうとするとは。驚く洋子に、斎藤は
「ま、教条的な斉昭信者にしてみれば、あの件は裏切りとしか取れんだろうな」
と平然たる口調で言う。徳川斉昭とは慶喜の実父であり、強硬な攘夷論者だった。慶応三年時点ではもうとっくに死んでいるが、その彼の熱烈な支持者のことを斎藤は信者と呼んだのだ。後の天狗党などの事件でかなり数は減っているが、それでも残党はいたようである。洋子は数秒黙り、ややあって
「やっぱり、他の監察にも動員かけるべきですかね」
「当然だろうな」
洋子が返事をしない。斎藤は
「どうした、連中と巧くいってないのか?」
「そういうわけじゃないんですけど」
「──言っておくが、手柄にこだわってられるような問題じゃないぞ」
「分かってます」
即答する声が重い。うつむき気味の顔で見当が付いた。一息ついて
「あの四人のことは、お前の責任じゃない。気にするな」
洋子はピクリと反応し、ややあって
「でも…」
「でもも糞もない。名誉挽回だの何だの、下らんことを考えるな」
第一あれは、どっちかと言うと俺の責任だと斎藤は言った。俺が彼らの動きにもう少し注意を払っていれば、未然に防げたかも知れん、と。
「それに、お前は俺に事前に教えていた。それで十分責任は果たしたはずだ」
「──随分、優しいんですね」
洋子は両手で湯飲みを持ち、茶道のような手つきで飲んでいた。
「誰もお前の責任でないのに問う気はない。そんな無意味なことやってられるか」
「無意味なこと、ですか」
納得していないような様子の洋子に、斎藤は
「お前はさっさと割り切れ。でもって当面の仕事に専念しろ」
「──はい」
彼女は、大人しく頷いた。

 監察方全員を動かすには、上層部──今は近藤──の命令、少なくとも許可がいる。屯所に戻った洋子は近藤に会おうとして探したが、見当たらない。
「局長は?」
「近藤先生なら、二条城に行ってるぜ」
永倉が答える。お偉方との話し合いがあるらしいと。
「ここに帰って来ますかね、今日中に」
「さあ。急用かい?」
「ちょっと情報をつかみまして」
それだけしか言わなかったが、永倉は数秒考えた後
「分かった。近藤先生がもし休息所に直接帰るんなら、俺と一緒にそこに行こう」
「え、いいんですか?」
「大事な用なんだろう?」
問い返されて一瞬黙ると、相手はニヤリと笑った。
「だったら尚更だ。会いに行って損はない」

 ここが近藤さんの休息所か、と洋子は待っている部屋の周囲や天井をきょろきょろ見回しつつ思った。永倉が小声で
「こら、あんまり物珍しそうにするな」
慌てて正面を向く。そこに侍女らしい妙齢の女が一人、入って来た。
「会うて下はるそうどす」
案内するというのでついて行く。途中で見た庭には池があって鯉が数匹泳ぎ、また低木も手入れがされているなど、かなり立派な屋敷だった。
 近藤がいるという部屋の前で、立ち止まる。こちらが許可を求めるより前に、いきなり襖が開いてその本人が姿を見せた。
「いや、永倉君に天城君、すまんすまん。会議が長引いたので二条城から直接帰ったんだが、君らが用事があるなら屯所に戻ればよかった。まあ座ってくれ」
見れば近藤のもの以外に座布団が二枚、箱膳が二つある。何も用意出来なくて済まんが取りあえず食べて行ってくれ、と彼は言った。永倉が応じて
「俺は洋の付き添いだけですので別にいいんですが、彼の方が用事があるそうです」
「──ん、洋がか」
そう言って、永倉の陰に半分ほど隠れている洋子を見やる。
「そこは閉めて、座ってくれ。食べながら聞こう」

 「本当か、それは」
近藤の、角張った顔と鋭い目が深刻な色合いを帯びている。
「少なくとも、慶喜公に危害を加えようとしている者たちの話は確かに聞きました。ただ、計画の全貌や参加人数など、詳しいことは分かっておりません」
声は大きくはないがはっきりしており、口調に淀みがない。近藤は頷いて
「分かった。明日早速監察方に指示を出そう」
「お願いします」
洋子は頭を下げた。そして間もなく長屋に帰ると言って部屋を出る。
 彼女の話を終始黙って聞いていた永倉が、その後ろ姿を見送った後で向き直って
「この件、薩摩か長州が絡んでいる可能性はありませんかね」
「──ないとは言えんな」
声を落として話し合う。慶喜を最も恐れているのは薩長であることは、各種の情報から推測出来ていた。暗殺計画が持ち上がったとしても、不思議はない。
「となると、やりにくくなりませんかね」
永倉が言ったのは、薩長の関与が断定されれば、一気に情勢が緊迫するのではないかということだった。それに対し近藤は
「なに、現場さえ押さえればどうにでもなる」
「現場と言うと?」
「謀議、もしくは襲撃の為に集まっている現場だ。──公のお心を煩わせるには忍びぬ。この件は新撰組のみで内密に決着を付けたい」
政治的なものに巻き込まれたくない、と言うのだろう。永倉は了解して
「分かりました」
と言い、後は雑談になった。

 翌朝から、洋子を含めた監察は俄然忙しくなった。近藤は翌朝屯所に来ると真っ先に監察全員を呼び集め、情報源は伏せたものの慶喜暗殺計画について告げ、詳細に関する調査を命じたのだ。吉村などと分担を相談した結果、洋子は尾形俊太郎と一緒に桃井一刀流小倉道場に張り付くことになった。伊東の脱退後、山崎は組長として実働部隊を率いており、今は監察ではない。
「道場主が出て行くけど、どうする?」
数日後の夕方、近くの店の二階から道場の門の方を見て、洋子が言った。年の頃は四十代前半だろうか、中肉中背で瞳は多少鋭く、肌は少々日に焼けている。歩き方も腰を落とした剣の達人独特のものだった。
「私が後を追いましょう。他に誰か来るかも知れませんし、天城先生は引き続きここで見張っていてください」
「うん…。くれぐれも気をつけてね、悟られないように」
「はい、では早速」
洋子に対し、尾形は同僚でありながら敬語を使っている。彼女が剣術師範という肩書きを持つためだが、正直言って少しこそばゆい。それでも自身が敬語で話さないのは、幼い頃からの刷り込みが主に原因だろう。
 秋の夕日の下で道を歩いていく尾形を見やって、洋子はほっと息をついた。そろそろ動きがあってもいい頃だろうと思っていたのだ。この数日、小倉宗佑なるあの人物は、ほとんど道場の外に出たことがなかった。稽古中に発せられる気合いのこもった声は毎日響いていたし、門人も数十人ほど来てはいたので、いるのだろうとは思っていたが。
 また昨日の夕刻に監察方の情報交換会議で聞いた話では、元門人として小倉道場に行った新撰組の隊士たちへの、一部の者の態度が悪かったらしい。道場主自体は前とそう変わらぬ態度だったし、後継者に指名されている兄弟子も普通に応対してくれたが、十人ほど明らかに敵視している者がいた。単なる佐幕派への反発かと思ったが、殺気めいたものも感じられて普通ではなかったらしい。
「普通、後継者には知らせないわよね…」
その話を聞いたとき、洋子はそう呟いたものである。もし計画が成功しても、後で家族や道場の門人たちが惨い目に遭うことは十分に予測できた。道場を続かせる気ならば、後継者は知らないようにしておくだろう。
「と、あれは…」
見覚えのある巨漢が、道場の中に入っていく。注意して見ていると、数分後には再び出てきた。門人と思しき者の見送りを受けて、小倉と同じ方角に歩いていく。
「これはちょっと…まずいかも知れない」
嫌な予感がして、洋子はそう呟いた。

 

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