るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十四 池田屋事件(1)

 旧暦五月と言えば、梅雨の季節である。壬生屯所の周りでも、雨が降っていた。
「ああ、その話ならちらほら聞いてますよ」
と、洋子は何気なく言った。近藤、土方ともに彼女の顔をのぞき込む。
「皆さんは買い物なんかご自分でしないから聞いてないだけであって、十日くらい前から世間の噂には上ってますからね。──しかしまあ、本気ですかねえ」
と言ったのは、『その話』の内容についてである。
 ──来る六月二十日前後の風の強い日に、京の市中の各所に火をかけて御所に乱入し、参内してくるだろう会津中将松平容保を斬り殺して孝明天皇を萩かどこかへ連れ出し、倒幕の義軍を上げようというのだ。常人なら考えつかないことだし、第一蜂起の人数は数十人程度らしい。それだけで出来るか、軍事的にもはなはだ疑問である。
「蜂起の人数は、最終的に数百人程度に達するという情報もある。これだけいれば不可能でもあるまい」
「軍事的には、ですね。──で、私を呼び出したご用件ってのは」
「葵屋とのつなぎ」
土方が短く言った。無論、すでに自前の諜報網も最大限利用してはいるのだが、それだけでは情報の取り落としがあるかも知れない。大体諜報活動の中心になっているのは監察だが、彼らはもともとが町人や脱藩浪士の出で御庭番衆ほどの専門性はない。
「分かりました。では、今から早速行って来ます」
と応じて、彼女は部屋を出た。

 「やれやれ、見廻組がこうまで当てにならんとはな」
翁はこの数ヶ月、そう言って自室で嘆息することが多い。
 今年(1864年)になって幕府は、新撰組と並ぶ京都の組織として見廻組を作った。新撰組の母体である浪士組が失敗した経験をふまえて、旗本の次男、三男という身分の者から組織されたのだが、これが見事に腰抜け揃いなのだ。
 よく考えてみれば無理もない。彼らはこの二百数十年間ほとんど殿様と呼ばれてふんぞり返り、無為徒食してきた連中である。それが三百人集まったところで何も出来はしないのだ。旗本の株を買ったり、洋学に通じているという理由で採用された一部の者はともかく、先祖代々の旗本である大部分の者はほとんど無能者の集団だった。
「とにかく、当てになるのは与頭の佐々木唯三郎と肝煎りの数人のみとあっては、組織として役に立たぬ。近々騒ぎが起きようとしているときに」
「あの、翁」
そこに、お増が部屋の外から声をかけた。
「洋さんがいらしてるわよ」
「そうかい。客間にお通ししてくれ」
応じておいて、なおもしばらくの間報告の紙切れをみつめる。ため息混じりに漏れた台詞は、敵に対する以上に強烈な殺意を秘めていた。
「やはり、まずは足場を固めることじゃな。闇乃武を追い出して」
類似組織はいらん、と翁は思っていた。

 「お久しぶりです」
と、洋子は言って頭を下げた。
「そうですな。去年の初冬でしたか、前に静様にこういう形でお会いいたしたのは。急ぎばたらきの盗賊どもを倒した翌日に…」
「ええ、それから色々お世話になってます」
お増辺りは、宴会のあとは完全に洋子の愚痴聞き役である。会津守護職の動向などは余り話さないのだが、斎藤、土方など上官への愚痴はよくこぼす。その内容は、稽古がきついだの何だのほとんど愚にもつかないことなのだが、たまに自分が世話した隊士が処刑されたりすると愚痴も暗い雰囲気になる。
「今度またごゆっくりなされ。時間のあるときにでも」
「はい。──では、そろそろ本題に入りたいんですが…」
恐らく知っているだろうな、と思いつつ洋子は訪問の経緯を説明した。

 「ほう、土方殿が」
翁が最も驚いたのは、彼女の訪問が実は土方の指示によるものだということだった。今回の件で功績を上げ、一気に新撰組の名を天下に轟かすつもりだろう。そのためには騒動に関する正確な情報が欲しい。首謀者、規模、準備会合の場所…。
「ええ。こことの繋ぎを私に任せると」
洋子はそう告げた。翁はやや表情を変える。前回までとは違い、今回は新撰組の正式な隊務の一環としてここに来たのだ。
「それで、もし何か分かったら教えてくれませんか」
「分かりました。静様のご要請とあっては協力せざるを得ませんな」
そう言って微笑する。洋子はほっとして礼を言い、帰っていった。
 「いいんですか、翁」
と、帰った後お増が聞いた。将軍直属の御庭番衆が、新撰組などの仕事に協力しても大丈夫なのかと言いたいのだ。
「いいんじゃよ。我らはもともと情報を集めるのが仕事。じゃが集めた情報を用いて浪士たちを堂々と捕縛する権限まではない。まして今回は事が事じゃ」
「まあ、それは確かにそうですけど…」
頷かざるを得ない。見廻組がもう少し当てになれば、彼らの存在をちらつかせて新撰組を牽制することも出来ようが、あの無為徒食ぶりではそれも無理だ。京都守護職の会津藩、所司代の桑名藩などの方が遙かに機敏に活動している。
「おまけに、闇乃武は例の緋村抜刀斎にかかり切りという。色仕掛けで落ちるような人斬りでもあるまいにな」
何を考えているのか、あの老人は。翁はそう不満を募らせていた。

 「あ、そうか。今日、斎藤さん市中巡察か」
屯所に戻ってきて道場に出た洋子は、嫌いな人間の顔が見えないのでほっとした。これで普通に稽古が出来る。
 この頃、洋子は新撰組内でもひとかどの使い手に成長していた。そろそろ市中巡察に出ても大丈夫だろうと自分では思うのだが、未だに身分は見習い隊士世話役のままである。切腹の介錯役や斬首の役さえ本人は一度もしておらず、どうも幹部連中がよってたかって彼女をそういうことから遠ざけようとしている風なのだ。
《まあ、それはそれでいいんだけどね》
人殺さずに済むんだから、と彼女は思っている。ただ、今回の騒動に関しては嫌な予感がしていたので、敵と衝突する前に個人的に何かやっていたら有利かなとは思う。
 適当に手の空いている平隊士を見つけ、稽古相手をさせる。巷での彼女の剣の評は『鉄を貫くほどの破壊力はないが、隙を見抜く目に優れそこを正確についてくる』となっていた。もともと腕力ではどうしても男どもには勝てないので、別のやり方を模索するしかないのだ。先手を取ることは難しいが、これが彼女なりの戦い方である。
「ほら、攻めてくる!」
意図的に隙のある構えを取り、打ち込ませる。太刀筋を見切ってかわし、或いは竹刀で真っ向から受け止めるのだ。そして反対に攻勢に出る。
「随分上達してきたな、洋子さんも」
沖田はその姿を見て思った。もう少し磨きをかければ、副長助勤の面々とほぼ変わらぬ腕前になるだろう。と、そこに土方が姿を見せた。
「沖田、ちょっと来い」
「あ、はい」
返事した途端、軽く咳き込んだ。土方がやや眉を寄せたが、沖田が平気そうな表情なので敢えて追及はせずにそのまま自室へ案内する。

 「禁裏様を長州へ!?」
冗談でしょう、と言った表情で沖田は声を上げた。
「冗談ではない。現に長州系の浪士どもが最近しきりに潜入している」
「にしても、無茶ですよ。誰がそんな計画を…」
「それを調べて、出来れば首領を捕まえるのが俺たちの仕事さ」
と、土方は言った。京都市内の地図を広げている。
 去年の『八月十八日の政変』で京都政界を追われた長州藩は、失地回復のために必死なのだ。諸藩の過激浪士もほとんど長州藩に合流し、挙兵の機を伺っていた。
 現に昨日も長州系と見られる何者かに、会津藩士や桑名藩士が斬られている。このところ続発する人斬りには、必ず長州系の影があった。
「これだけでも、長州が密かに勢力を増しつつあるのが分かるだろう」
「それはまあ、そうですけどねえ…。いくら何でも非常識な」
「ま、向こうさんも必死なんだろう。窮鼠猫を噛むとも言う」
そう言って土方は、地図を指しながら説明を始めた。
「ここが長州藩邸だ。で、浪士どもが主にいるのがこの三条界隈の旅館街。諸藩の脱藩浪士もいるから、誰が計画の中心にいるかまでは今のところ判断つかんが、間違いなくこの界隈に計画者どもがいるだろう」
「ふうん。で、さっき監察方が総出で行ったのはこの付近ですか」
土方は苦笑して頷いた。見ていないようで、この若者はちゃんと見ている。
「ああ。もう一つ、蜂起のための武器の隠し場所も調べさせてる」
「目星は?」
「ある程度はな。しかし確定までは行っていない」
彼らとて御庭番衆の情報を、全面的に信用するわけではない。あくまでも参考程度に使うというだけの話で、まずは自前でも情報収集を行うのだ。
「何にせよ、急いだ方がいい。他の連中に先取りされる前に捕まえることだ」
そう言って、土方は地図を丸めた。