るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十九 人事異動(2)

 「あの腕前なら、私の直属でやれないこともないでしょう」
斎藤が言った。土方が考え込んでいる。
「ただ、井上さんが言ったようなことは昨日の模範稽古ではなかったですよ。もっとも、数日事務に忙殺された後の私相手ということはあるでしょうが」
「──取りあえず、重症ではないと言うことか」
呟くように応じ、また考える。御庭番衆が今日明日にも動き出すような事態ではないらしいと判明しただけでも少しはほっとした。
「ならもう少し様子を見よう。どうせあと数日は巡察は無理だ」
どうせ本格的な改編は伊東一派が来てからだ。或いは洋子の配置変えだけを先行させようかとも考えていたのだが、この分ではまとめてやって構わないだろう。
 伊東甲子太郎という、まだ見ぬ男のことを考えると土方としても緊張せずにはいられない。近藤が伊東のことをひどく尊敬しており、ひょっとすると転向さえしかねない雰囲気だったのだ。今はまだそうでもないが、数年後には…。

 

 京都守護職へ差し出す新入り隊士の名簿を洋子が書き終えたのは、昼過ぎだった。名簿には名前の他に剣の流儀、位階、出身地などを書き添えなければならず、それらは入隊希望書を出したときの資料が全てなのだ。字が綺麗ならば問題はないが、汚いか極端なくせ字だと読みとるのに一苦労で、予想外に時間を食ってしまった。
「取りあえずこれを土方さんに提出して、それから所司代やら町奉行やらに出す分を書かないと。我ながら大変だなあ」
「私がまとめて出そうか?」
山南が言った。他の隊士の書いているものもある。
「そうですね、でも…」
「洋さんはいますか?」
そこに沖田がやってきて、廊下から声をかける。
「ああ、いるよ」
「ちょっと彼を借りていいですか? 四半刻くらい」
モロに顔をしかめる本人の気持ちを知ってか知らずか、山南はあっさり了解する。がらっと扉を開けて入ってきて、嫌そうな顔に苦笑しつつも沖田は彼女を連れ出した。
 「──またですか」
「ご名答。さすが洋さんだ」
廊下を歩きながら話す。誉められても少しも嬉しくない、と洋子は思った。
「斎藤さんがね、事務応援が終わったらまた鍛え直すって。──実際向こうは向こうで大変らしいよ、色々と」
「斎藤さんの場合、少しくらい自分で苦労した方がいいんです。今まで人に散々苦労させて来たんですから」
沖田はクスッと笑った。軽く咳をして続ける。
「けどまあ、毎日書き物ばっかりだと身体もなまるし。気晴らしに運動しておいで」
不承不承頷く。道場まで送ってから二人は別れた。

 

 伊東たちが京都入りしたのは、元治元年の十二月八日だった。
 助勤以上の幹部でなければ紹介されての挨拶はないので、洋子が彼らを見かけたのはその翌日である。屯所を案内されて道場に来た時のことだ。その時は稽古中でもあり、黙礼しただけで具体的なやりとりはなかった。
 だがそれから二、三日経った頃。宿直だった洋子は自室でうたた寝をしていた。何やら声がするのでハッと目を覚ます。庭に出た。
「──伊東先生。どうかなさいましたか」
記憶を辿るのに数秒かかったが、庭で立っている人物を見てそう訊いた。
「──君は?」
振り向いた伊東は、なかなかの美男子だった。旗本と言っても通用する。
「伍長の天城洋です。昨日から宿直で…」
「ああ、五月蝿かったかな。失礼」
「いえいえ。この寒いのに外に出てらっしゃるもので、何かあったかと」
見た感じ、十代半ばの少年にしては言葉遣いもきちんとしている。訛りからして江戸の人間らしいが、今回の隊士募集で見つけたのだろうかと伊東は洋子に興味を持った。
「剣はどこの流派かい?」
「えっと、一応近藤先生の道場で居候していて、でも実際は斎藤さんに習ってましたから…。どうなんでしょうね」
「試衛館にいたのかい」
洋子は、自分が試衛館にいることになった経緯と新撰組に入ることになった経緯を簡単に説明した。伊東は微笑んでいる。彼にすれば、新撰組の中枢である近藤、土方、沖田などにそういう面があるとは少々意外だった。
《少しは話の分かる相手らしいな》
「それで、さっきからここで何をなさってたんです?」
洋子は話題を戻した。
「ああ、ちょっと早く目が覚めたものだからね。気を締めてたんだ」
彼女には、気を締めるという言葉の意味がよく分からない。
「知らなくても大丈夫だよ」
「そうですか。──あ、そうだ。伊東先生は、江戸では剣術だけでなく他のこともお教えになっていらしたんですよね」
「そうだよ。頼山陽の日本外史などをね」
「じゃあ、それ私にも教えて下さいませんか?」
洋子としては、昔、古典を習っていた時の延長でそう言ったのだが、これがどういう受け止められ方をされてどういう結果に繋がるかは考えてなかったようである。

 「あいつが伊東に!?」
それからしばらく経ち、大晦日まで十日足らずという時。土方は沖田から洋子と伊東が接近している旨の話を聞いた。思わず大声が出そうになるのを、沖田がたしなめて
「静かにして下さい。まあ古典習ってる程度ですから、問題は少ないと思いますが」
「──そうか。で、隊務の方は?」
古典と言っても伊東の場合、尊王攘夷思想の淵源である水戸学の要素が混じっているのは間違いない。それ自体が新撰組としては若干問題があるのだが。
「そっちは今まで通りこなしてますよ。最近は江戸で募集した新入り隊士専門になってますけど。斎藤さんが古参隊士中心で、喧嘩は一時期に比べてかなり減りましたね」
彼女とて、他人が忙しそうにしていれば不満は言わないのだ。
「隊務に支障がないように、その日の仕事が終わった後で帰るのを少し遅らせて古典の副読をやってるようです。他の平隊士たちも一緒に」
土方は深刻な表情で考え込んでいる。沈黙が長く続くので
「じゃあ、僕はこれで帰ります」
危険な雰囲気を感じ取ったのか、沖田はそうそうに部屋を出た。

 土方は伊東が好きではない。水戸学の思想は幕府にとって危険すぎるし、江戸でも高名な学者だっただけに影響力は大きすぎる。嫌悪は嫌悪でも軽蔑ではなく恐怖に近い。単なる京都守護職御預の浪士組に過ぎない新撰組に、伊東が加わって政治色が濃厚になればどうなるか。危険な方向に行き、ついには京都守護職と対立することになりはしないか。近藤は大丈夫だと言うが、土方としては心許ない。
 加えてもう一方の主役は洋子である。もともと旗本の娘でそれなりの教養があった彼女を引き取って、この四年間は専ら剣の修行ばかりさせていたのだ。古典に興味を持ったとしても無理はないし、止めるだけの理由もない。だが、彼女が伊東甲子太郎と接近することは危険すぎる。なまじ若いだけに、伊東の過激な論に同調する可能性さえあった。
「とは言え、あいつの精神状態がああではな…」
あからさまに学習を止められない以上、接触する時間を減らせばいいのだが、井上源三郎配下から変えれば、ただでさえおかしくなり始めている洋子の精神状態が一気に悪化しかねない。彼女の正体が漏れないようにするには、まず目立たないようにする必要があり、精神状態がおかしくなって自分から切腹の介錯役などを希望するようでは困るのだ。隊内で役職を勤めている意味においてはある程度名前が広がってもいいだろうが、それも正気の枠内での話である。
「さてどうするか…」
土方は思案していた。隊内の人事は、基本的に彼が握っているのだ。

 

 そんな時、斎藤を巡ってちょっとした事件が起きた。
 事の起こりは、数ヶ月前の手入れだ。ある料亭に踏み込んだ斎藤とその部下数人は室内で浪士たちと戦い、斎藤が料亭のお運び(現代で言うならウェイトレス)を巻き添えにして殺してしまったのである。そしてこれを恨んだ彼女の妹が斎藤を殺すと言って襲いかかり、さすがに返り討ちはしなかったものの屯所に連れてきて騒ぎになったのだ。
「──ふう。ったく、斎藤さんもとんでもない人間だ」
その妹、年齢は自分よりやや幼いくらいの少女を見やって洋子が言った。事が事だけに殺すわけにも行かず、取りあえず彼女が預かることになったのだ。
「あれだけの腕前なら、刺す前に気づいて止められそうなものなのに。敵しか見えてないって誰かが言ってたけどホントみたい」
自室の襖を閉め、やれやれとため息が出る。うつむいて一言も発しない少女に
「けどね、復讐なんてのはやめなさい。特に彼には、返り討ちに合うのがオチ」
しゃがんで話しかける。反応しない彼女を見やって
「少なくとも、今のあなただと無駄死にするだけ。絶対に勝てない」
「別に、勝てなくてもいいんです」
と、少女は顔を伏せたまま言った。驚く洋子に続けて
「けど、姉が残してくれた金もなくなって、もう生活できないんです。本当は明日、自殺するつもりで。そうしたら無性に姉を殺したあの男が憎くなって、どうせ死ぬんなら返り討ちに合ってもいいから恨みをぶつけてやろうって──」
「──あんた」
洋子は半ば呆れ、半ば同情して呟いた。
 見れば服はところどころ破れ、あて布も数カ所ある。腕は細く、恐らくかなり長い間ろくな食べ物を取っていないのだろう。こりゃあいくら斎藤さんでも返り討ちは気が引けるだろうと思うほどにボロボロだった。
 とにかく食事取らせて、細かいことは明日以降だと洋子は結論づけた。

 

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