るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十八 鴨を巡って

 洋子が縁側で竹刀を振るっていると、人の気配を感じた。そちらを見ると芹沢鴨という男が、部下を連れて歩いてきている。軽く会釈すると
「お前さん、見ない顔だな」
「最近入ってきたもので。芹沢先生には、お初に──」
「芹沢先生!」
そこに、彼を呼ぶ声がした。そちらを見ると沖田だ。
「沖田君か。何だ、いきなり」
「こっち来て下さい。珍しいものがありますよ」
手招きしている。芹沢は何とはなしにそちらに向かった。それを見送っていた洋子は
「こら、洋」
いきなり背後から竹刀の先端を襟に突っ込まれ、引き寄せられた。こけそうになるもギリギリで体勢を立て直し、見上げると簾頭に悪人面の男がいる。
「何ですか、斎藤さん」
「部屋で大人しくしてろと言ったろうが、この阿呆。人が少し目を離すとすぐに出てきやがって」
斎藤は少し立つ位置を変え、芹沢から洋子が直接見えないようにした。それに本人が
「だって、部屋にいたら暇で暇で。やることないんですもん」
「阿呆。だからといってこんな所に出てくるな」
「何でですか? 私は見習い隊士──」
   バゴッ!!!
斎藤は殴りつけて気絶させ、引きずりながら彼女の体を部屋まで運んだ。

 洋子が新撰組に入って間がない、文久三年八月末。この頃の新撰組は、芹沢鴨と近藤勇の二人が局長だった。芹沢の方が格上で筆頭局長ということになっているが、芹沢派と近藤派との間では水面下で主導権争いが続いている、そういう時期だ。当然ながら近藤派の者たちは、芹沢との関係は余り良くない。誰とでも仲良くする沖田はまだいいが、斎藤は決して好かれてはいなかった。
 そんな中、斎藤と沖田は芹沢に洋子の正体がばれないようにするので必死だった。部屋で大人しくしているように本人に言っても聞かないし、かと言って放置するわけにも行かない。何しろお梅という悪い先例がある。
 お梅は芹沢の愛人で、実は人妻だ。夫は借金の催促に妻を寄越したらしいのだが、芹沢が彼女を襲ってそのまま愛人にしてしまった。もし芹沢に洋子が手篭めにでもされようものなら、あらゆる意味で最後である。女とばれればそうなることが懸念され、そのため斎藤と沖田は可能な限り接点を持たせないようにしているのだ。
 「ちゃんと理由まで説明したら、少しは部屋で大人しくしてるんじゃないですか?」
「あいつがそんな素直な奴とは思えん」
食堂での会話だ。それぞれ煮物に醤油を大量にかけながら話し合っている。京都の薄味にはまだ慣れない。
「そうかなあ」
自己流に味付けした煮物を一口食べた後、沖田は首をひねった。
「大体、お梅との一件まで説明するわけにもいかんだろう。悪影響が出る」
斎藤の台詞に、一瞬黙った後で頷いた沖田だが
「意外と心配性なんですね、斎藤さんは」
「──というわけでもないが」
斎藤は言いかけ、口をつぐんだ。
『俺でも唖然としたのに、あいつがただで済むはずがない』
芹沢に愛人がいること自体は、ひょっとしたら洋子ももう知っているかもしれないが、それでもその経緯まで知る必要はない。それが師匠としての斎藤の判断だった。

 その翌日、朝食を食べ終わった近藤のところに、芹沢が急に姿を見せた。
「近藤君」
「これは芹沢先生、何か?」
少々緊張して迎える。座布団を勧めるも、相手は立ったまま
「最近、新しいのが入ってきたようだな」
「土方君などが、方々の道場を回っているようでして」
内心どきりとしつつも、近藤は平然を装って応じた。それに対し芹沢は
「そうか、ご苦労なことだな。しかし、筆頭局長たる私に顔見せもしないとはどういうことだ?」
「まだ募集中ということもあり、集め終わったところで芹沢先生にご紹介しようと思いまして。先生も何やらお忙しいようですし」
「──ふん、そうか」
呟くように言うと、芹沢はじろっと周囲を見回して子分たちと一緒に帰っていった。



 それから少しして九月になった頃、洋子たちは夕食を取りに町に出た。琵琶湖周辺で評判の鴨鍋の店が、のれん分けして京都に出てきたというので食べに行くのである。辺りは既に薄暗い。
「何で斎藤さんまでついて来るんですかね、呼んでもないのに」
斜め後ろからついて来る師匠をチラと見やって、洋子は誰にともなく不満を述べた。並んで歩いている沖田が苦笑して
「そう言わない。それを言うなら原田さんだって似たようなものなんだし」
一行の先頭を切って進んでいる、背の高い男を見上げて応じる。
「そりゃ、原田さんはああいう人だから仕方ないですけど」
洋子はなおも嫌そうだった。実を言うと屯所の外に出るのも先月上旬に葵屋に行って以来で、折角楽しみにしていたのに、斎藤がいるせいで半分以上潰されたような気分なのだ。
「あの店だろ?」
そこに、当の原田の声がした。それらしい店の看板を指さしている。
「そうです。先行って席取っててくれます?」
「ああ」
そう言うと、彼は小走りで先に向かった。

 洋子たちは、店に入ってすぐの所に席を取った。簡単に間仕切りされた空間の中央に鍋があって、こたつのように四人で囲む。斎藤と洋子、沖田と原田がそれぞれ対面で座るのは、師匠に叩かれたくない彼女の意向がかなり反映されている。対面の方が距離は遠いので、少しはましだろうという論理だ。
 通路側の席になった原田に注文を任せ、洋子たちは食べ始めた。酒も回るが、まだ子供の彼女は一口飲んだだけで咳き込んでしまった。
「無理して飲まない方がいいよ、洋子さん」
沖田が背中をさすりながら言う。頷いたところに今日の目的である鍋が来た。鴨鍋と言っても店によって様々だが、この店のは鴨の薄切り肉を野菜や豆腐や白滝と一緒に鉄鍋に入れ、醤油や酒・砂糖で味付けしたタレも入れて煮込むというもので、運んでくる途中からいい匂いがする。原田が中央の台に置いてある炭に火をつけて、鍋を載せた。
「んー、いい匂いがするぜ」
「一人で食べちゃわないで下さいよ、原田さん。他に三人いるんですから」
沖田の声に、既に酔いが回り出している原田は軽く手を振って
「分かってるって。──お、煮えてきた煮えてきた」
素早く鍋に箸をのばす。他の三人も食べ始めた。

 半刻後、ほとんど食べ終わって酒のとっくりを一人で三本空け、すっかり酔いの回った原田は謡曲を歌い始めた。残る一本は斎藤の傍にある。
「相変わらず上手いですね、原田さん」
水を飲みながら洋子が言った。傍の沖田が
「そうだね。──原田さん、良かったらあと一曲──」
そこで不意に、斎藤が沖田を止めた。不審に思う間もなく、外から危険な気配を感じて沈黙する。その様子に目を瞬かせた原田も、程なくそれに気づいた。
 芹沢が、子分数人を引き連れて店内に入ってきたのだ。ぐるりと見回して見知った顔に気づき、洋子たちのところに歩いてくると
「鴨鍋か。私を食う気か?」
その場の四人は一瞬言葉に詰まるも、すぐに沖田が笑って応じた。
「いやだなあ、そんな気は全然ありませんって。ただ単にここが流行りだって聞いたから、どんな味かみんなで食べようと思って」
「──まあいい。ともかく──」
芹沢が視線を少しずらすと、自分を見ている少年──洋子がいた。数秒ほど互いに身じろぎ一つせず、相手の目をじっと見つめている。
「見ない顔だな。何者だ?」
「──芹沢先生」
低い声で言ったのは、斎藤だった。その傍で沖田が洋子の袖を引く。
「ご自分が知らないからと言って、新入りをいちいち詮索するのはやめていただきたい。隊士の募集を我々に任せている以上、結果についても口を差し挟むのを慎むのが礼儀というものでしょう」
その台詞に、芹沢の子分の一人である平間が
「何だと!?」
刀に手をかけた瞬間、喉元に脇差しを突きつけられる。顔の傾きすら全く変えずにそれをしてのけた斎藤を見て、平間の顔に冷や汗が流れた。
「分かった」
そこで、芹沢の声がした。斎藤を一瞬見据えてから背を向け
「無粋な真似をしたな。帰るぞ」
ゆっくりと歩き出した。子分たちが少々慌てた様子で後を追う。

 彼らの気配が消えたところで、沖田が洋子の袖から手を離した。彼女は息をつくと
「別に自己紹介くらい、しても良かったんですけどね」
「阿呆。お前は黙って座ってろ」
脇差しを鞘に収め、斎藤は内心安堵しつつ応じた。少女は鍋の方に視線を戻しつつ、上目遣いで
「一つ言っておきますけど」
再び息をつきつつ、やや低い声で切り出す。
「斎藤さんたち以外にも芹沢先生の話を聞く相手は、幾らでもいるんですからね」
斎藤と沖田は、横目で視線を交わしあった。それを見ながら
「隠そうとすれば、返って疑われるんですよ?」
   バゴッ!!!
「何も知らんくせにゴタゴタ抜かすな、この阿呆。そんなことは」
「言いたいことはよく分かりますけど、この場では言わない方がいいと思いますよ」
沖田が斎藤を制し、脳震盪を起こしてひっくり返っている洋子を見やった。斎藤は鞘ごと持った刀を床に置くと手酌で酒を注ぎ、無言で一気に飲み干した後
「分かってる。──あの人さえいなくなれば、こいつも鴨鍋くらい自由に食えるようになるんだがな」
「──ええ。僕らがついて行かなくても」
声を落として会話を交わす二人を見て、原田がニヤリと笑うと
「じゃ、しきり直しで飲み直しと行くか。──おーい、酒一本追加!」
「あ、はーい!」
店の者が応じて、新たに冷酒を持ってきた。その頃ようやく、洋子が意識を取り戻す。

 それから約半月後、芹沢は暗殺された。
 その葬儀後、洋子は忙しそうにしている幹部たちの隙を見て町に出ると、幾つかの女が使う品を買った。そして夜になって静かに帰ってきて、寝泊まりしている八木邸の門をこっそりくぐった瞬間
   バキッ!!
「阿呆が。日暮れ前に帰ってこい」
内心甘かったかと思いつつ、痛そうな顔で師匠の顔を見上げると洋子は訊いた。
「だって、それだと他の隊士に知られるじゃないですか。いいんですか?」
「状況が変わった」
とだけ斎藤は応じ、相手が目を瞬かせるのを横目で見やりつつ歩き出す。そして
「いいから飯だ。お前が帰ってくるのを待ってたんだぞ」
「あ、はい!」
洋子は急いで、彼の後を追った。

 

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