るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の十一 風邪

 新撰組では、伍長以上になると屯所の外に家(休息所)を持つことが出来る。通例そこでは愛人を囲っているのだが、洋子は盗賊退治のあと愛人もいないのに家を持つことにした。噂が立ったが何のことはない、四六時中男ばかりの環境が嫌だっただけである。


 「洋…いや、天城君は?」
土方が見習い隊士の詰める部屋の前で訊ねた。昨日の夜は非番だったので洋子は家に帰ったのだが、まだ姿を見せないのだ。もう昼近くになる。普通なら逃げたかと考えて監察の仕事になるのだが、彼女に限ってそんなことはないだろう。
「いや、存じませんが」
見習い隊士たちの一人が応じる。そこに副長助勤の沖田が通りかかった。
「どうしたんです、土方さん」
「ああ、沖田君か。洋はしらんか」
「洋?」
一瞬後、沖田はこう応じた。
「そう言えば、昨日一昨日って体調良くなかったみたいですよ」

 三日前の手入れ(この場合、志士たちの密会場所を押さえて捕まえること)の関係で、本来帰って休養するはずの日も洋子は屯所に詰めていた。その直前に引きかけていた風邪をこじらせてしまったらしいのだ。
「ったく、あの阿呆が」
「阿呆は風邪を引かないんですよ、斎藤さん」
「馬鹿は引かなくても阿呆は引くんだ」
非番という理由で彼女の様子を見に行く羽目になった斎藤が、見るからに嫌そうな顔と声で言った。
「体調が悪いなら言えばいいんだ。昨日は平気そうだった癖に」
沖田は苦笑した。そして門前で立ち止まり
「じゃあ、早く治すように伝えて下さい」
斎藤は、相変わらず不機嫌そうに頷いた。

 

 「ふう。完全にこじらせたわ…」
長屋の一角で、力なく洋子は呟いた。身体が熱っぽいのは昨日からだが、加えて今日は頭と喉が痛いし咳も時々出る。食欲もなく、朝から横になっていた。
「ここ数年、風邪なんて引いたことなかったのに」
前に風邪を引いたのは試衛館に来る前だ。ひどい熱があったのに働かされ、ものを落として真冬なのに店の外に叩き出された。結果通りかかった沖田に拾われ、試衛館に連れて来られた後紆余曲折を経て現在に至る。
「おい、洋。俺だ、開けろ」
そんなことをぼんやり思い出していると、聞き覚えのある声がした。そう言えば斎藤さん、今日非番だったっけと思いつつ、起き上がって戸を開ける。
「何の用ですか、斎藤さん」
その声は、明らかに枯れていた。

 「副長に言われて、様子を見に来た」
仮病じゃないことだけは確実だなと思いつつ、中に上がった彼は言った。頬が紅く、顔の様子も普通ではない。
「そうですか。治ったらまた出てきますから、早く帰った方が良いですよ。移らないうちに。私のせいで風邪引いたとか言われても嫌ですから」
そこまで言って、洋子は咳き込んだ。妙に冷たい。囲炉裏の反対側で顔を背けている。
「沖田君から話は聞いた。昨日一昨日からだろう」
「──それが何か」
声に勢いがない。周りを見ると、昨日から食事をした形跡もなかった。
「何故、言わなかった」
「言っても、どうせ何もしてくれないでしょうから」
「何……?」
洋子の台詞に、訊いた側は冷たい怒りを覚えていた。それに気づかず、続けて
「風邪引いても、どうせ自業自得とか言ってまたきついことさせられる。だったら無理してでも元気な振りしてた方がましでしょう」
「──お前は、俺をそういう奴だと思っていたのか」
声の調子がおかしい。無言で立ち上がり、いきなり洋子を抱き上げて
「いい加減にしろよ、この阿呆が」
約三年、殆ど毎日顔を合わせてきた彼女がぞっとするほど冷たい声。身体が凍り付いた。
「俺は薬屋ではない」
それだけ言って、斎藤は洋子をもといた布団に寝せた。寝せられた側は何がこの男をそうさせたのか分からず、呆然としている。
「寝てろ。後は俺がやる」
厳しい声で言われ、頷かざるを得なかった。
 洋子は、程なく眠りに落ちた。

 「母上…母上…」
寝言が聞こえる。昔のことが夢に出てきたのだろう。
「母上…そっち行ったら駄目です…。母上、そっちは…」
無意識のうちに手が宙に伸びる。苦しげな表情で、必死に声を出しているのだ。
「そっちに行けば…」
力なく腕を落とし、まるで起きているかのように悲しげな顔になる。
「どうして…?」
呟いた瞬間、ヒッと喉が鳴った。息が止まる。
「父上…?」
この台詞に、斎藤はぎょっとした。仕事を中断し、洋子の傍に来る。
「父上まで…何故ここに?」
彼女は笑っていた。懐かしげな、幸せそうな笑み。
「あ、でもそっちは…。え、いいんですか」
病人とは思えない、さっきとは別人のような穏やかな顔と声。咄嗟にヤバいと思った斎藤は、洋子の身体を抱き起こした。異常なほどに熱い。
「じゃあ…」
「起きろ、この阿呆が!!!」
耳元で怒鳴りつける。全身をビクッとふるわせて、洋子は目を覚ました。
「──」
瞬きをしきりと繰り返している。その彼女に向けて、怒鳴る寸前の声で
「阿呆が。死神も追い払えんのか」
言い切った。台詞の意味と状況が理解できず、洋子は少し呆然としている。
「──ああ、すみません…。懐かしくて…」
「すみませんで済む問題じゃないだろう。ったく」
そう言って再び寝せる。横になった彼女は、囲炉裏に戻った斎藤が何やら鍋の中をかき混ぜていることに気づいた。ものが煮える音に飛び起きる。
「いいですよ、斎藤さん。私、自分でやりますから」
慌てて立ち上がり、囲炉裏の傍にやってきて言う。そちらには一瞥もくれずに
「いいから寝てろ。こじらせる」
鍋には、粥と雑炊の中間のようなものが煮えていた。
「ですが…」
「命令だ。大体さっき死神に魅入られてた分際で」
そこまでこじらせる阿呆がどこにいる、と斎藤は言いたかった。口に出さなかったのは、気づかなかった自分の責任を彼なりに感じているせいだ。
「数日寝れば治る。大人しくしてろ」
「──はい」
言い争う気力がないのか、洋子は大人しく頷き、布団に戻って横になる。一息ついたと同時に咳き込んだ。外の様子では、もう夕方だ。
「いいんですか、仕事は」
「お前に心配されたくはない。と、出来たぞ」
斎藤が鍋の中のものを茶碗についで、布団まで持ってくる。その様子を洋子は唖然として眺めた。どういう心境の変化か理解できない。
「食え。毒は入っとらん」
「その、私…。今、食欲がなくて…」
「いいから食べろ。治るものも治らん」
そう言って、具入りの粥を箸で一口分取り出し、息を吹きかけて冷ましてから彼女の口元まで運ぶ。無意識のうちに口を軽く開け、それを食べた。
「さじでもあれば良いんだがな」
二口目を運んでやりながら、斎藤は言った。相変わらず洋子は呆然としたままだ。
「治るまでこっちにいろ、だそうだ」
相手は、黙って頷いた。

 洋子は、夜中にふと目を覚ました。囲炉裏の反対側、入り口の傍で斎藤が眠っている。服はそのまま、刀も側に置き、殆ど仮眠に近い。
「──死神、か…」
この男は、私の夢の中に出てきたものをそう呼んだ。
 あの時、自分はどこかの町を走っていた。母親の後ろ姿を追って。何故かそっちは自分にとって、行ってはいけない場所だった。そこに行けば恐ろしいことになると知っていたから、母親を止めようとした。行った先は別に川岸ではなく、立派な門構えの大きな屋敷だった。そこに母親は、自分の制止を聞かずに入っていった。そして立っていたら、父親が現れて自分の肩を抱き、一緒に入ろうとした。そこに斎藤が…。
 夢の中で見た両親は、死神の化けたものだろうか? それとも、本物の両親の霊が自分を呼びに来たのだろうか? 洋子は考えていた。
《本物なら、何故私を?》
理由が考えつかない。──あの世には知り合いも多いだろうし、寂しいことはまずない。私の様子を見て、あれならいっそあの世に来た方がいいとでも思ったんだろうか。
「──まあ、分からないでもないけどね…」
斎藤の寝顔を見て呟く。旗本時代から見たら、生活の全てに天と地ほどの差があるのだ。
 加えて私の性格もかなり変わったし、と思う。恐らくこんな性格でここにいることは、両親も望んではいまい。
 それでも、結果として両親の姿をした何者かが彼女を「行ってはいけない場所」に誘ったことに違いはない。そしてそれを止めたのが斎藤だ。おまけにその後、この男は別人かと思うほどに世話を焼いている。どういう心境の変化か知らないが、どうやら最低限の感情は持ち合わせていたらしい。
「ふう…」
洋子は息をつく。こいつが命の恩人だなどと認める気は毛頭ないが、仮にあれが本物だとすると、死んだ両親が自分たちの望んだ幸せを娘が選んでいないからと言って、その娘を殺そうとするのも随分身勝手な話である。少なくとも、娘の方は死ぬことなど望んではいないのだ。
「大体、あれが私をあの世に連れていく光景とは限らないじゃない」
昔の夢を見ただけかもしれない。そう呟いて、彼女は再び目を閉じた。

 

 翌朝、洋子は包丁の音で目が覚めた。
「──? うわわわっ」
声はまだ枯れているので叫べないが、慌てて跳ね起きる。斎藤が朝から料理を作っているのだ。立ち上がろうとした途端
「いちいち起きるな阿呆。寝てろ」
と、不機嫌そうな声がする。声の主は意外に器用な包丁裁きで煮物の具を切っていた。
「今無理したら、ぶり返して長引く。俺は早く屯所に戻りたいんだ」
「勝手に戻ればいいじゃないですか。私のことなんか放っといて」
「ごちゃごちゃ言わずに寝ろ」
言われて一息つき、洋子は布団の中に潜り込んだ。どういうつもりか知らないが、たまにはこういうのも悪くないだろう。鍋の中に切ったものを放り込んだ斎藤が傍に来て、彼女の額に手を当てる。
「熱は少し引いたな。後はその喉だ。声がそれでは仕事にならん」
「──はあ」
「ったく、早めに言えばこっちだって休ませたんだ」
洋子は黙り込んだ。病気になった自分をこの男がこうまで世話してくれるのなら言えば良かった。隠すまでもなかったのだ。
「──すみません」
「謝る前に治せ。死神の相手はたくさんだ」
そう言って、斎藤は鍋を吊している囲炉裏に戻った。会った本人に実感はないのだが、彼はあれを本気で死神だと考えているようだ。
「本物の死神かなあ、あれ」
「死人が病人の夢に現れて、どこかに誘う。疑われてしかるべきだ」
「そう決めつけるものでもないでしょうに。三途の川もなかったし」
「阿呆が。数秒前まで苦しげに呻ってた人間が、いきなり笑ってるんだぞ。おまけに身体は異常なほど熱いし、あれは死神だ」
斎藤が面倒そうに説明する。言われて洋子は思い当たることがあった。母親が病で死んだとき、最後に笑顔で宙に手を伸ばし、この世ならぬ何かを手にし…。
「──斎藤さん」
急に声が深刻になったのが、自分でも分かる。
「そうなった後死んだ人、見たことあります?」
「だから止めたんだ」
その返答に、洋子はぞっとした。あの夢が私を殺すつもりで何者かが見せた幻影であることは、ほぼ間違いない。そして、この男がそれを止めた。
「分かったら大人しくしろ」
彼女は頷いた。そして天井を見上げて心の中で呟く。
《私は大丈夫です、母上。こんなろくでもない師匠でも、私のこと心配してくれてはいるみたいですから。こっちで十分やっていけます》
会えて嬉しかったけど、と付け加える。私はもう、母上の手を煩わせるほど幼くはないです。いつかあの世で会う日まで、父上とお幸せに…。

 

 「洋さん、風邪は大丈夫なの?」
「はい。お陰様でどうにか治りました」
結局洋子は熱は引いても喉が治らず、四日ほど休んだ。五日目に斎藤が連れてきたのを、目ざとく沖田が見つけたのだ。
「今度からちゃんと早めに言うんだよ。無理しないで」
「はーい」
素直に頷いた彼女に、今度は原田が声をかける。
「お、治ったか。洋」
「はい。心配かけてすみません」
「斎藤に変なもん食わされなかったか? ちゃんと世話してもらったか?」
「はい。まあ一応」
と、そこに竹刀が飛んできた。
「何が一応だ。結局四日間ずっと寝てたくせに」
「寝てろって言った本人が、今頃それはないでしょうが」
洋子が食ってかかる。斎藤はいつもの顔で
「とにかく、お前のせいで身体がなまってしょうがない。行くぞ」
肩をすくめて、彼女はついていった。

 

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