昨晩は葵屋に泊まった洋子は、今日は早速京都市街へ出かけた。
「何はともあれ、京都に来たんじゃから数日ゆっくり観光してらしたらどうじゃ。奈良大阪にも知り合いがおるからのう、もし良かったら足を伸ばしなされ」
翁の言葉に深い意味はなく聞こえた。京都の地理に慣れていないとあとあと苦労するというので、彼女は取りあえず男装のまま観光に出た。
「へえ、ここが金閣寺か」
確かに金箔で覆われている。池に映った姿も豪華で美しく、さすがと言うしかない。金箔の色が周囲の緑の中でひときわ映えていた。
「こんなのもあるんだ、ふうん」
金閣を左に見ながら歩くと、右脇に竹でできた船の形をしたものがあった。その奥には小屋もある。由来のあるものらしい。
「いいなあ、こういうのも」
みんなはとっくに見ただろうな、と思いつつ、戻ってもう一度正面から見る。
「紅葉の頃にまた来よう」
背景の緑が朱や黄色に変わる、その姿も是非見てみたかったのだ。
そのあと近くの竜安寺を周り、枯山水で有名な石庭を見た。本当に水一滴もなく、砂利の中に岩が点在している。これで世界を表そうとしたという。
「何でこれが世界になるんだろう。わかんないなあ」
「俺もそう思う」
隣の、まだ元服もしてなさそうな少年がそう言った。
「大体こんなののどこが有り難いんだか。名所だって言うから見に来たけど、何のことはない。ただの砂利庭じゃないか」
「そうそう。──って、ちょっとやばくない?」
二人の背後から何やら物騒な気配がする。振り返った途端
「文句を言う奴は…」
正しく仁王の形相をした老僧が、二人の間に立っていた。
「見に来るな!!!」
「ひえええーっ!!!」
二人はほうぼうの体で、どちらともつかず一目散に逃げ出した。
全速力で走って寺の門を出たあと、息もつかずに二人は散々悪口を並べ立てた。
「文句を言って何が悪い。感じたままを言っただけじゃないか」
「そうそう、帰ったら絶対噂にして流してやるから」
少年は赤毛に刀を下げ、顔は女の子風である。だが歩き方が土方たちと似て、剣術に長けた者独特だった。洋子はまだその域に達していない。
「あんな訳のわからんもんを、よく今までありがたがって見に来てたよ」
「それにさあ、見に来るなはないと思わない? こっちは初めてなんだし、第一見ただけで子供だって分かりそうなもんじゃない。分かるように説明してほしいよね」
洋子はそこでふと我に返った。よく考えるとお互い初対面同士で、名前も全く知らない。
「そうだ、あんたの名前は?」
「俺? 緋村剣心だよ。あんたは?」
相手が余りにもあっさりと答えてのけるので、洋子は一瞬黙ったあと応じた。
「天城洋。よろしく」
「見た感じだけど、あんた剣術相当やってるね」
並んで二人歩きながら、洋子は言った。
「何で分かる?」
剣心は不思議そうに問いかける。
「だって、歩き方が違うからね。腰が沈んでる」
「そう?」
剣心は自分の腰を見つめた。どこが違うのかよく分からない。
「あんたくらいの歳でその腕前って、かなり小さいときからやってたんだろうね。どっかの道場の跡取り息子とか?」
「道場?」
剣心にしてみれば修行は比古清十郎との一対一で、道場などに入った経験もなければ、第一道場なるものを見た経験もない。首を傾げるのも無理はなかった。
「ねえ、どこの流派? 北辰一刀流? 神道無念流?」
「流派は飛天御剣流。戦国時代から伝わる一対多数の斬り合いを得意とする古流剣術で、俺は師匠と喧嘩してつい最近飛び出してきたんだ」
「ふうん…。飛天御剣流ねえ、あんまり聞かないなあ」
京都付近はともかく、関東ではその名を聞くことはほとんどなかった。
「それにしても、師匠と喧嘩して飛び出すなんていい度胸してるじゃない。どうしてそんな事態になった?」
どうも男言葉はぎくしゃくする、と思いつつ喋る。
「師匠が分からず屋なのが悪いんだ。時代の苦難から人々を救うのが飛天御剣流の理なのに、俺は修行さえしとけばいいって言って…。かといって自分が表に出る気は全くなさそうなんだ。今使わなくていつ使う気なんだろ」
剣心はそう言った。蹴られた小石があらぬ方向へ転がっていく。
「で、不満なあんたは飛び出してきたと。──かなりすごい度胸」
洋子は掛け値なしでそう思う。自分と斎藤の関係を考えた場合、喧嘩して飛び出すなど想像もつかなかった。まして沖田や土方などとの関係を考えると、借りを返すまでは飛び出せない。喧嘩はしても最後には向こうに決定権があるのだ。
「で、兄弟弟子はなんて?」
普通、師弟が喧嘩すると必ず止めにはいるのが兄弟子や弟弟子だ。特に皆伝持ちの兄弟子などはよく弟弟子を諫めたりするものなのだが。
「兄弟弟子? いないよ。俺と師匠の二人きりだ」
「でも、師匠にだって師匠がいるはずで…だろう。その人は?」
「その人もいない。師匠が継いでからすぐ死んだってさ」
言うまでもなくこれは飛天御剣流の運命によるものだが、この時の剣心にはその付近は分かっていない。まして洋子には分かるはずもないが、とりあえず天を仰いだ。
「つまり、あんたは師匠とずっと一対一で修行してきたわけ…か。そりゃ不満になったら飛び出すしかない…な」
男が使う語尾に言い換えているのだが、慣れないために言葉が詰まる。
「まあね。でも、悪い人じゃないんだ。悪党に殺されそうになった俺を助けて、育ててくれた。ただ、陰険でぶっきらぼうで意地が悪くて人間嫌いなだけさ」
その評価に斎藤の顔が浮かび、洋子は思わず周囲を見回してしまった。
「何か?」
「いや、うちの師匠のことを思いだしたんだ。そっくりの性格してるから」
それどころか、マジで条件反射的に頭を引っ込めそうになったのだ。そんなことを言ってるときに限ってあいつは背後から現れる。そして竹刀でぶっ叩く。
「俺もそう言ってはぶっ叩かれた。最後には慣れたけど」
二人は顔を見合わせて笑った。似たもの同士ではないか。
そして簡単に昼食を取り(お金は洋子持ち)、二人は二条城や内裏などを見て回った。と言っても外から覗いただけで、中には入っていない。そもそも警備が厳重なため入れないのだ。
「洋、次はどこに行く?」
「次って、もう夕方だし、そろそろ宿屋に…そもそもあんた、宿屋は?」
訊いてはみたが、食費さえろくそっぽ持っていない剣心が宿屋に泊まれるなどとははなから思っていない。返事は案の定だった。
「宿? 野宿だよ。いちいち宿なんて取ってないさ」
「私は取ってる。だから今日はこの辺で…」
「よう、坊主ども。二人で何やってるんだ、え?」
五人ほどの男が周りを取り囲んだ。見るからにごろつき、と言った服装である。
「天子様が夷狄に心を悩ましておいでの時に、ただの物見遊山などよくやってられるな。申し訳ないと思うんなら、俺たち勤王の志士に金を出せ!!」
洋子はわずかに顔をしかめた。喧嘩して負けるとは思わないが、騒ぎは起こしたくない。と、剣心が前に出た。
「お前たちごときに勤まるような勤王の志士なら、天子様も願い下げだろうよ」
ちょ、ちょっと緋村と思わず言いそうになった洋子の頭上に、男たちの罵声が降ってきた。「な…何だとこの坊主、いい度胸してるじゃねえか」
「俺たちをこけにしやがって…。やっちまえ!!!」
次の瞬間、つかみかかった男たちは剣心の前で吹き飛んでいた。いや、洋子以外の人間には立っている男たちがただいきなり倒れたように見えただろう。剣心は剣を抜き打ちで二振りしただけである。彼女が身構える間もなかった。
「これに懲りたら、さっさと帰ることだ」
剣心の台詞に、言い返す言葉は何もなかった。
「じゃあ、明日は清水寺の前で」
葵屋に泊めてやろうという洋子の申し出を剣心は断った。だが明日も行くあてはないというので、二人して今日の続きの観光をやることにしたのである。
「そうだね、じゃあまた」
仕様がないので沖田総司の言葉遣いを真似ることにした洋子が応じ、二人は葵屋に最も近い角で別れた。
「飛天御剣流か…。あれは凄い」
背中を見送りながら、昼間のことを思い出していた。
そのころ、後に新撰組の幹部となる試衛館出身の面々は、夕方にあった御用盗返り討ち事件の犯人及び、一緒にいた元服前の江戸訛りの武士について捜索を開始していた。