るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十五 奈良出張(4)

 打ち身なら石田散薬に限るのだが、斬り傷となると話が違ってくる。洋子は御庭番衆秘伝の薬を時々分けて貰っており、それのおかげで手入れなどの後も治りが早かった。それをどこから聞きつけたのか、斎藤が使わせろと言うのである。
「大体斎藤さん、御庭番衆嫌いなくせに」
いくら効くからって頼むな、と彼女は言いたかった。小さな金属製の箱に入ったそれを持って、部屋を出る。半固形状、今で言うならクリーム状の薬である。
「──そうだ。斎藤さんが泣くとこ見てみようっと」
焼酎で傷口を消毒するのだが、それをやられるとどんな人間でも涙が出る。どんなに強い剣客でも、どんなに冷たい人間でも。
 どんな顔して泣くのかな、と思いつつ、薬だけ持っていった。焼酎は平隊士に頼んである。食堂に入った途端、酒の匂いがした。
「斎藤さん、薬持ってきましたよ」
と、洋子は言った。縁側で右肩をさらして背を向けている斎藤に近づき、顔を覗き込む。
「──ギャハハハハ…」
   バゴッ!!! ドサッ!!
 何が起きたか、書くまでもないだろう。

 「──いっった──。ひどいじゃないですか、斎藤さん」
刀の鞘で殴られて庭に落ちた洋子の、脳震盪回復後の第一声がこれだった。
「阿呆。人が涙流してるの見て笑う方が悪い」
「斎藤さんだから笑えるんですよ。普段悪人面の人が泣くから」
   バキッ!!!
「人のことを言いたい放題言いやがって。この阿呆が」
「──いや、でも、斎藤さんが涙流せるって分かって良かったです。一時は『涙腺あるのか』って問題になってましたからね」
その発言でやや正気に返った斎藤は、
「誰が言った」
「みんな言ってましたよ、一時期。忙しくなってそれどころじゃなくなりましたけど」
冗談めかした口調に苦笑した。多分影でこそこそ話していたのだろう。
「で、薬だが。塗るだけでいいんだな?」
「ああ、はい。それで大丈夫──あ!」
何で斎藤さんが薬の箱持ってるんですか、と洋子は追及した。
「笑いやがった罰に没収だ」
げ、と思い切り顔をしかめた彼女だった。

 傷の治療を自分でさっさと済ませた後、夜食として軽く食べる。食後に部屋に引き上げ、洋子と前野は斎藤に人斬りについての話を聞いた。
「あれは並みの剣客じゃない。覚悟しておけ」
自分が斬り合った時の状況を説明した後、斎藤はそう言った。
「──牙突と互角、ですしね。心しておきます」
さっき見た傷は、予想以上に深かった。思い出して応じた洋子に続けて
「となると明日からの吉兵衛殿の護衛は、どうなりますか」
前野が訊く。我々も行った方が良いかという意味だ。
「平隊士を一人増やして三人。お前たちは道場を当たって、受け入れてくれそうな稽古先を探せ。敵も傷を負っているし、しばらくは大丈夫だろうが」
と言って、斎藤はいったん言葉を切った。
「この件、十日で済みそうにない。京都にそう連絡するから、覚悟しておけ」
二重の意味で頭痛がしたのは、無論洋子であった。

 あーあ、と彼女は思う。要するに斎藤と同室で泊まるのが延びる、ということなのだ。
「──そもそも、どうなったらこの件は片づいたと言えるんですか」
「例の人斬りか吉兵衛かが死んだらさ」
と、斎藤は応じた。几帳を間に挟んで話す。
「吉兵衛が死んだら、我々のせいになりませんかね」
「知ったことか。そもそも自分が悪いんだ」
突き放した言い方に、洋子は苦笑した。それにしても、と思う。
『緋村並みの実力の剣客、か』
確かにあの傷は、半端でなかった。脂肪やその下の肉が見えるほどの重傷で、周りには火傷もある。あれでは縫合するにしても一苦労だ。
「その人斬り、斎藤さんの正体を知ってる素振りでした?」
「──いや、その時は違った。今度は知ってるだろうが」
新撰組かどうかは、制服で区別が付く。何番隊の誰、とまでは知らなかっただろう。
「平隊士三人で、大丈夫ですかね」
「俺の傷への不安対策には、大丈夫だろう」
どうせどちらもしばらくの間、動けないのだ。そして斎藤は傷が治り次第、本格的な行動を始めるつもりらしい。それまで小休止、と言ったつもりだった。

 そして翌日から、洋子たちは奉行所の者が通う道場で稽古することになった。洋子と前野は客員師範待遇であり、手当はつかないものの教える側になる。
「すっげえ──」
稽古開始から二日目、道場主に模範稽古をして欲しいと言われ、洋子と前野は中央で戦っていた。凄まじい音と共に、竹刀がぶつかり合う。
 平刺突は使わない。あくまでも面籠手をつけた道場での普通の稽古なのだが、双方とも同じ伍長とあって実力もほぼ互角。そもそも洋子が師範代なのは偏に平刺突の巧さによるものだったから、それさえ使わなければ実力的に差はないのだ。
 竹刀同士が激しく衝突し、押し合う。押し切られると悟った洋子は飛び下がって前野の竹刀を宙に舞わせた。体勢が狂った瞬間に接近し、数合斬りつける。全てどうにか受け止めてのけた辺り、さすがに相手も三番隊伍長である。
 双方後退し、間合いを取った。一瞬後、再びほぼ同時に突進して竹刀で斬り合う。斬り合った衝突の弾みを利用して相手を押し返し、出来た死角に洋子は刺突を入れた。ひときわ大きな音がして、前野が倒れる。
「胴!! 一本!!」
ざわめきが広がる。彼女は面を取って笑って見せた。
「さすがは師範代です。斬撃から刺突に転じる見事な速さ」
前野は改めて脱帽した様子で、面を取って頭を掻いた。
「斎藤さんがね、それ半端でなく速いんだ。いつもやってると移って」
洋子はそう言った。例のアレですね、と前野も言う。
 新撰組隊士は、組に入る前までは町の道場でそれなりの地位を持っていた者が多い。当然それらの道場では斬撃が稽古の中心で、刺突を学ぶ機会はそう多くはない。現に洋子も試衛館では斬撃中心に稽古している。いくら平刺突を教えてもそれまで使っていた技と併用する形になることが多く、その切り換えの速さが勝負になるのだ。そして斎藤は、それが抜群に速かった。斬撃で一太刀浴びせた後の牙突への変化が。
「受け止められた後、一瞬引いて刀を寝かせて牙突に転じ、再び踏み込む。この変化が見えないんだから、斎藤さんは」
その動きを上半身だけ真似ながら、洋子は言った。
「師範代でも、ですか」
「対応できてたら毎回食らってないって」
冗談めかして言う。彼女の場合、予測は出来るのだが身体が反応する前に食らうのだ。胴丸を着てなかったらとっくにあの世行きだ、とは斎藤の台詞である。
「かと言ってその状況から間合い取らないと零式食らうしさ。もう大変だよ、斎藤さんの稽古に付き合わされるの」
命がけなんだから、と付け加えた。前野がやや真面目に
「零式、というと例の──」
「斎藤さんの奥の手。胴丸つけてて数日戦闘不能になったんだから」
前野は現場を見たことはない。いつだったか、洋が数日ほど自室で横になっているのは見ていたが、あれが零式を食らった直後だったのだろうか。
「うん。牙突零式」
二度と食らいたくない、と洋子は断言した。そして立ち止まり、一瞬屈んで道場の壁を竹刀で突く。室内全体がシンとなるほどの大音響が響き渡った。
「──これで壁が壊れるんだから、アレは」
前野は声もなく、突いた先を見やっていた。

 道場から旅館への帰路、洋子と前野の二人は吉兵衛の家に寄った。
「あ、天城先生に前野先生」
「何か変わったことはない?」
吉兵衛殿の身には何も、と小笹が答える。
「ただ、そろそろ帰ってきていい頃なんですよ、番頭殿は」
秋の日暮れは速い。もう、夕方から夜になろうとしていた。
「誰かついて行ってた?」
「店の丁稚が二人ほどついて行きましたが、我々は別にいいからと」
「もともと腕っ節には自信があるような口調でしたので」
洋子と前野は、顔を見合わせた。頷き合い、格上の方が口を開く。
「──どっちが斎藤さんに連絡する?」
「私が行きましょう。天城先生が行ったら呼んでくる前に一騒ぎです」
洋子は苦笑した。そしてそのまま家の中に上がる。前野はそこを離れようとした。
「あ、前野先生。どちらへ?」
「斎藤先生を呼んでくる。番頭殿が危ないと言えば、まさか拒否はせんだろう」
その語尾に、もう一人の伍長の声が重なった。
「私は番頭さんを迎えに行く。斎藤さんは──好きにさせるべきでしょうね」
「分かりました。そう伝えておきます」
洋子は奥に向かい、前野は家を出る。他の隊士には一切説明しない。
 この二人は、いつもこうなのである。

 番頭の用事は吉野の杉の品定めである。ということは奈良より更に南だった。
 悪くすると既に殺されているかも知れない、とその方向に向かいながら洋子は思っていた。京都での天誅でも、大名や公卿本人よりその家臣を殺すことはよくある話で、今回も本人が殺せないので番頭を殺すことにしたのかも知れない。下手に腕に自信がある奴ほど警戒が緩くなり、護衛もつけないので殺しやすいのだ。
「やれやれ、警戒する範囲を広げておくべきだったかなあ」
彼女はそう呟いた。自分を見つめる気配に、気づいてはいない。

 

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