るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十五 奈良出張(6)

 うげ、としか言い様のない心理である。洋子は怪我の治療に行った医者に縫合が上手く行くまで安静を命じられ、稽古を禁止されてしまったのだ。
 要するに斎藤と同じく旅館でじっとしていなければならず、しかも二人は同室と来ている。医者の手前では頷いたものの、冗談ではない。
「──あー、悪夢だ」
「何が悪夢だ、この阿呆。付き合わされる俺の身にもなってみろ」
「その言葉、そっくり叩き返しておきますからね」
   バゴッ!!!
 毎度のことながら、洋子は倒れ込んだ。

 結局。洋子は旅館の前の通りで鹿と遊んでいることにした。
「──よく何日も遊んでて飽きんな」
二階から遊んでいる様子を見やりつつ、斎藤はそう呟く。自分は京都の新撰組への手紙を書いたり医者に行ったりで忙しく(洋子の傷とは種類が違うので診察に時間がかかるのだ)、遊んだり観光したりの余裕はそうなかった。
「こら阿呆、そろそろ昼飯の時間だぞ」
何で俺が、と思わぬでもないが、呼ばなかった場合には間違いなく後で喧嘩になり、面倒なので呼ぶ。相手ははーい、と返事して、程なく建物の中に入った。
 朝と晩は他の隊士も一緒だが、昼食は大抵この二人だけだ。当然ながら取る場所は八畳の部屋である。食事が運ばれてくる前に、洋子は手紙を渡された。
「京都から追加資金が来た。これだ」
三番隊一人当たり銀七十匁の手当と、宿泊費の追加が銀七百匁。と言っても手形になっており、大阪の大商人・鴻池の奈良支店とも言える場所で受け取るのだが。物騒なので現金を直接送ることはせず、懇意にしている店を使おうというわけである。
 匁とは、銀の単位である。余談だが黒船来航後、日本の金の海外流出が著しくなって金は値上がりし、相対的に銀の価値がかなり下がった。金一両が従来の銀六十匁から銀七十匁以上になったのだ。関西では銀を主に使用しており、これが関西経済が明治になって衰退した一因である。
 それはともかく、洋子たち二人は午後からそこに出かけることになった。

 さすがに大名に金を貸している商人ともなれば、支店の規模もかなり大きい。普通の者なら入るのにも勇気がいりそうな店へ、洋子と斎藤は堂々と入った。斎藤は瞳の見えない穏やか顔で、完全に猫を被っている。
「すみませーん!」
店頭に誰もいないので、大声を出した。答える声の代わりに、奥から叫び声が聞こえる。
「──また御用盗か」
「奈良に我々がいるの、数日前から噂になってるはずですけどね」
状況がいまいち掴めないが、続いて古い蔵を開けるときのキーという音が聞こえる。今ならそう苦もなく倒せるだろう。
 二人はどちらからともなく駆け出し、庭から奥に向かった。

 無論、本当はまだ安静にしておかねばならない時期である。だが店とはやや離れたところにある蔵に二人が着いたとき、その周りには丁稚や手代・番頭が合わせて十数人ほどおろおろしているだけだった。
「このまま突入するぞ」
蔵は開いている。話を聞くのも面倒になったらしい斎藤は、そう洋子に言うと人混みを駆け抜けた。一度止まるつもりだった彼女も、やむを得ず再加速して人混みの中を抜け、遅れること二秒で蔵の中に突入した。
「グハッ!!」
入るやいなや、斎藤は一人斬り捨てていたようである。

 「な、な、な、何だあ!!?」
 五、六人か、と洋子は見当をつけていた。が、敵にはそれどころではない。
 出入り口の見張りが、いきなり血を吐いて倒れたところに立つ人影二人。暗いので互いに顔や背格好はよく分からない。
「何者だ、貴様ら!!」
「──壬生の狼」
斎藤が呟くように言うのと、彼女が影から襲ってきた敵を抜き打ちで斬り捨てるのと、ほぼ同時だった。敵がしんとする。
「奉行所に行くかこの場で斬り捨てられるか、二つに一つ」
洋子が続ける。二人はどちらからともなく数歩ずつ離れていった。入り口の光から離れ、影に溶けていく。無論身構えていた。
「やああーっ!!」
彼女の反対側から声が聞こえた。数合斬り合う音、肉を斬る音がしたと思った途端、身近に殺気を感じる。空振りした刀が空を切る音がした次の瞬間、洋子は刺突を相手に見舞う。低い音がして敵が倒れた。そろりと踏み出した瞬間
「──おい、洋。いるか?」
「いますよ。斎藤さんこそ無事ですか?」
「自分と一緒にするな、この阿呆」
「じゃあ、人のことをバカにするのもやめて下さいね」
「事実を言ってるだけだ」
「何が事実ですか!?」
「──ええい、止めんか!」
奥の方から声がする。斎藤と洋子のやり取りに苛立ったらしい。
「真剣勝負中だぞ、静かにしろ!」
「──なるほど、そこか」
と斎藤は言った。え、と洋子が思う間もなく
「雑魚二人はくれてやる。邪魔するな!!」
聞き慣れた声と共に、突進する音。何事、と戸惑う間もなく自分の周りに複数の殺気が感じられる。洋子は突進してきた右の敵をかわして左の敵に向き直りざま、一刀の下に袈裟斬りに斬って捨てた。更に少し旋回して、かわした男が体勢を整える前に左切上で倒す。もう一人の方はまだ戦っているらしく、金属音が響いていた。
「こっち倒しましたよ、斎藤さん」
どうやら闇の中で手こずっているらしい。刀の血を拭きながら、洋子は息をついた。
「まあ邪魔するなって言ったのは斎藤さん自身ですし、私は高見の見物と行きますか」
もともと刺突には、攻撃範囲が狭いという欠点がある。殺傷力と引き替えの欠点なのだが、これが暗闇の中では予想外に響いているらしいのだ。刀の先端という一点にさえ当たらなければ、傷を受ける恐れもない。
「──」
斬撃の音が徐々にまばらになった。足音もほとんど聞こえず、妙に静かだ。或いは移動しているのかも知れない、と思いつつ、洋子は刀を持ち直す。
『どこだ──? どこにいる?』
自分を斬るのは敵しかいない。だから、自分に向かってくる殺気だけを待っていればいい。油断なく周囲に気を巡らせながら、洋子は近くにあった箱に腰を下ろした。次の瞬間
「うおおおおっ!!!」
横の方から殺気がした。左肩を背中側から袈裟斬りにしようとする一撃を真っ向から受け止め、甲高い金属音を響かせる。数合斬り合い、接近してくる別の気配にすっと譲った。
   グサッ!!!
 斎藤の牙突が、敵の心臓を貫いていた。

 「──全く、上司失格ですよ、斎藤さん」
大きなため息をついて、洋子は言った。
「邪魔するなとか言っておいて、何ですかあのざまは」
「手伝うなとも言ってないぞ」
図々しい、とはこのことだろう。キレかけた洋子に
「ま、お前にしては上出来だったな」
言い捨てて、斎藤はさっさと外に出た。気勢を殺がれた彼女は
「──だったら、人のことをバカにするのもやめて欲しいですね」
と呟いて、相手の後を追う。我ながら嫌になるくらい息が合ってた、と回想しつつ。

 お礼金の銀三千匁は屯所に送ることにして、取りあえず手形の処理を済ませた二人は店の奥で接待を受けることにした。
「一年くらい前から、ああいうのが出没しておりまして。京都はそちら様のご活躍で、取りにくくなったんでしょうね」
店の主人自らが出てきて言った。斎藤が猫かぶり顔で応じる。
「そうかも知れませんがね。あれは今日いきなりですか?」
「いいえ。数日前に一方的に予告はしてあったんですが、具体的に何をよこせと言うでもなく。ただ、名前は長州藩の桂小五郎で」
「桂小五郎!?」
斎藤はもちろん、後方で茶を飲んでいた洋子も声を上げた。あの大物が、こんなことに関わっているとは信じられない。対立はしていても、人格的には一目置いていたのだ。
「予告状はありますか」
「ええ──。ご覧になりますか」
「お願いします、至急に」
声が真剣なのに驚いて、主人はすぐに持って来るように命じた。
「如何せん奈良の地では、署名が本物かどうかを確認することも出来ず──。最近京都から来たという人斬りのこともあり、もし本物であればタダでは済まぬと思い、通すしかなかったわけですが、お陰様で助かりました」
「いいえ、当然のことをしたまでです。──と」
奉公人が予告状らしいものを持ってくる。受け取った主人は、自ら斎藤の前に持ってきてくれた。斎藤はざっと目を通した後、洋子に回す。
「──この署名、多分偽物ですよ」
彼女はその手紙を数秒見た挙げ句、告げた。店の主人を見やって
「実際に彼の署名を見たことがないのではっきりとは言えませんが、少なくとも本人はもっと上手い字を書くはずです。この字は江戸留学をして、大道場の塾頭までした男の字ではありません」
「──そうか」
とだけ、斎藤は応じた。彼には字の風格などはよく分からないが、洋子がそう言うのなら間違いないだろう。その付近に関してだけは、彼女を信用している斎藤だった。
「それに、長州関係者は少なくともこんなことには手を出しませんよ」
洋子は、続けてそう言った。恐らく偽物だろうと思っていた。

 

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