るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十五 奈良出張(7)

 奈良に来て十五日目、洋子はやっと傷口を縫合していた糸が取れた。山の上の方では、木々の葉が色づき始めている。
「激しくなければ稽古もしていいそうです。明日からまた行って来ます」
声が伸び伸びしているのが斎藤にとっては耳障りだが、放っておく。が、次の彼女の台詞に顔色を変えた。
「ああ、そうそう。数日中に吉兵衛殿が出かけるそうですよ」
「──何だと」
低い声で問われ、洋子は応じた。
「さっき忘れ物を取りに来た小笹君が、そう言ってました。──どうしますか?」
斎藤が立ち上がっている。刀をはめるのが几帳越しに見えた。
「吉兵衛に会ってくる。今遠出するのは命取りだと」
「あ、はい。じゃあ私はここで留守──」
「阿呆、お前も来るんだ」
げ、と洋子は思ったが、組長命令とあっては逆らえない。程なく二人は旅館を出た。

 「吉兵衛はどうなってもいいんじゃなかったんですか」
歩きながら、洋子はそう言った。斎藤は
「五日以上後ならどうでもいいが、傷も治ってないのに奴と戦う機会を逃すのは御免だからな。今死んでもらったら困る」
そういう事か、と納得する。要するに例の人斬りと戦いたいのだろう。吉兵衛が殺されればそいつとは戦えなくなるからだ。
「ま、そういうことなら出来るだけ出かけるのを延ばしてもらいましょう。数日中に斎藤さんの傷が治るから、それまで待ってくれとか言って」
「言われるまでもなくそのつもりだがな」
一睨み効かせて、こちらの思い通りにさせるつもりだった。

 大和屋の客室で出てきた吉兵衛は、意外なほど上機嫌だった。
「いやあ、丁度いいところにおいで下さいました」
対面した直後、笑顔でそう言われた二人はいささか面食らった。
「お二人のいずれかに、三日後の遠出の護衛を頼もうと考えていたところでして。何日か前にも鴻池に御用盗が入ったと聞き、さすがに護衛もなしで出かけるには心細く」
「──三日後、ですか。やけに急ですね」
洋子は言った。吉兵衛はやや真剣な顔で
「火急の用事でして。通常ならもっと早く相談するのですが」
「──私か天城君かどちらかと言われましたが、前野君では駄目ですか」
斎藤は気勢をそがれたのか、訊く声が大人しい。
「いえ、彼でも構いませんが。ただ、彼とは殆ど話をしたことがないもので」
「はて、この前ここの番頭殿が襲われかけた時──」
前野がここで待機していたはずだ。その時何も話し合わなかったのだろうか。
「一応護衛上の打ち合わせはしましたが、あの方はその…」
「取っつきにくい、と」
洋子がぼそっと言った。吉兵衛が申し訳なさげにペコペコと頭を下げ、斎藤は珍しく苦笑混じりの表情になる。そして
「一度酒でも飲めば、そうでもないんですがね」
呟くように言った。相手は頷いて
「でしょうね。平隊士の方々とのやり取りは普通でしたし」
要するに前野は、人見知りをする人間なのである。一晩宴会でも持てば打ち解けるのだが、第一印象は洋子も決して良くなかった。
「それに、斎藤先生の肩に傷を負わせた人斬りが襲ってこないとも限りません。出来れば三人以上──少なくとも二人はついてきて欲しいのです。更に出来れば斎藤先生自らがついて来て下さると有り難いんですが、もし肩の傷がお悪いようでしたら…」
「分かりました。参りましょう」
斎藤がいきなり言ったので、洋子の方が驚いた。
「私とこいつと、平隊士の一人。三人で十分でしょう」
 ──程なくその話し合いは終わり、洋子と斎藤は家を出た。

 「どういうつもりですか、斎藤さん」
帰り道、洋子は斎藤を追及した。当初の予定とかなり違う。
「指名されて断るわけにも行くまいが。十日以上前に出来た肩の斬り傷程度を理由に遠慮すれば、新撰組の名誉に関わる」
「斬り傷程度、ですかねえ」
その後の傷の経緯がどうなっているかよく知らないが、彼の怪我は斬り傷と火傷との合併症である。数日前から庭で何かするようになったので、回復はしているのだろうが。
「自分の身体は自分がよく知ってる。お前ごときに言われずともな」
「死神の方が逃げ出しますもんね、斎藤さん見たら」
言った直後、素早く距離を取る。刀が鞘ごと宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 結局。吉兵衛は新撰組隊士三人を含む六人で出立した。隊士は洋子、斎藤、それに岩成という平隊士の三人で、前野は留守中の統括のため残っている。
「数日前の強風の日に、前に与太郎に行ってもらった吉野の杉がかなりやられたようでして。他の地方から木材は集められるんですが、被害状況を確認しないことには」
一日、嵐で旅館から一歩も外に出られない日があった。その日に吉野の杉が風で何本か折られたらしい。その状況を視察に行くのだと。
「吉野山、ですか。後醍醐帝が落ちのびられたところですね」
岩成が言った。当時、太平記は常識である。特に人気が高いのは楠木正成だが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて奈良の吉野に落ちのびたことも当然みんな知っている。
「吉野山 峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき──か」
洋子はそう呟いた。次の瞬間、ガンと一発叩かれる。
「いった──。何で叩くんですか」
「阿呆。恋歌なんざ十年早い」
斎藤はそう言うと、さっさと歩いていく。慌てて後を追った。
「失礼ですね。この歌もともと──」
「義経の恋人だった静御前が、敵の頼朝に捕らえられて舞を所望されたとき、鶴岡八幡宮で歌ったやつだろう。頼朝の目の前でな」
すらすらと述べてのけた斎藤に、いつ覚えたんですかと洋子は目を丸くした。もともと彼はこういう教養は殆どないはずである。
「島原の遊女に聞いた。その女がよく口ずさんでたからな」
「──そうですか」
多分、遊女になる前の恋人のことでも思い出していたのだろう。──私も──
   バキッ!!
「いちいち沈むな、この阿呆。柄でもないj
「が、柄でもないって、随分失礼な──」
「少し、休憩しますか」
先の方で吉兵衛が言った。応じて急ぎ足になる洋子の背を見やりつつ
『──いくら名前が同じと言ってもな』
斎藤は内心、そう思っていた。

 杉は、どうにか対応できる範囲内の被害で収まったらしい。さっさと帰ろうとする斎藤たちを無視して、吉兵衛は山の中へ入っていく。
「なるほど、これはなかなか良い木ですなあ」
地元の木こりたちの案内で、よく育っている木を見て回っているのだ。仕方なく洋子と斎藤は数歩離れてついて行った。襲われないとも限らない。
「こちらの木も立派ですな。まだいささか細いが、五年後十年後にはさぞや大きい木になることでしょう」
吉兵衛はところどころで賛嘆している。ひときわ大きい木の前に来た。
「おお、これは──」
「山の守り木ですよ。ご神木のようなもんでさあ」
話を聞いていると、ふと人の気配がする。洋子は周囲を見回した。
「──離れて待ってろ。お前は動くな」
いきなり頭上から降ってきた声。それに応じる間もなく、声の主は駆け出していた。
「って、ちょっと、斎藤さん!?」
牙突で突進している。その先に人影が見えた。覆面をしている。
 人影は、衝突する直前にふっと消えた。斎藤は上空を見上げ、洋子が初めて見る刺突の型を取る。後に参式と名付けられる技だ。
「シャアアッ!!」
敵はそう叫び、刀を発火させつつ抜きはなった。 降りてくる敵は、刀を下段に構えている。斎藤の刀が敵の身体に突き刺さろうとする直前に、金属音が聞こえた。そして──信じられない現象が起きる。
 斎藤の刀が、敵の刀の火から引火して燃えていたのである。

 思わず斎藤は体勢を崩し、その一瞬に敵は着地した。
「あんたの刀だって、人の血やら脂やらかなり吸ってるはずだよな」
と、敵は言った。火そのものは一瞬だけで消えている。
「──なるほど、刀に火薬を仕込んでいるわけではないと」
斎藤が応じる。洋子は動けなかった。吉兵衛たちが慌てて駆け寄ってくる。
「そういうことだ。ここからが本番」
言ったきり、二人とも動かない。山鳥が飛び去っていく音にも、反応しない。
 「──大丈夫なんでしょうね、斎藤先生は」
「さあ…。あの敵は抜刀斎並みの実力ですから」
吉兵衛たちは不安げに訊いてくる。洋子はそう応じるしかなかった。
「抜刀斎、というと──」
一瞬後、無言のうちに彼らの顔が青ざめていくのが分かる。
「けどあの人、死神の方が逃げ出すような人ですしね」
まあ死ぬことはないでしょう、と洋子は苦笑混じりに言った。
 当の二人は、相変わらず動かない。

 どれほど時間が経っただろうか。薄暗く、木の繁った山林の中では時間など正確にはよく分からない。ただ、正午近くには木々の間に隠れがちだった太陽が頭上に姿を見せる。それで木こりたちは食事を取るのだ。
「──!!」
日が射し込み始め、辺りが急に明るくなる。その瞬間、二人は同時に動いた。
 敵は突進してくる斎藤の動きを見切り、死角に当たる右腕に攻撃を加えようとする。鞘に軽くこすらせ、発火させて斬りつけようとし、動きが止まった。
 斎藤がその刀をつかんだのだ。火を纏っている刀の鍔元をまともに白刃取りし、手から鮮血がしたたり落ちる。そのまま刺突に入ろうとした瞬間
「紅蓮腕!!」
白刃取りされた刀の先端部に、敵は自分の左手の手甲をこすりあわせた。そこが爆発し、双方とも後退する。が、次の反応は斎藤の方が一瞬早かった。
   グサッ!!!
 敵の太股に、刀を突き立てていたのである。

続 く