るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十五 奈良出張(9)

 心配して損した、というのが洋子の本音である。二度と心配なんかしてやるもんか。
 それ以前に、何故心配して落ち込みまでしたのか。死神でも逃げると冷やかしておきながら、いざ行方不明になったときの動揺ぶりは何なのか。自分でも情けなかった。
『あーあ。何なんだろ』
両親が死んだときは泣いたが、こうまで動揺はしなかった。従兄弟に売られたときも、英集会から薬屋に引き渡されたときも。確かに動揺はしたが、それは暴力への脅えであり喪失感を伴ってはいなかったような気がする。否、売られたときは確かに喪失感はあった。けれども今回の、穴が開いたような喪失感とは違う。敢えて言うなら糸が切られるような感覚であり、重みも今回ほどではなかった──ような気がする。
『てことは何、斎藤さんの存在の方が従兄弟に捨てられたことより重いってこと?』
──絶対、或いは天地がひっくり返っても、認めたくないな、と洋子は思った。
 もともと従兄弟に捨てられなければ、こうなることはなかったのだ。多分そのまま従兄弟と結婚して、あの大きな家にそのまま住んで、大勢の女中たちに囲まれて過ごす。そんな生活が断ち切られ、英集会を経て薬屋で働くことになった。今の生活は、その挙げ句の果てに過ぎない。結果が原因より重いことはあり得ない──はずである。
 とは言え洋子は、その従兄弟の顔さえ思い出せない。今の境遇の元凶であり、殺してやりたいほど憎いはずの従兄弟の顔は、いつの間にか本人さえ取り出せないほどの記憶の底に沈んでしまった。彼そのものは、それだけの存在にしか過ぎないのだ。
『──従兄弟そのものか斎藤さんかって言われれば、そりゃあねえ』
好き嫌いは別にして。洋子はそう思い、息をついた。
 はっきり言って、どちらも嫌いだ。ただ、嫌いにも種類がある。従兄弟は軽蔑の対象にしか過ぎないが、斎藤との関係は余りにも入り組みすぎている。少なくとも剣腕では勝てないし、何度か助けてもらってもいる。何と言っても二重の意味で上司と部下、それ以前に師匠と弟子の関係であり、否応なしに付き合わざるを得ない。毎日喧嘩しながら、それでも逃げたり放り出されたりせずにここまで来たのだ。足かけ五年になる。
 五年も毎日付き合っていれば、他人でもそれくらいの存在になるのだろうか。よく分からない。少なくとも私を育てた義理の母親、つまり父親の正妻とはそれ以上の付き合いになるわけだが、別に彼女が病気になったからと言って人並みの心配以上のことはなかった。関わり方の問題もあるのだろう。
 斎藤の関わり方がいいとは決して思えない。暴力沙汰はひとまず置くにしても、とにかく人を見下したあの態度、あれさえなければ少しはいいと思うが、ここ数年で改まるとも思えない。ただ、やり方の善し悪しは別にしても、総じて彼は積極的に自分に関わってきた。義理の母親には敬遠されて育ってきただけに、その付近の違いもあるのだろう。
 どうやら、知らないうちに斎藤の存在感が自分の中で大きくなりつつあるらしい。良くない傾向だなあ、と苦笑しつつ、彼女は星空を見上げていた。木の葉が風に吹かれて落ちてくる。

 

 結局、洋子と斎藤が奈良の旅館に帰り着いたのは二日後だった。
「風呂風呂、お風呂入ろう」
「飯と酒。一升空けるぞ」
迎えに出た平隊士に対する、それぞれの第一声がこれだった。
「あの、斎藤先生と天城先生。奉行所から呼び出しがありますけど」
「明日!!」
洋子がそう言い、斎藤は声自体を無視してさっさと食堂に入る。やっぱりそうなったか、と前野は苦笑と微笑が混じった表情で思った。

 「呼び出しねえ、呼び出し」
「言っておくが、お前は自分に来た質問の解答以外、黙ってろよ」
客室での会話である。自分の布団を敷いていた洋子は、聞きとがめた。
「え、何でですか」
「俺が一睨みしてやる。吉兵衛の時は向こうから申し出があったんでやりそびれたが、奉行ども相手ならどうにでもなるさ」
「本領発揮、ってやつですか」
「どうとでも勝手に言え」
クスッと洋子は笑った。これは大荒れしそうだ。

 朝食をゆっくりと食べ終え、茶まで飲んでから二人は奉行所に行った。挨拶の後、一通りの状況説明をする。
「──なるほど、そちらの説明はよく分かった」
奉行が言った。周りには十名ほどの役人もいる。
「しかし、我らのもとにはそちらが吉兵衛を見殺しにしたとの報告が入っておる。この嫌疑について、どう弁解するつもりか」
薄笑いを浮かべている。ほう、と斎藤は思い、悪人面に戻ってこう言った。
「そもそも大和屋吉兵衛には、かねてより逆賊たる長州と結託して彼らの勢力伸張に貢献したという容疑がある。それ故に最近になって復縁を要求され、拒否しているうちに人斬りに狙われるようになっただけのこと。言うなれば自業自得、我ら新撰組が守るだけの価値はない。それをわざわざ京都から呼びつけ、守らせたのはひとえにそちら。こうなってはそちらの意図自体を疑わざるを得ない」
どよめきを一睨みで威圧し、話を続ける。
「幸い京には、禁裏御守衛総督にして将軍後見職にあらせられる一橋卿がいらっしゃる。一部始終を申し上げ、かつそちらに収賄の疑いある旨を申し上げれば、どうなるかは想像できるだろうな」
そう言って一座の者たちを見回し、真っ青な顔色を見て嘲笑を浮かべた。そしてさっと席を立ってさっさと歩いていく。洋子も後に続いたが、部屋前の縁側で振り返り
「御庭番衆が、今回の件について捜査を開始しているとの噂も聞いております。どうぞ、御覚悟のほどを」
にっこり笑ってそう言い、一礼してのけたのである。

 奉行所の外で、二人は並んで歩いた。
「口ほどにもない奴らでしたね。斎藤さんの一睨みでびびってるんですから」
「代々の旗本なんてのはあんなもんだ。──で、数日遊んでから帰るか」
「私は明日にでも帰りたいんですけどね。斎藤さんと同室なんて一日でも早く終わらせたいんですから」
   バキッ!!!
「今までガキの子守を我慢してやってたんだ。少しは感謝しろ」
「ガキの子守って、その言い方はないでしょうが! こっちだって苦労したんですからね、斎藤さんのせいで!!」
   バゴッ!!!
 泊まっている旅館の前で、洋子は卒倒した。

 こうして、三番隊は奈良から帰ってきた。沖田や永倉、原田などが迎えに出る。
「どうだった? 奈良。楽しかった?」
「全っ然、楽しくなかったですよ。次から次へと事件は起きるし、岩成君は死ぬし、斎藤さんには殴られっぱなしだし。あーあ、行って損した」
沖田の問いに、先頭の洋子はそう答えた。一行の最後で斎藤が
「ガキの子守は一晩で充分。二十日もやってると疲れる」
「ハハハ、そりゃご苦労様だ。ま、酒でも飲んで数日のんびりしてろ」
永倉がそう応じ、斎藤のもの言いたげな視線を無視して肩を軽く叩いた。

 

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