池田屋事件が引き金となった禁門の変から約一ヶ月後。それまで京都・大坂を中心に隊士を募集してきた新撰組も、大幅な増兵が必要となり局長自ら江戸に下ることになった。
「まあ平助が先に行っているから、そう長居はせずに済むだろうが。留守を頼む」
と、見送りに出た土方らに近藤は言った。
「伊東甲子太郎に会うんだろう。飲まれるなよ」
土方は応じた。藤堂平助が話をつけたという伊東甲子太郎は、当時一流の論客である。剣の腕も立ち、自身で北辰一刀流の道場を持ってもいた。ただどこの藩の後ろ盾もなく、あくまでも一介の浪人に過ぎない。恐らく新撰組という後ろ盾を得て、何事かをなしたいという野望はあるだろう。
それはそれでいい。問題は伊東の思想だ。北辰一刀流の者はほとんど水戸学の洗礼を受け、尊王攘夷・幕府批判的な思想を持っていたから、幕府の機関である京都守護職配下の新撰組としては困るのだ。飲まれるなよ、と言ったのはそのことだ。
「太郎。納豆忘れないで」
洋子は元部下の千早太郎にそう言った。京都では納豆など食べる機会はほとんどない。関東へ局長のお供で行く彼に、おみやげとしてそれを頼んだのだ。
「はい、天城先生」
くすっと笑って応じる。間もなく近藤たちは出立した。
今、元部下と言った。彼女は今、念願叶って井上源三郎の下で隊務に着いている。
禁門の変が終わった後、人員不足解決の一助のためもあって洋子は見習い隊士世話役を離れ、井上源三郎の指揮下に入った。井上は天然理心流の出で、目録も持っている。この時既に四十を超えており、近藤、土方などから見れば先輩に当たった。ただ剣の腕は後輩たちに比べると一格落ちる。助勤になっているのも先輩への義理立てからで、彼の配下は市中の巡察には出るが手入れなどはせず、隊の中では予備兵力的待遇だった。だから洋子の配属先にも適切だったのである。
「というわけで、これからもよろしくお願いします」
報告に行ったのは葵屋だ。既に知っているかもしれないが、礼儀としてである。
「ますます精進なさって下され。期待しておりますぞ」
翁は笑って応じる。表面の笑顔の影で、洋子を巡る御庭番衆と新撰組の裏面での確執は、かなり複雑な側面を持っていた。
洋子の過去がもし漏れれば、大変な事態になりかねない。少なくとも旗本の威厳は地に落ちる。しかもただの旗本ならばともかく、朝廷との勅使接待役である高家生まれの姫君が、借金のかたに売られたなどとばれては朝廷内部でまで騒ぎ立てられかねない。余計な騒動のタネは蒔きたくないのが実情で、洋子が江戸を出た後すぐに薬屋と関係した英集会幹部は御庭番衆の手で殺してしまったほどだ。
さて新撰組。特に試衛館時代からの付き合いのある幹部は、洋子の過去を知っている。本人には知らないふりをしているようだが、御庭番衆としては本来的には消してしまいたい存在なのだ。ただ御庭番衆中の天才少年・四乃森蒼紫を、剣を習いはじめて半年の洋子が倒してしまったことから、その師匠たちも並みの剣客ではないことが分かった。だから下手に襲撃すれば大騒動になりかねず、放っておくしかなかったのだ。
しかも今は京都守護職御預という肩書きのついた集団の幹部であり、事実上そんな真似は不可能になってしまった。加えて闇乃武との関係上、下手をすれば京都から御庭番衆の勢力が追い出される事態もあり得るので余計動けず、洋子を無理矢理屯所に連れ込まれても抗議さえできなかった。
挙げ句対抗組織となるはずの見廻組はほとんど無為徒食しており、いざとなれば見廻組に彼女の身柄を移させるつもりだった御庭番衆のもくろみも当初から崩れてしまった。幸い当の本人は京都の御庭番衆には好意を持っており、時折向こうから接触してくるのでその機会は最大限活用することにしているが、それもいつまで続くか。
「まあしばらくは大丈夫じゃろうがな」
帰る洋子を見送って、翁はそう言った。こうなった以上、そう遠くない将来に彼女が井上で収まらなくなる時が来る。問題はその時、彼らがどうするかだ。
京都の町は、戦火でかなり焼けてしまった。九月上旬、その日の勤務を終えて家に帰る途中で、洋子は仮店舗で仕事を再開した天ぷら屋に立ち寄る。中に入ろうとした途端
「ホンにもう、この子は!」
と、足元に突き倒された子供がいる。見ると十歳前後の女の子だった。突き倒したのは小綺麗な服を着た中年の女性で、彼女も客らしい。
「どうかしたんですか?」
「お前はんには関係のないことやわ。──しっしっ」
洋子の方には目もくれず、起きあがった子供を犬か猫のように追いやろうとする。
「年端もいかない子供をそうまで邪険に扱うからには、理由があってのことでしょうね」
見かねた洋子は二人の間に割って入った。見れば子供はひどく痩せている。禁門の変で焼け出されたか親が殺されたかした子供だろう。
「そやから、お前はんには……ゲッ!!」
彼女の浅黄色の制服を見て、脅えない京都人はいない。介入してきたのが新撰組隊士と悟って、その女性は目を剥いた。
「取りあえず事情を伺いましょう。もしこの子が何か悪いことをしたというのであれば、しかるべく処置しますから」
そう言って、脅える相手に笑って見せた。半ば腰を抜かし、椅子に座り込んで説明する。
「──要するに、単にこの子が貴方にまとわりついて離れなかったからですか」
「しつこかったんどす。はい」
相手の中年女性は頷いた。洋子は子供に向き直り、屈んで
「お腹空いてるんでしょう? 私と一緒に食べない?」
「──」
別に怖がっている風でもないが、その子供は返事をしない。が、身体は正直だった。
ぐうーっ
その音に周りの大人たちは吹きだした。当の子供は顔を真っ赤にしてうつむいている。
「やっぱり。一緒に食べよう」
洋子の言葉に、その子供は黙って頷いた。手を引いて連れて行きかけた彼女は、くるりと振り返って再び子供の顔を見る。薄汚れているが筋の通った顔立ちで、なかなか可愛い。
「ああ、そうだ。名前は?」
「──お夢です」
予想外に、いい声をしていた。
夕食がてら話を聞く。お夢はやはり、親を亡くした子供だった。
「そうか。奇遇だね」
「奇遇?」
お夢が倒れてきた時、どこか既視感があったのはそのせいだろう。
「私も、ちょうどあんたくらいの歳に両親亡くしてるから」
言った後、かき揚げを口の中に放り込んだ。ご飯を続けてかきこむ。
「ま、その後紆余曲折あってここにいるんだけど。ほら、遠慮しないで」
ともすれば箸を置きがちなお夢に、洋子はしきりに食べるように勧める。
「強いんですね。そうやって食べられるくらいですから」
お夢の呟くような言葉に、洋子はどきっとした。考えてみればこの歳の子供で親を亡くしたと言えば、精神的なショックも大きくて思い出させれば食欲をなくすのは当然だ。
「──まあね、親に死なれて数日で私は売られたから。悲しんでる暇もなかった」
そこで何故、そう応じたのかは自分でも分からない。が、今度はお夢が動揺した。
「──すみません。嫌なこと言って」
「いいよ。こっちも悪かったし」
場が自然と暗くなる。と、そこに
「あれ? 天城先生じゃないですか」
声がした方を見ると、同じ井上の隊の平隊士だ。名前は確か名島喜一。平隊士以下は全員屯所に寝泊まりするが、非番なので外に食べに出たらしい。
「へえ、また子供と食べてるんですか。お優しいんですね」
顔は好意的に笑っており、皮肉ではない。助勤筆頭の沖田が子供好きなので、新撰組では隊士が暇なときに子供と遊ぶことは別に構わないのだ。
「一緒に食べる?」
四人がけの席に二人で座っており、席は空いている。相手は周りを見回して適当な席が他にないのを知ると、お夢の隣に座った。
「で、これからどうする?」
夕食を食べて名島と別れた後、洋子はお夢にそう訊いた。
「橋の下に帰って寝ます。今日はありがとうございました」
「橋の下、か。ちょっと物騒すぎない?」
以前ほどではないにせよ、相変わらず夜はどこかで人斬り事件が起きている。
「でも、お金もありませんし…」
禁門の変で焼けた家は三万戸以上にも登る。どこも自分の家を建て直すのに必死で、身寄りのない子供に構っている暇はない。うつむく相手に
「そうだ、お夢。洗濯と炊事できる?」
「はあ、一応は」
頷いたお夢に、洋子は手を打った。
「ここで会ったのも何かの縁。うちに来て一緒に暮らそう」
思わぬ提案に、お夢は目を丸くした。が洋子は一人勝手に合点して
「毎日、掃除洗濯やるのも面倒なんだ。たまには家庭料理も食べたいし、第一この子のためにもなる。よし、決めた」
子供の手をしっかりと握り、はぐれないように連れ帰ったのである。
「あの…いいんですか、ホントに」
平屋建ての長屋の一軒に連れてこられ、お夢は不安そうに訊いた。
「いいって。他の人は妾を囲ってるんだから」
扉を開けながら洋子は応じた。お夢を中に入れて閉じる。
「取りあえず今日は私の布団使って。明日になったら色々見繕ってくるから」
少女は驚いて自分を連れてきた人間を見上げた。
「え、で、でもそれじゃあ…」
「大丈夫よ。世の中には四日連続で仮眠状態でも平気な奴がいるんだから」
真冬に風邪にもかからずにね、と付け加える。それに比べればこの程度は何でもない。
「それで、早速一仕事お願いするわ。庭に干してる服、持ってきて」
お夢は頷いたが、部屋の中と外では相手の声がまるで違うのに気づいた。音声、口調、何もかもだ。更に庭に行くと、ふんどしらしい布がない。
「あのう…ひょっとして、洋さんって…?」
羽織と袴を取り込み、中に入れながらのその問いに、洋子は頷いた。
「そういうこと。隠しても仕方ないしね、よろしく頼むわ」
軽く笑ってみせる。お夢は信じられない思いだった。