るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十六 寒い夜(1)

 「あ、土方先生」
道場で稽古をつけていた洋子は、気配に気づいて顔を上げた。
「天城君か。元気そうだな」
慶応三年の十一月初旬。江戸に隊士徴募に行っていた土方が、京都に帰ってきた。新入り隊士は精鋭に絞って二十数人。これまでの慣例では、彼らはしばらく洋子が面倒を見ることになる。
「またみっちり、しごいてやってくれ」
「はーい、分かりました」
洋子の明るい応答に、土方は視線だけ彼女に向け、本当に微かに笑みを浮かべて軽く会釈した。


 第十五代将軍の徳川慶喜が大政奉還してから、既にしばらく経っている。この頃、京都の政界では岩倉具視を含めた一部の貴族を擁する薩長と幕府の間で、主に慶喜の処遇を巡って激しい駆け引きが展開されているのだが、洋子には差し当って直接には関係のないことだった。無論、監察方としての仕事はあるのだが、近藤はそういう裏の活動を指示するよりも本人が周旋に動き回る性質のようで、同僚の吉村なども含めて意外と暇だった。
「斎藤さんも、もう少し暖かい所を指定してくれればいいのに」
鴨川沿いの茶屋の店先で、お茶を飲みつつ洋子はそう呟いた。旧暦の十一月はもう冬で、紅葉は完全に散ってしまっている。京の冬は風はあまりないが底冷えがするため、何もしないと動きに影響するのではないかと思うほど足が冷たくなる。
「斎藤さん、遅いなあ。お茶がぬるくなって来ちゃった」
唇を尖らせてそう呟き、手に持っていたお茶を一気に飲み干すと背後から気配を感じた。
「遅かったですね、斎藤さん」
気配の主は返事をしない。洋子は背後を振り向いて、目の前に立っている簾髪の男を見上げた。そして
「何で素直に表の方から現れないんですかね、斎藤さんは」
「気づかれないように裏道から来てるだけだ」
ぶっきらぼうに応じる。さっきから洋子はずっと大通りの方を見ていたのだが、斎藤は茶屋の裏の細い道を通ってきたのだ。
「気づかれないようにとか言うくらいなら、人がちょっと何かしたくらいでぶっ叩くのもやめて下さいね。目立つんですから、あれは」
   バキッ!!
「阿呆。あれはお前が悪い」
洋子は叩かれた脳天を押さえつつ、痛そうな顔で不満を述べた。
「目立つと言った傍から人を叩いておいて、何が気づかれないようにですか。前言撤回してください!!」
「前言撤回? 何でそうなるんだ、この阿呆。お前に気づかれないように裏道から来た、それで筋は通ってるだろうが」
何度か目を瞬かせた洋子は、相手の台詞の意味を理解すると半分キレた。
「何で最初からそういう気でいるんですか!? 私は何にも悪いことやってないのに!!」
   ボカッ!!!
「お前には前科がありすぎる。自業自得だ」
言い捨てて、斎藤はさっさと歩き出す。数秒うめいていた洋子だったが、気づくと慌ててその後を追った。

 どこへ行くのか分からないが、川沿いを上流に向かって歩きながら斎藤は洋子に訊いた。
「それで、屯所の方はどうなんだ」
「昨日、土方さんが江戸から帰ってきました」
「そうか」
応じたきり、斎藤は何か考えているらしく黙ってしまった。
「何かあるんですか?」
「別に何もない」
またこれだ。私のことにはすぐ首を突っ込みたがるくせにと洋子は思い、不満そうに言った。
「とか何とか言って、実際に何かあってからだと遅いんですからね」
「少なくとも、お前が直接どうかなる類いの話じゃない」
「じゃあ何です、他の人に関係のある話ですか?」
そこで不意に、斎藤が立ち止まった。手で隠れろと合図され、洋子は咄嗟にすぐ後ろにあった木の陰に身を隠す。そして周囲を見回すと、数間ほど先にある橋の上を伊東甲子太郎と見知らぬ男が並んで歩いて来るところだった。その後洋子たちの前を横切るが、こちらに気づいている様子はない。
「誰ですか、あれは?」
二人の姿が建物の影に隠れて見えなくなったところで、洋子は訊いた。斎藤が短く答える。
「薩摩藩の中村半次郎だ」
「薩摩!?」
今や長州と並んで倒幕派の急先鋒である薩摩の、西郷や大久保ほどではないが中心的人物と、伊東が並んで歩いているのだ。一瞬奇異に感じ、次いで内心警戒を強める洋子は、無言のまま再び歩き出した斎藤を見やってあることに思い当たった。
「さっきの話、ひょっとしてあの二人と関係ありますか?」
「──ないとは言えんな」
低い声で肯定する。少し息を呑んだ洋子に、斎藤は
「俺もまだ調査中だ。はっきりしたことは言えんがな」
と付け足して、歩いていった。

 屯所に帰って来た洋子は、副長室で座って待っていた。足音と共に土方の気配がして、襖が開く。正面に腰を下ろした相手は、少し驚いた様子で
「どうした、洋? その格好は」
洋子の服を含めた体全体が、砂と埃と泥にまみれて非常に汚れている。顔だけは後で洗ったのだろう、それなりに綺麗だった。当の本人は、不満たっぷりの口調で
「さの字ですよ。相変わらず無茶苦茶な稽古するんですから」
あれから斎藤が向かったのは、京都の外れにある小さな神社だった。そこの境内で例によって例の如く、降伏もしくは気絶するまで何本でも打ち込むという稽古をしてきたのである。いつもなら一度で終わるのに今日は三度もやらされまして、と言う洋子に
「それは大変だったな。──で」
それだけで気づいた彼女は、懐から手紙を出して土方の前に置いた。受け取った相手は、すぐにそれを自分の懐にしまう。いつもなら洋子はそれですぐに立ち上がって部屋を出るのだが、今日は座ったままなのに土方は気づくと
「何かあったか、洋子」
洋子は一瞬躊躇ったが、ややあって
「実は今日、稽古する前に、伊東先生と薩摩藩の中村半次郎が並んで歩いているのを見ました」
「──ほう…」
土方は興味ありげな表情になった。洋子は内心はともかく、顔色は変えずに
「私たちはそのまま稽古場所に行ったので、詳しい事情は今のところよく分かりませんが。どうします? 調べるなら私が調べますよ」
「いや、お前は斎藤から情報を取ってくるだけでいい。もしばれたら元も子もない」
「──はい、分かりました」
洋子はそう応じて、間もなく部屋を出た。気配が遠ざかったのを確認した土方が、懐から手紙を取り出して読む。
「──」
読み進め、最後のところで表情が厳しくなる。そこにはこうあった。
『いの字が何か企んでいる由。私が調べているゆえ、詳細はしばしお待ちを。ただし、警戒を怠りたもうべからず』
「決着をつける時が、来たようだな」
土方は、低い声でそう呟いた。


 御陵衛士は、高台寺の月真院を屯所としている。斎藤が夕刻前に洋子と別れてそこに戻ると、誰かが道場代わりの本堂で稽古していた。
「篠原先生。紙と墨、買ってきましたが」
と、斎藤は普段皆が寝泊りしている部屋に一人で残っていた篠原覚之進に、帰還報告をした。最近の彼は、物を買ってくるという名目で出かけることが多くなっている。そういう雑用を担当するはずの下男も伊東などに着いていって、いないことがよくあるのだ。
「ああ、ご苦労さん。いつも済まない」
篠原が軽く会釈したところに、本堂から気合のこもった声が聞こえる。
「あれは誰ですか?」
「藤堂君と服部君だと思うが。そう言えば、毛内君が君とやりたがっていたぞ」
「毛内君が、私と?」
斎藤は目を瞬かせた。篠原はあっさり頷いて
「そう。新撰組の太刀筋を研究するとかで、それには元剣術師範の君とやりあうのが一番いいと言ってな」
その言葉に、斎藤は内心訝った。実のところ毛内は、御陵衛士の中では余り剣術が出来る方ではない。新撰組時代も洋子に稽古を挑んでは負けており、また古典の講読にも加わるなど学者肌の人間だった。やはり何か陰謀があるのか。
「私の剣術は、少々特殊ですが」
「それは毛内君に言ってくれ。本堂にいるから」
そう言われ、斎藤は紙と墨をその場において、本堂に向かった。

 

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