るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十六 寒い夜(3)

 斎藤と別れた洋子は、その後屯所の副長室に直行してまだ朝食を食べ始めたばかりの土方にそれを渡した。懐にしまった後、再び食事をし始めた彼は、一礼してそのまま出ようとした洋子に声をかける。
「天城君」
「はい?」
こういう場合に、彼が声をかけること自体が珍しい。振り返った洋子に
「朝飯は食べたのか?」
「いえ、まだです。あんまり朝早いから、お夢に作らせるのもどうかと思いまして」
「そうか。ならここで食うか?」
意外な一言に、彼女は何度も目を瞬かせた。そして相手の真意を窺うような顔と声で
「宜しいん──ですか?」
「ああ」
土方は小姓を呼ぶと、もう一人分食事を持ってくるように指示した。小姓がいなくなった後、一息ついて腰をおろした洋子に
「さの字は何と言っていた」
それか、と洋子は思った。声を落とし、ご飯を口に入れた相手に告げる。
「緊急に連絡する用件が出来たと。この間から調べていた件の結果だとも」
「──近藤先生は、大丈夫だろうか?」
味噌汁を飲んだ後、土方は訊いた。近藤は休息所と呼ばれる私邸に泊まるのが常で、今朝はまだ屯所には来ていない。
「今朝はないと言ってました。あったら夜中にでも呼び出していると」
「そうか、分かった」
そう言うと、後は黙って焼いたメザシを頭からむしゃむしゃと食べる。一方の洋子は朝食が来るまで動けず、こちらも黙って待っていた。
 土方は、昨日二条城で近藤が頼まれたという用件を思い出していた。徳川御三家の一つ、紀州藩の関係者である三浦休太郎の身辺警護だ。これを当面、斎藤と洋子の二人に任せる。伊東の件はそれ以外の隊士で処理する。
 程なく洋子の食事が来る。食べ始めてしばらくした後、土方はふと思い出したように
「新入り隊士の様子はどうだ?」
「別に、今までと大して変わりませんよ。言うこと聞かない奴でも一回叩きのめせば大丈夫ですから」
見るからに十代で線が細いこともあり、洋子は新入り隊士に甘く見られることが多い。そういう相手とはまず立ち会って、三本取ってしまうのだ。これで新入りはほぼ大人しくなる。斎藤がいないと喧嘩もないので、特にこの手法は有効だった。
「さの字が帰ってきたら、また元通りだぞ」
「──分かってます。これくらいの距離が一番いいんですけどね、今まででは」
その台詞を聞いた土方は、溶き卵を醤油で味付けしたものをご飯にかける洋子を意外そうに見つめた。斎藤との関係について、肯定的なことを言うのは彼の知る限り初めてだ。
「? 何かついてます?」
「いや、そうじゃない。──今日中に、さの字とまた会えるか?」
「大丈夫──だと思います。こっちでどうにかします」
最初は弱い、次いでやや強い口調で洋子は応じた。土方は箸を置いて
「そうか。では、昼過ぎにまたここに来てくれ」
「分かりました」
しばらくして洋子は朝食を終えると、部屋を出た。

 「こら、阿呆。逃げるな」
   バキッ!!!
洋子はいきなり、背後から一撃を食らった。斎藤の家の外、庭側の塀のところでだ。日はほとんど沈んでしまっている。
「ったく。人の家まで来て、俺が現れたからといって逃げる阿呆がいるか」
「逃げるんでなくて、様子を窺ってただけです」
「で、隙あらば俺に一撃加えようと思ってたわけか」
内心ギクッとした洋子に、斎藤は更に強烈な一撃を叩き込んだ。
「お前の考えることなんざ、俺には全てお見通しなんだ」
「──別にぶっ叩こうなんて思ってませんって。ちょっと驚かせてやろうかな、くらいで」
痛そうにしながら、洋子は応じた。そこにお妙の声が聞こえる。
「あの、誰かいるんですか?」
「俺だ。ちょっと阿呆がいるんでな」
斎藤が応じ、次いで洋子に視線を戻すと、声を落として
「で、何の用だ?」
「これです」
洋子は土方から預かった手紙を渡した。受け取って背後に土方の花押があるのを確認すると、斎藤はそれを懐にしまいながら
「明後日…いや、明々後日の十日がいいか。河原町通りの信州という蕎麦屋で待ってろ」
「時間は正午頃ですか?」
「そうだ」
蕎麦屋というだけで、その程度の見当はつく。取りあえず用事は済んだので、洋子が帰ろうとしたところに
「洋さん、まだいますか?」
お妙の声が聞こえた。洋子はかなり大きな声で
「はーい、います!」
「ぬか漬けですけど、良かったら持っていってくれます?」
「あ、はーい!」
何でお妙には返事がいいんだと不機嫌になる斎藤を尻目に、玄関まで小走りで向かった。

 いよいよ、新撰組側も伊東を誅殺するつもりのようだ。土方からの手紙を読んだ斎藤は、そう覚悟せざるを得なかった。
 土方が要求しているのは、御陵衛士が屯所にいる数が最も少なくなる日の情報と、その日以前に斎藤自身が御陵衛士を抜けることだった。どうやら諜報である自分ごと殺すつもりまではなさそうで、それ自体は安堵したが、問題はその後のことだ。名前は書いていないが、要人の身辺警護をやることになる可能性が高いという。
「随分、気の利いたことだ」
と斎藤は呟く。どうやって殺すのかよく分からないが、御陵衛士の情報収集に関わった者たち──つまり斎藤と洋子を、暗殺にまで関与させる気はないらしい。『気心の知れた者』をつけるとあれば、それだけで見当がつくのだ。諜報だったと知れれば一生狙われる可能性があるので、有り難いと言えば有り難い。
 そろそろ終わりだ。斎藤はそう、腹を決めた。


 近藤から伊東に宴会の申し込みがあったのは、十一日の朝だった。
「十八日?」
「そう。何でも今後のことについて、互いに意見を交換したいそうだ」
「ふむ」
下男から手紙を受け取って読んだ伊東が、その場の皆に説明していた。彼らの方では、近藤暗殺の決行予定日を二十二日と決めたばかりである。妙に時期が符合していた。
「分かった。応じることにしよう」
伊東の言葉に反対したのは、最年長者の篠原である。
「やめた方がいい。ちょっと危険すぎはしないかね、この時期に宴会など」
「だが、断ればそれはそれで感づかれる可能性もある」
伊東の指摘も当たってはいるのだが、篠原は不安だった。まさかとは思うが…。
 そこに、新たな人の気配がした。祇園に行った連中が帰ってきたかと思って迎えに出た藤堂は、数人の中に古いなじみの顔がいないことに気づく。
「おい、斎藤君は?」
「何でも急用を思い出したとかで、戻っていきましたが」
「多分、物を忘れたか何かしたんでないの? それを口実に誰かに会いに行くとか」
毛内と阿部が続けて言う。そして毛内が再び
「まあ、そのうち帰ってくるでしょう」
だが、斎藤は二度とこの月真院に戻ってくることはなかった。

 斎藤は、脇道からの僅かな気配に気づくと、毛内たちと別れてそこに入った。昨日会ったばかりの洋子が、塀に隠れて待っている。彼女は土方からの手紙を渡すと、押さえた口調で
「我々の任務は、今日で終わりだそうです。詳しくはこれに書いてありますが」
「──そうか」
読み始めた斎藤から顔を背け、洋子は呟くように
「伊東先生たち、どうなるんでしょうね」
「さあな」
斎藤は手紙を読みつつ、興味なさそうに応じた。むっとした様子の洋子だが、それを言える立場にないことを思い出すと、うつむいて
「どうせ殺すんなら、私も現場に加わるべきだと思いません?」
思い詰めた声に、斎藤は顔を上げた。
「だってそうでしょう。私は新撰組の剣術師範で、以前は伊東先生とも親しかった。他の隊士への示しにもなりますし、第一沖田さんも戦えないのに」
「阿呆。そういう余計なことを考えるな」
「余計なことって言いますけど」
不満げに反論しかけた洋子を、斎藤は途中で遮って
「お前が言うようなことは、副長も当然考えてる。その上で、俺と一緒にこの三浦とかいう奴の護衛をしろと命じたんだ。つべこべ言わずに従ってろ」
「──でも」
食い下がる洋子を見て、斎藤は手紙をいったん懐に収めた。そして
「御陵衛士と戦うことになったとして、お前に奴らが斬れるか?」
「斬れます。でなければ、斬られるだけでしょうから」
勢いよく、ほとんど即答した彼女の、微かな声の揺らぎを斎藤は聞き逃さなかった。
「立ちあう際に、一瞬でも迷いが生じないと言えるか?」
一瞬詰まった洋子は、次には反発して
「そう言う斎藤さんはどうなんです!? 彼らと半年以上も暮らしてて、そりゃあ関係そのものは割り切るとしても、お互いの手の内は知り尽くしている。しかも」
「俺の手の内を、奴らが?」
阿呆が、と斎藤は嘲笑した。俺がそんなへまをするか。
「牙突の基本形は見せたが、弐、参、零は見せてない。いずれ直接戦うかも知れん奴らに見せられるか」
洋子は、不愉快なのと意外なのとが混ざった口調で訊いた。
「それでよく、まともに稽古が出来ましたね」
「だからお前とやったんだ」
「あ、そうなんですか──って」
相手の台詞の意味を理解すると、一気に少女の機嫌が良くなった。満面のといっていい笑顔で、自分の師匠に話しかける。
「やーっと、斎藤さんも私の実力を認めてくれたんですね。自分の稽古相手に適切だって。苦節七年、努力がようやく認められました」
「──」
斎藤は、顔を背けると無言で歩き始めた。クスクス笑ってそれを追いつつ
「あ、素直じゃないですね。でも確かに言いましたよね、『だからお前とやったんだ』と。斎藤さんは忘れても、私は覚えてますからね」
   バキッ!!!
「叩いたくらいで忘れるもんですか。やっと、斎藤さんが私を一人前だと認めてくれたんですからね。あーすっきりした」
斎藤は、無言のまま歩く速度を上げた。洋子はそれについていく。

 

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