るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十六 寒い夜(4)

 それから七日後の、慶応三年十一月十八日の昼過ぎ。鎖帷子の上から羽織を着て大小を帯び、準備を整えた土方は、局長室に足を運んだ。
「では、行って来る」
「──分かった」
近藤の声は重かった。内心、御陵衛士たちが自分を殺そうと計画しているのを、どこかで信じかねている。殺そうとしている相手の招宴に、伊東ともあろう者が一人で応じるだろうかと。更にその後の作戦も、近藤の意には少々添わなかった。新撰組を脱退し、近藤を殺そうとした者への見せしめという土方の意見に押し切られたのだ。
「近藤さん、あんたは普通に振る舞ってくれればいい。後は俺が引き受ける」
土方は近づいてきて、念を押した。今日の宴会には土方は参加せず、今から現場に行って手はずを整えることにしている。実働部隊の指揮も、彼が取る。
「ああ。分かっている」
「では」
近藤が頷いたので土方は軽く一礼し、立ち去った。その足音が遠ざかった後で、近藤は息をついてふと立ち上がると部屋を出た。廊下を歩いて道場に行き、稽古をつけている永倉に声をかけて自室へ呼ぶ。ほどなく現れた彼に
「今夜のことで、相談というか頼みがあるんだが」
と、小声で告げた。計画のことかとピンと来た彼は
「何でしょう」
「平助だけは、出来れば助けてやってくれんか」
ややうつむき気味の顔で、近藤はそう言った。軽く息を呑んだ永倉に
「平助は古いなじみだし、もし可能ならば斬らずに見逃してやって欲しい。もともと敵もさる者、恐らく何人かは斬り抜けるだろう。平助もそうさせてやりたい」
「しかし…」
永倉は戸惑っていた。先ほどの会議では、藤堂平助も含めた御陵衛士の壊滅が最終目的だったはずだ。それを一人見逃せと、他ならぬ局長が言うとは。
「平助がああなったのも、あの性格ゆえだろう。薩摩や長州も含め、攘夷など実はほとんど誰も考えていないにも関わらず、平助は未だに信じている。──頼む」
上手く考えを表現できないのだろう、近藤は最後には頭を下げるばかりだった。だが、その姿を永倉は相手の本心と感じ
「分かりました、やってみましょう」
請け負った。ばっと勢いよく顔を上げた近藤に、永倉は冗談めかして
「ただし、失敗しても恨まないで下さいよ」
「分かっている。──感謝する」
近藤は、再び頭を下げた。

 「誰かと一緒に行った方がいいと思うがね」
「いや、私一人でいい」
篠原の勧めを、伊東は断った。夕刻前、これから近藤の私邸に出かけるのだ。
「そうかい。しかし、大丈夫かねえ」
篠原は、不安そうに首をひねった。吐く息が白い。
「結局斎藤君もあれきり姿を見せてないし、そうでなくとも」
「なに、私も腕には多少自信がある」
伊東は、江戸では北辰一刀流の免許皆伝まで行き、京都に来てからも新撰組などで実戦経験を積んでいる。刺客の一人や二人は、返り討ちにする自信があった。
「あんたがどうしてもと言うなら止めないが、どうも嫌な予感がするんだ。この話を最初に聞いた時から」
篠原は不安と不満が混じった顔で、ため息混じりにそう言って奥庭に戻った。

 その晩は、まだ初冬と言える時期にも関わらず特に寒かった。月が昇り始めた頃に伊東が着いた近藤邸では、土方と永倉を除く新撰組幹部が顔を揃えている。
「おお、皆さんおそろいですな」
「今日は来たい者は来ていいと言いましたので」
「そうですか、それはそれは」
宴会の場所に入った伊東が一礼しつつ一座の様子を見回すも、別に変わった様子はない。だが、その場に二人の人物がいないことに気づき
「土方先生と永倉君は?」
「二人とも別件で忙しいと言って、今宵は来ておりません」
近藤はそう応じた。少なくとも嘘ではない。
「そうですか。──来ていないと言えば」
主賓として上座に向かいつつ、思い出したように伊東は言った。
「斎藤君が少し前に祇園のある料亭で別れたきり、戻っていないのです。こちらの方で、何か消息をつかんではいないでしょうか」
「斎藤君が?」
近藤は、驚いた表情でそう訊いた。次いでその場の隊士に視線を向ける。それぞれ周囲の者たちと話し合っている中で、元監察の山崎が
「少なくとも、我々は何も聞いておりませんが。──そう言えば、天城先生も数日前からいらっしゃらないので、戻られたときに訊いておきます」
「天城君も?」
今度は伊東が、意外そうな顔をする。そして斎藤が御陵衛士に加わったときの条件を思い出し、そういうことかと一人思っていると
「まあ、今夜は大いに飲みましょう。久しぶりに先生のご高説を伺いたいものです」
熱燗を手に、近藤がそう言った。伊東は杯を手に取り、なみなみと注がれた酒を飲み干す。

 それから一刻半(三時間)後、伊東は近藤の私邸を出た。泥酔とまでは行かないがかなり酔っており、月真院への道を歩く足下が少しばかりおぼつかない。
 宴会中、伊東は長々と演説をぶった。一ヶ月ほど前に出した建言書とほぼ同じ内容で、まず公卿を中心とした朝廷に軍事指揮権を返すべきだという。徳川などはその補佐の任に当たるべきだというのだが、近藤は無言だった。一方、防衛体制を整えた上での海外雄飛論には近藤も賛成し、この点では両者の意見が一致した。
「これは水戸の会沢と申す者が唱えていた論なのですが、いや、さすが近藤先生。お分かりが早い」
「なに、攘夷と言ってもまずは守りを固めねばなりますまいから」
伊東に酒を勧めながら、近藤は笑顔で言った。近藤自身は酒は飲めないが、人に酒を飲ませるのはうまい。伊東も勧められるままに、どんどん飲み干していったのだ。そして再会を約して別れ、月真院に向けて歩いていったのが戌の二刻だった。
 旧暦の十八日は、まだ月は明るい。この日のように晴れた寒い夜ともなれば星も常よりよく見え、手元の提灯だけで帰れるだけの明るさだった。だから伊東も余人はいらないと断ったのだ。一人、七条木津屋橋通を東に歩いていく。
 東西に延びる木津屋橋通が、南北に通じる油小路との角に差しかかった時だった。ふっと何かの気配がして、咄嗟に伊東が刀の鞘に手をかけた瞬間
「うぐっ…!!」
喉に圧迫感を伴った激痛が走り、左右に目を走らせると一人の男が自分に斬りかかって来た。流石と言えるか、伊東はその男を抜き撃ちで斬って捨てるも、喉に新たな激痛が走り、口から大量の血を吐く。地面に血まみれの槍が落ち、凶器の正体を知らせた。
 伊東は数歩歩き、角を曲がってある建物の前に座り込む。それが本光寺という寺であることは、多量の出血で薄れていく意識の中では知覚出来る状況になかったろう。ただ、辞世の長詩を血で書こうとし、書いたか書かぬか分からぬうちに絶命した。
 伊東甲子太郎、享年三十三歳。この作戦を指揮している土方と、実は同い年であった。

 「どうやら、死んだようです」
角から伊東の様子を窺っていた平隊士が、戻ってきてそう告げる。土方は
「そうか。よし、死体を七条油小路まで運べ」
「は?」
驚いて目を瞬かせたその平隊士に、彼は顔色一つ変えずに
「死体を囮にして、連中が来るのを待ち伏せして倒すんだ」
その内容に心まで冷えて、他の平隊士と顔を見合わせる。永倉が横から言った。
「ほら、行くぞ。死んだ人間を運ぶことに違いはない」
そう言って向けた視線の先には、伊東に斬殺された同僚の死体を運ぶ隊士の姿があった。永倉がさっさと伊東の死体の前に向かうのを慌てて追う平隊士たちを見やりつつ、土方は内心呟く。
『これで、奴らは確実に来るだろう。──予定外の事態が、起きなければいいがな』
運ばれる死体よりもかなり先の方に、彼の視点は移っていた。


 その頃、六条花屋町通と油小路通の角をやや下ったところにある天満屋で、厠から戻ってきた洋子は手をこすり合わせながら、同じ部屋にいる斎藤に言った。
「雪でも降りそうな寒さですね」
「いや、さっき縁側に出たら星が見えた」
無愛想に応じる。座って囲炉裏に手をかざしつつ、再び洋子が
「あれから何も連絡ありませんけど、大丈夫ですかね」
心配そうに言う。斎藤はろうそくの火を見つめながら、何か考えている様子だった。
 この七日ほど、二人は紀州藩の三浦休太郎の身辺警護をしながら過ごしている。と言っても、三浦の外出に同行するのは洋子の方で、斎藤は御陵衛士に見つかるのを恐れて三浦に匿われていると書いた方が適切だろう。時折稽古のために庭に出る程度で、門の外には一切出ていない。
 それから程なく洋子は自分の部屋に戻って、布団を敷いて寝ようとした。布団をどさっと畳の上に置いたとき、ふと、血の色が脳裏をよぎる。人を斬った瞬間にぱっと飛び散る、紅い鮮血の色だった。
 胸騒ぎを感じ、一瞬立ちすくむ。目を数回瞬かせて目の前の光景ではないことを確認すると、大きく息をついて洋子は布団を広げた。そして素早く服を着替え、横になる。
「嫌な予感がするなあ」
ため息混じりに呟いた少女は、同時に進んでいた事件を無意識のうちに感じ取っていたのかも知れなかった。

 

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