るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十八 粛正(1)

 「御免!」
 出雲訛りでその声は言い、部屋の襖を開ける。最近よく来るな、と洋子は思った。
「ああ、武田先生ですか。どうぞどうぞ」
伊東が穏やかに応じる。来た男は一番前の中央にどさっと腰を下ろした。
 男の名は、武田観柳斎。新撰組五番隊組長である。

 洋子は前と変わらず、伊東のやる古典の講読には参加していた。公卿宅への同行の件は『副長の命令で中止になった』という風に解釈されたようで、彼女が来たからと言って睨まれるようなことは全くなかった。言うなれば土方が泥を被ったのだが、彼がそれに介入した理由や事情を全く知らない洋子は感謝の「か」の字もしていない。無論斎藤にも。
「──ほう、武田君が」
「そうなんですよ。おかげで講義の後の話し合いが長引いてるんです。私はお夢が待ってるから途中で切り上げて帰るんですけど、篠原さんとかに聞くとかなり遅くまで議論してて、その後伊東先生と食事に行くこともよくあるみたいで」
ちょっと注意しててくれませんか、と洋子は斎藤に言った。蕎麦屋での昼食の席だ。
「注意すると言っても、だ。もともと武田君も学者だしな」
「前から来てたんならともかく、ここ一ヶ月くらいで急に、ですから。──山南先生の時のこともありますし」
最後の台詞に、斎藤は表情を改めた。──当たってるかどうか知らんが、どうやらこの阿呆にはよくない予感がするらしい。そう思って口の端で笑うと
「分かった。ただし条件がある」
「条件?」
「お前が、平隊士どもまで道場に上げるのをやめることだ」
洋子は数秒後、何かを押さえつけているような口調で訊いた。
「──それとこれと、どういう関係があるんですか」
「阿呆。相手が減ればそれだけ一人に注意が行くだろうが」
「だったら、永倉さんとかに手伝ってもらえばいいじゃないですか! 私にばっかり肩代わりさせなくても!」
   バキッ!!
「そもそも、この用事持ち込んだのはどこのどいつだ、この阿呆。その分の負担はしろと言ってるんだ」
「その分の負担って、これがもし万一の事態になったら斎藤さんの方にだって迷惑が及ぶんですからね。自分からやってもいいでしょう、代償なしで!」
   ボカッ!!
「だったらお前がやれ、ったく。第一根拠もない」
「それが出来るなら誰も斎藤さんなんかに言いません!!」
「──おい、こら。二人ともこんな場所で喧嘩するな」
三たび殴りつけようとした斎藤の刀の鞘をつかんだ男が、そう言った。二人ともその方向を見やって、半分以上凍り付く。
「ったく、ここは屯所内じゃないんだ。──で」
掴んでいた手を離し、新撰組副長土方歳三は二人を交互に見やった。
「食事がすんだら、屯所の副長室までどちらか出頭だ」
それだけ言って、土方は店を出ていった。

 「──それで、何を話していた?」
土方の問いに、洋子は言葉を詰まらせた。
 言い出したお前が行け、というわけで彼女が副長室に来ていたのである。一対一で副長室にいるとなると、いくら試衛館からの付き合いの洋子でもかなり緊張する。
「別に大したことじゃないんです、ホントに」
「──武田君のことか?」
洋子は驚いた顔で土方を見やった。それを見下ろして
「分かるさ、その程度は。ああも毎日来てればな」
「──ご存じでしたか」
声に、ため息が半分だけ混じっている。土方は平然と
「まあな。──斎藤君より監察に任せた方がいいだろう」
その言葉に、洋子は思わず不満の声をあげた。
「でも、単に私が個人的に気になるって程度で、証拠も何もないんですよ。いきなり監察さんたちに任せなくても」
事が大きくなりすぎる。というか、初めから疑ってかかるようなものだ。
「いや、お前だけじゃない。俺も気になっていた」
生まれも考え方も違う二人の人間が、同じことについて懸念を持つ。それだけで十分調査の根拠になると土方は言った。
「山南や柳沢・松原のことが念頭にあるんだろうが、こういう事は専門の奴らに任せた方がいい。お前には日常の仕事の方が遙かに重要だ」
「──余計なことに口を出すな、と言いたいんですか」
「この一件には、な」
二人の間の沈黙を破ったのは、道場の方からの凄まじい音だった。
「戻って上司の手伝いでもしてやれ」
「──分かりました」
洋子は息をつきながらそう言って、部屋を出た。さすがに向こうの状況が気になるらしい。
 それを見送ってから、土方は監察たちの部屋に行った。

 参ったというか何というか、である。斎藤は道場に上がっていた平隊士を、全員庭に突き落としてしまっていた。
 もともと平隊士の間には、実力の差が少なからずある。中には伍長や組長などとほぼ変わらない剣腕を持ちながら、人格や経験その他の問題で平隊士に留まっている者もいるのだ。洋子はそうした者たちが庭ではなく道場に上がって稽古するのを、ある意味で奨励さえしていた。組長級がほぼ固定されている現状では、伍長以下の立場も大きくは変動しづらく、平隊士の中には実力はありながら入隊以来三年も地位がそのままという者もいる。彼らの不満を緩和する意味でも、平隊士でも実力のある者は道場で稽古可という方針を洋子は最近取っており、斎藤はそれを今までは黙認していた。
「──何なんですか、これは」
「阿呆。お前もたまにはこいつらの相手をしろ。手伝え」
返事をしないで竹刀を取りに道場に入る洋子に、近づいてくる。
「──で、どうだった」
「監察を動かすそうです」
小声で短くやり取りをした直後、危うく彼女は一発食らいそうになった。
「──何でいきなりそうなるんですか。何も変なこと言ってないでしょうが」
「常識として返事くらいしろ。阿呆が」
「返事してやらなかったらまた怒るでしょう。面倒だから言わないだけです」
   バキッ!!!
「ったく、半刻前のことくらい覚えておけ。この阿呆」
失神寸前の一撃を肩に食らい、呻いている洋子に斎藤はそう言った。


 実のところ、武田観柳斎は新撰組の内部では余り人気がない。
 目上には従順だが下の者には傲慢、と来れば誰でも嫌がるものだが、これ自体は人間の習性であって誰にもそういう面はある。問題はその程度であり、武田はそれが極端でかつ図々しいのだ。だから後から参加しているのに堂々と一番前の席の真ん中で伊東の講義を聴いたり、連日飲みに行ったりするのである。
 だが斎藤が洋子に言ったように、武田は学者、それも軍学者だった。だから隊内でも貴重な存在として扱われ、近藤はしばしば会津藩などとの会合に彼を連れて行くなど、重用していた。ただその軍学自体が戦国時代からほとんど変化しておらず、最近の西欧からの軍事技術やそれに伴う戦術の変化に対応していないのが実状で、もう純粋な軍学者としてはほとんど役に立たない。
 が、軍学を学ぶ上で身につけた教養などは決して無視できるものではない。加えて剣客としても一流であるため、五番隊組長という地位を今も持っているし、それなりの待遇も表面的には与えられている。だが土方は、一番脱走しそうなのはこういう奴だと考えて密かに警戒していた。教養があってある程度の時局判断が出来、しかも今いる組織での立場が危うくなっている。見切りをつけても不思議ではない。
 上層部では十四代将軍家茂の死と慶喜による「徳川宗家の家督相続」、第二次長州征伐の失敗など、このところ幕府側に不利な情勢が続き、それに不安を覚えて脱走を計画する者の一人や二人は出てもおかしくない、と土方は見ていた。無論、それが誰であろうとこちらとしては斬り捨てるのみだが。
 そういう背景があったから、土方は洋子の話にも積極的に反応したのである。観柳斎自身を彼が好いていないということも少しは影響したかも知れないが、個人的感情と組織の管理は別にして考えるという原則はわきまえており、煙もないのに火を疑うような真似はしたことがないと自分で断言できる。
 彼の見るところ、その煙が立った。下にある火がどういうものかは、これから調べていくうちに明らかになるだろう。

 一方、武田の方はその日も古典の講読に出席していた。
「このところ毎日ですね、武田先生」
「いや、学問というのは一度始めると面白くてね。昔に帰ったようになる」
洋子の声に、武田は応じた。伊東はまだ来ていない。
「まして伊東先生の講義はうまい。もう少し早く始めれば良かったと後悔している」
『出た、おべっか。一年前は無学者のお遊びとか言ってたくせに』
内心毒づいた途端、背後から声が聞こえた。
「そうですね、武田先生。遊びのうちに始めていれば我々ごときに追いつかれずともすんだものを」
篠原の声だ。振り返った武田は、一瞬露骨に嫌そうな顔をした。そして
「いやあ、最初から参加すると君たちがついて来れないと思って、遠慮していたんだよ」
はっはっは、と笑ってみせる。相変わらず嫌な人だ、と洋子は思った。

 はっきり言って、洋子にとって武田とは、斎藤や自分の従兄弟とは違った意味で嫌いな人物である。敢えて言うなら、斎藤は「出来るだけ傍にいたくない」人物で、従兄弟は「今度会ったら殺す」相手だが、武田は「本人の話を聞くとむかつく」人間だった。
 嫌みや皮肉が多いし、言うことが矛盾している。そうかと思えばあからさまなおべっかも言う。黙って剣を振るっていればまだいいが、口を開いた途端むかつくのだ。もっとも、これはほとんどの隊士が大なり小なり思っていることで、別に彼女だけというわけではない。斎藤などはほとんど無視していると言って良かった。
「かと言ってすぐに監察たちを動かさなくても」
と、洋子は屯所からの帰り道、ため息混じりに呟いた。